いまや弱者が強者になれる国、日本。大変さを主張するのではなく、行き過ぎた権利ばかり主張するから~様と言われる。今時の弱者はただワガママなだけ。盲導犬でも入れる店もっと多くしろとか乳幼児連れでもカフェに入れるようにしろとかただのワガママだよなぁ。障害者様、子連れ様(笑) https://t.co/QRuQsFKTgr
— メロロ (@meroron8888) 2018年5月21日
行き過ぎた権利の主張は社会を協働して行くには避けるべきところだが、まあ盲導犬が入れる店は多少増えてもよさそうだ。なにしろそれなら、店内の通路も広くなるだろう、サイズが大きめなひとも安心である。
>盲導犬でも入れる店もっと多くしろとか乳幼児連れでもカフェに入れるようにしろ
— jiji (@traductricemtl) 2018年5月24日
当然の主張にしか思えないが??? https://t.co/7tnObGh10U
まあ、いまどき、基本はそうだ。
障害者にしろ子連れにしろ、自分が受けられるサービスをその人たちに与えるな、というのは自分の好みで誰かの人権を制限できると考えていることだとわかってない人がいるけど、それその人権剥奪が差別やねんぞ。
— せんだい歴史学カフェ (@SendaiHisCafe) 2018年5月25日
えらいことグラデーションのある話ではあり、「XX様」といわれるほどの例は本来、相当の異例形である。それは明らかなやりすぎということで、叩かれる。具体的には『四肢に欠損のある私が彼女を連れて昼時・繁忙時にランチに来たのであるが、当然店員たちはこの私を迎えるために店の外、階段の下までやってきて自分を二階の店舗まで持ち上げねばならない。そうしないなら障碍者差別であるから、twitterに店の名前も場所もさらして社会的に抹消してやる』とか。
そうした「xx様」は、社会の個々人のリソースを便利に自由に使い倒そうとするものであり、社会にとって害悪になる可能性が相応にある。たとえば『私は個人商店のパン屋をしています。ハロウィンのころに、うちの子が幼稚園児ということもあり、地元の子供たちむけにお菓子のサービスをしていたんですが―』というような例。評判のパン屋の美味しいお菓子が無料でゲットできるというので近隣市町村から初見の「お客様」がごそっと大人数がやってきて、ついに本来の趣旨から外れたということでサービスをやめてしまった―なんてのは、まあ各県1例くらいあるんじゃないか。
とれるところから根こそぎ資源をかっぱらう、そんな「強者」たちがのさばって、だいぶ世間は生き辛いことです―結局それらは、政治の左右の話と同じように、ふつーの人たちの社会から見て逆方向の極端たちであり、日付変更線をはさんで「お前こそ極右」「お前こそ極左」と罵り合っているんでしょう、鏡をみるような話ですが。「子連れ様」も、「子連れ様叩き」も、まあ一緒の枠でよいでしょう。
ところで、上述の寓話二つから、あるべき状態・問題点が理解できよう。
寓話A:『四肢に欠損のある私』の例の場合。この人が初見の客ではなく、この人がその店の常連で、その紹介でむっちゃ客が増えたのだとすれば、そりゃ店の方だって気を遣うだろう。店にも応分の利益があるように気遣いがあるべきだ、ということになろう。
寓話B:『パン屋なんですが』の例の場合、これは店の常連―多くは近隣住宅地の皆様方―へのサービスなのであり、だから近隣市町村の皆様方だろうと普段から通いつめているひとなら、当然サービスに与ってよいわけだ。このサービスをうけて新たな顧客になるというなら、やはりこれも理屈が立つ。
そうではなく、単に一見さんで無料サービス・ご奉仕サービスを収奪していく存在である・と見做されたがゆえに非難・忌避の対象となるわけなのだ。
ともに生きていく同僚であればこそ、相互に配慮の対象となるわけであり、一方的な譲歩を求めるだけというのは同僚とも友ともいわないぞ、ということになる。
そーゆーとこだぞ。私としても「妻帯者様」から一方的に仕事の純粋な肩代わりを繰り返し求められ、私が独身なのは妻帯者様に御奉仕させて頂くためではないぞ、と思ったことであった。「一週間後のここの当番、子供を保育所に送っていく当番だから替わって☆」が二回連続ってのはどういうことだ。なぜ代理は二回連続私でなければならないか。しかも借りを返さず去ることを私に知らせず、よくもやってくれた。
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