2012年4月14日の記事 「科学博物館 日本館 #10 日本に落下した隕石」の記事で
「直方隕石が世界最古の落下の目撃記録のある隕石である。 貞観3年4月7日(861年5月19日)の夜、武徳神社(今の須賀神社)境内に落下。
翌日、深くえぐられた土中から黒く焦げた石が掘出され、桐箱に納めて保存したという伝承が残っている。」 ※桐箱には、年月日の記載のみ
とウィキペディアからの引用で書きましたが、これが誤りであることがわかりました。 2014年11月3日一部記載修正。
同記事へのコメントをいただいた牛嶋氏の研究ノート(福岡地方史研究50号)から、主要な論拠を引用させていただきます。
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■ 世界最古の隕石と喧伝されるようになった経緯
7① 国立科学博物館の村山理化学部長(当時)が昭和54年(1979年)現地調査を行った結果、
隕石の落下時期は貞観3年4月7日(861年5月19日)に納むと書かれた桐箱の墨書以外に手がかりはない。
宮司や郷土史家から地元の伝承は聞いたが、古文書で落下の記事は見出せなかった。石。
② その後、学習院大学の木村氏により、桐箱の裏蓋の放射線炭素年代測定が行われ、年代的には不合理では
ないこと。 地元の伝承にもあることなどから、世界最古の隕石として1983年に報告され、世界最古の隕石とし
て喧伝されるようになった。
(従来、世界最古の目撃情報を伴った隕石は、1492年フランスのエンシスハイム隕石)
■ 従来の調査に対する牛嶋氏の検証
① 隕石とその容器の年代は、おのずから別問題であり、伝承等も明確さや根拠に欠く。
歴史学的な検証が十分でない。
② 落下に関する古文書があった!
福岡県立図書館所蔵の古文書「筑前町村書上帳」に「下境村祇園社ノ飛石伝記」に詳細な隕石落下の記載がある。
文書は江戸中期の寛延2年(1749年)旧暦5月29日に隕石が落下したときの祇園社宮司岩熊正義による目撃談。
詳細に文書に記された隕石の形状と実物がほぼ一致することから、これが隕石落下の時期を示していると結論される。
古文書の来歴やその写真なども示され、間違いないものと思います。
この結果、直方隕石は国内では四番目に古い隕石となります。
12月6日に科学博物館に行ったおり、日本に落下した隕石コーナを見てきました。
説明プレートには、直方隕石はまだ861年のままです。
いずれ、確認・検証が行われ、直方隕石は、小城隕石の次に収まることでしょう。
今日は、真面目な隕石の話でした。
研究ノートを執筆され、情報をいただいた牛嶋英俊様に御礼申し上げます。
ただの一般人なら見なおされる事はまずないだろ。
それに近年神社の記録がかなり史実に忠実な事がわかってきてるところで、この説はあまり受け入れてはもらえないと思うよ?
箱の年代もちゃんと測ってそれで判断した結果なんだからさ。
説得力がないと思いますがいかがでしょうか。
900年後の未来に隕石が落ちてくることを予測して、「861年に落ちてきた隕石を入れました」って過去に書いたってこと?
昔の人ってすごい予言者だったんだね!
率直にいいますと、なぜ、こんな誤解にもとずく
コメントが寄せられるのか不思議に思ったので
もう一度、記事を読み直すと、私が書いたウィキ
ペディアの紹介記事に問題がありました。
引用 「黒く焦げた石が掘出され、桐箱に納めて
保存したという記録が残っている。」
上の引用文章が正確ではなく、箱には収めた年
月日が記載されているのみで、隕石を納めたとい
う、記載はありません。 地元の伝承として残って
いるのみです。
誤解をまねく記事だったので、お詫びして、早速、
修正します。
少なくても、現状示された情報では一研究者の異説としてとらえるべきもので、多くの研究者による批評、検閲を受けていないこの研究ノートは定説を覆す根拠にならない。
まぁ、ネットに書くのは自由なんだけどね。
ただ、主観的なご意見で、論拠がなく,得心するものは何もありません。
現時点の直方隕石に関するWikipediaを見ると、異説として明確に記述されています。以下一部引用。
”この「飛石伝記」に記録された石の形状が直方隕石と酷似しており、同じ神社に二度も隕石が落下したとは考え難いこと、また国外において最古の記録とされるエンシスハイム隕石(1492年)と比べても861年という年代はあまりにも古すぎること、そして桐箱の蓋に見られる墨書の書体や文体は幕末以降のものであることから、江戸時代に落下したものであると結論されている”
今後、更に検証は進むと思われますが、異説が真説になることは、間違いないと思います。
また、Wikipediaの該当箇所は牛嶋氏の研究を元にした情報から特定の同じ人物(Wikiの編集履歴で確認できます)がほぼ記述しております。その他の資料はないかと確認してみましたが、現状ほぼないに等しいので以前私が言ったように現状示された情報では一研究者の異説としてとらえるべき事は主観的な意見ではなく事実だと思われます。なおご自身でおっしゃられているようにWikipedia自体でも異説として扱われ、主としては国立科学博物館の説を採用しているようですので、特に私が主観的に事実を捻じ曲げているわけでもないでしょう。(ただ、これが気に入らなければWikipedia上で牛嶋氏の記述を定説であるかのように変えることはいつでも誰でもできますよ。どこかからテキトーな参考文献でも持ってくるだけで消されることもないでしょう)
さて、Wikipediaの問題点は置いておくとしても、主観的な意見を問題にするのであれば、
>「飛石伝記」に記録された石の形状が直方隕石と酷似
>国外において最古の記録とされるエンシスハイム隕石(1492年)と比べても861年という年代はあまりにも古すぎること
この辺りは完全に主観によるものとしか思えません。形態の類似を指摘するには詳細な実測などが必要だと思われますが、十分な数値の提示を牛嶋氏がしていないというのも問題でしょう。
>同じ神社に二度も隕石が落下したとは考え難いこと
>桐箱の蓋に見られる墨書の書体や文体は幕末以降
この辺りは定説に一石を投じるという意味では非常に評価できることですし切り捨てはできないと思いますが、同じ地域に時間差で隕石がみられるという例はないわけではありませんし(神戸等)、桐箱の書体や文体が何を元に書かれたかの提示があいまいな以上それをもって、直方隕石は江戸時代だったとすることはできないでしょう。>箱には収めた年月日が記載されているのみで、隕石を納めたという、記載はありません。これも同様に記載がないことは一考の余地ありですがただちに牛嶋氏の説が正しいとはならないでしょう。また、牛嶋氏の提示しているものがほぼ歴史資料なので客観的な科学データ資料に欠けるという問題もあります。
元々国立科学博物館側では、地元の伝承と桐箱の炭素年代測定および桐箱の記述など複合的に見た結果判断したのであって、確かに牛嶋氏の歴史資料からの視点も良いのですが、科学的手法による確認なども軽視することはできません。
また以前も言いましたが、福岡地方史研究では記載論文1つ、研究ノート4つの規模の小さいもので、査読、検閲も大手に比べ甘いというのは事実ではないでしょうか?
さて、牛嶋氏がこの研究ノートを提示した後、今日に至るまで直方隕石について触れている研究者の文献はいくつかありますが基本的には既存の国立科学博物館側の出した結果を採用しております。
一例として簡単なものを挙げると、大学プレスセンターにて、2018年3月、岐阜聖徳学園大学、東京大学、国立極地研究所、首都大学東京、総合研究大学院大学等に所属される研究者の出した、「長良隕石の発見について」において直方隕石の年代は国立科学博物館データの(世界最古の落下目撃記録とする)ものです。
私自身は年代に関わらず直方隕石は貴重なものだと思いますし、あなたの引用元ネタの西日本新聞でも貴重さは変わらないと同様のことを述べていますが定説においてはなお、国立科学博物館側のデータによるもので、それは牛嶋氏の研究ノートから6年近く経った今でも変わらない事です。
主観的な意見で、論拠がなく,得心するものは何もないと判断されるのは勝手ですし、ネットで自己の考えを語るのは結構ですが、研究の場において、『異説が真説になることは、間違いないと思います。』という主観極まりない発言をもって現実を無視なさるのはいかがなものでしょう。
長文失礼。
質問なのですが、
①昭和54年の国立科学博物館の現地調査のときは、飛び石伝説の古文書が見つかっていなかったのです
が、仮にみつかっていたとしたら、桐箱に書かれた
貞観3年4月7日(861年5月19日)を隕石落下日としたでしょうか?
②仮に、現在のものが貞観3年の隕石だとしたら、2度目に落ちた江戸時代の隕石は捨ててしまったのでしょうか?
以上、仮定の話ですが、論理的に考えると重要な点なので、お考えを聞かせていただければ幸いです。