
そう、問題は“耳”なのだ。前作『デューン/砂の惑星』の尺を配給元に大幅カットされ、批評&興行共に散々な目に遭ったリンチが、“カルトの帝王”と呼ばれるまでの復活をはたすきっかけになった低予算作品。見た目は、夫と子供を人質にとられたクラブ歌手を、性倒錯のギャング(デニス・ホッパー)から救いだすノワール・サスペンス。しかしそこはリンチ、観ている者がモヤモヤを禁じ得ない謎めいたシーンを随所に発見できる映画でもあるのだ。
そもそも主人公の青年ジェフリー(カイル・マクラクラン)が野原で拾った人体の一部がなぜ“耳”だったのだろうか?ハサミで切ったような跡があるこの“耳”、実はクラブ歌手ドロシー(イザベラ・ロッセリーニ)の監禁されていた旦那のものであったことが後に判明するのだが、そこはさして重要ではない。劇中ジェフリーが「ゴッホにならずにすんだな」と誰かに言われるシーンがあるのだが、その台詞こそがこの“耳”でなければならない最大のヒントになっている気がするのである。
黄色い家に同棲生活していたゴーギャンと喧嘩したゴッホが自分の“耳”を切り落とし、近所に住む主婦に送りつけたのは有名な話だが、リンチとしては“世間に理解されない芸術家の苦悩”を、この切り落とされた“耳”に暗示させたのではないだろうか。前作の興行的失敗で大いに落胆していたであろうリンチの心境とも実にマッチするのである。美術学校で長年絵画を学んでいたリンチとって、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは“生前売れた絵が一枚だけの画家”以上の存在であったはずなのである。
ゴッホが希望に満ち溢れていた初期の代表作『ひまわり』に見られる“イエロー”。その補色にあたる“ブルー”をふんだんに用いた本作は、ゴッホが精神を病んだ後に描かれた『星月夜』や『糸杉と星の見える道』を我々に連想させやしないだろうか。本作の成功で一応ゴッホ=狂人にならずにすんだリンチはこの後、『マルホランド・ドライブ』や『イングランド・エンパイア』のような男性社会の犠牲となった女性の“狂気”をテーマにした映画を世に送り出していくのであった。
ブルー・ベルベット
監督 デヴィッド・リンチ(1987年)
オススメ度[


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