
TVドラマ用に向田邦子が書き下ろしたシナリオを一本の映画にまとめたせいか、はしょり感は否めない。今までピンシャンしていた男が突然倒れたり復活したり、夫の浮気を心配する老妻がいきなり倒れて帰らぬ人になったり、恋愛とは無縁だった女が突如としてコクられたり、浮気相手の女が偶然結婚することになってすべてが丸く収まったり...ご都合主義といえばそれまでだが、1979年から80年の飛ぶ鳥を落とす勢いだった昭和の日本では、それが許されたのかもしれない。
今回、2003年に森田芳光監督によってリメイクされた本作をすっかりその勢いを失った令和の時代に鑑賞すると、すべての点で“わざとらしさ”が目につくのである。浮気された(もしくは浮気相手の)女と浮気した男。老いらくの恋に走った老父親(仲代達矢)とそれを知りながら見て見ぬふりをする妻(八千草薫)の娘4人(大竹しのぶ、黒木瞳、深津絵里、深田恭子)が、両親の夫婦仲を心配しながらその実自分自身の気持ちを吐露しまくっている、その二重性が本ドラマの見所となっている。
オリジナルのNHKTVドラマはどうだったのかはわからないのだが、マンガの登場人物のように現在の心境をペラペラと口に出してしゃべり過ぎる演出にどうしても違和感を覚えてしまうのだ。分かりやすくていいじゃないかとおっしゃる方もいるのだろうが、現実世界では(メンヘラでもない限り)自分の今の気持ちをそのまま口に出したり、態度で示したりする人は稀であろう。「お父さんの気持ちになってみろ」とか「お母さんの身にもなってみて」とはいいながら、浮気していたり、浮気されている登場人物本人の気持ちを本人に代弁させるにあたり、もちっとやり方があっただろと思うのである。
森田芳光監督は、今のシーンはこういう意味だったんだよと、登場人物に一通り解説させた後にメタファーらしき表現を後づけで入れているせいか、2重いな3重のまわりくどさを覚えてしまう。映画を解釈する醍醐味がすべて奪われてしまっているのだ。これだけの豪華キャストを折角揃えたのだから、もっと役者を信頼して“目は口ほどに物を言う”演技をさせてもよかったのではないか。ヌーベルヴァーグのトリュフォー作品などと同じ“浅さ”を感じてしまうのだ。
「女は阿修羅だ」教科書にも載っていた興福寺阿修羅像の中は“空洞”になっていて、実に軽量に作られている仏像だそうだ。1979年のオリジナルTVドラマが放送されて以来約半世紀、日本女性たちはその空っぽな胎内にどんな歴史を刻んできたのだろうか。戦後の貧困からようやく抜け出しちょっとした余裕ができた途端浮気に走った男たちに、見てみぬふりを決めこむ女たちは、令和に生きる希望のない空虚な女性たちに比べるとよっぽど大人で、まだ一本芯が通っていた気がするのだがどうだろう。
阿修羅のごとく
監督 森田芳光(2003年)
オススメ度[

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