この前、古くからの音楽仲間の友人とダラダラしながら歌番組を見てたのね。演歌だとかポピュラーだとかの色々な歌手が出てきて代わる代わる歌うやつ。
でまぁ、音楽のこと、特に歌のことになると一家言ある2人だもんだから、あーでもないこーでもないと批評しながらくっちゃべってたんだけども、そのときに何気なく核心を突いたことをボソッと言われた。
それは「TAROくんさ、音楽聴くときに『減点法』で聴かない方がいいよ。面白くなくなっちゃうから」っての。これわかる?、つまりさ、「演奏の難点ばかりを探すような聴き方をすると、音楽の良い部分が見えてこなくなっちゃうよ」って意味だよね。
結構ギクッときた。
これね、そのとき思ったことはふたつある。
ひとつは「俺って評論家根性丸出しの嫌なやつかな」ってのと、もうひとつは「だってさ、減点されまくってるやつの音楽はやっぱダメでしょ」ってのね。
まずひとつ目。
コアな音楽ファン、殊にジャズなんかを長い間聴いてるようなヤツってのは、少なからず評論家的な「批評してやろう」という見方が入ってくるもんだ。それはさ、「ジャズは一定の技術力を持った演奏者にしかできない音楽で、聴き手にとってもそれを聴き取るだけの耳を必要とする音楽である」っていうような意識からくるんだと思うのね。
平たく言うと「ジャズはスゲェんだぞ。他の音楽と一緒にすんじゃねぇ」なんていう、甚だしい勘違いね。
「スゲェ音楽を聴いてる」って意識があるもんだから、ポピュラーやロックなどのジャンルを否定的な目でしか見られなくなる。結果、その演奏の劣ったところをあげつらうようにして「この演奏者はレベルが低い」、引いては「この音楽は水準が低い」という所に持ってきたがる。結局「俺は音楽をわかってるんだぞ。スゲェだろ」ってな、くだらないエゴなのね(笑)。
この傾向はね、ジャズリスナーとしての年数が長ければ長いほど強いと思う。「色々なジャンルを聴く」とか、「ジャンルは関係ないよ。音楽は音楽だから」なんていってる人でも、ジャズファンなら頭のどこかにこの意識はあると思う。ジャズにも低レベルな演奏者はたくさんいるのにね(笑)。
この意識は僕にもあるかな?・・・・・うーん、やっぱあるかもしれない。
心情的には否定したいし、意識して持たないように努めていると思うんだけど、「それはまったく無い!」と自分に言い切ってしまえるかというと、ちょっと自信が無い。言い切るというより「言い聞かせる」になっちゃうかもしれないな(笑)。
この辺は自戒して、もっともっとオープンマインドにならなくちゃいけないね。
反省。
でもね、そういった意識を差し引いても、音楽を聴く上においては「加点法」よりも「減点法」が先に立ってしまうよなぁと思う。
これはふたつ目ね。
だってさ、どんなに演奏されてる曲が良くても、歌ってるフレーズが独創的でも、ミスタッチがあったら耳障りだし、音痴な歌だったら聴きたくないよ。いいところはいいところで評価したとしても、やっぱ聴いて心地いい演奏にはならないって。
程度の差っていうかさ、許容範囲ってもんがあるでしょ。ヘタクソなヤツがどんだけ独創的なことやったって、どんだけいい作品を創って演奏したって、それはいい音楽にはなりえない。
「技術というのは最低レベル(の話)であるけれど、それはまた、誰が生き残るかを知らしめるレベルでもある。ちょうどドアのところのガードマンみたいなもので、技術とはそういうものなんだ。その試験にパスできない者は、ガードマンから”君はダメだ”と言われる」
これはwynton Marsalis(ウイントン・マルサリス、tp)のあるアルバムのライナーに掲載されていた当人の弁。
まったくその通りだよね。ガードマンに「君はダメだ」って言われるべきミュージシャンのなんと多いことか(笑)。
技術が無いヤツがなにやったって、まともな音楽にはならんのだよ。
どんなに高邁な音楽をやってても、ヘタクソがやってる音楽は何も表現していない。空回りも甚だしい。だいたいさ、下手ってことは努力してないってことと同義だぜ。音楽を売るプロなら努力するのは当たり前だろっての。
また、そんなまともじゃない音楽を聴いて喜んでるリスナーもまともじゃない。あんたら音楽を聴く上での感性ってもんが育ってないよ。
僕はね、やっぱまず減点法で聴くよ。っていうかさ、演奏における減点対象が自然に耳に入ってこない方がおかしいんだって。
そういう視点、観点ってのは、感性を鍛えるために、さらには音楽をより楽しめるようになるために絶対必要だよ。
今回と同じような場面で「そんな音楽の聴き方して楽しい?」って、以前僕ぼくに聞いた人がいたけど、そうじゃない、違うよ。もっと楽しく音楽を聴きたいからこういう聴き方をしてるんだ。
決して「批評してひけらかすため」じゃない。そういう人もたくさんいるのは事実だけど、それだけじゃないんだよ。
実際に自分が聴いてる音楽を省みれば、やっぱ技術的な「減点対象」が少なくて、純粋に「加点法」で楽しく聴ける音楽ばかりだと思う。
聴いてて楽しいもん。
僕よりもっとシビアに音楽を聴く人だってたくさんいるし、もっと豊かに音楽を聴いている人もたくさんいる。そういう人は僕より感性が研ぎ澄まされているということ。
ただそれだけなんだよ。
質の低い音楽をきちんと判別すること、そしてそれを自分の視野から排除していく意識ってのは、リスナーがより音楽を楽しむために絶対に必要なことなんだよ。
音楽を聴くのに、まず「減点法ありき」だ。
それでいいんだよ。
でまぁ、音楽のこと、特に歌のことになると一家言ある2人だもんだから、あーでもないこーでもないと批評しながらくっちゃべってたんだけども、そのときに何気なく核心を突いたことをボソッと言われた。
それは「TAROくんさ、音楽聴くときに『減点法』で聴かない方がいいよ。面白くなくなっちゃうから」っての。これわかる?、つまりさ、「演奏の難点ばかりを探すような聴き方をすると、音楽の良い部分が見えてこなくなっちゃうよ」って意味だよね。
結構ギクッときた。
これね、そのとき思ったことはふたつある。
ひとつは「俺って評論家根性丸出しの嫌なやつかな」ってのと、もうひとつは「だってさ、減点されまくってるやつの音楽はやっぱダメでしょ」ってのね。
まずひとつ目。
コアな音楽ファン、殊にジャズなんかを長い間聴いてるようなヤツってのは、少なからず評論家的な「批評してやろう」という見方が入ってくるもんだ。それはさ、「ジャズは一定の技術力を持った演奏者にしかできない音楽で、聴き手にとってもそれを聴き取るだけの耳を必要とする音楽である」っていうような意識からくるんだと思うのね。
平たく言うと「ジャズはスゲェんだぞ。他の音楽と一緒にすんじゃねぇ」なんていう、甚だしい勘違いね。
「スゲェ音楽を聴いてる」って意識があるもんだから、ポピュラーやロックなどのジャンルを否定的な目でしか見られなくなる。結果、その演奏の劣ったところをあげつらうようにして「この演奏者はレベルが低い」、引いては「この音楽は水準が低い」という所に持ってきたがる。結局「俺は音楽をわかってるんだぞ。スゲェだろ」ってな、くだらないエゴなのね(笑)。
この傾向はね、ジャズリスナーとしての年数が長ければ長いほど強いと思う。「色々なジャンルを聴く」とか、「ジャンルは関係ないよ。音楽は音楽だから」なんていってる人でも、ジャズファンなら頭のどこかにこの意識はあると思う。ジャズにも低レベルな演奏者はたくさんいるのにね(笑)。
この意識は僕にもあるかな?・・・・・うーん、やっぱあるかもしれない。
心情的には否定したいし、意識して持たないように努めていると思うんだけど、「それはまったく無い!」と自分に言い切ってしまえるかというと、ちょっと自信が無い。言い切るというより「言い聞かせる」になっちゃうかもしれないな(笑)。
この辺は自戒して、もっともっとオープンマインドにならなくちゃいけないね。
反省。
でもね、そういった意識を差し引いても、音楽を聴く上においては「加点法」よりも「減点法」が先に立ってしまうよなぁと思う。
これはふたつ目ね。
だってさ、どんなに演奏されてる曲が良くても、歌ってるフレーズが独創的でも、ミスタッチがあったら耳障りだし、音痴な歌だったら聴きたくないよ。いいところはいいところで評価したとしても、やっぱ聴いて心地いい演奏にはならないって。
程度の差っていうかさ、許容範囲ってもんがあるでしょ。ヘタクソなヤツがどんだけ独創的なことやったって、どんだけいい作品を創って演奏したって、それはいい音楽にはなりえない。
「技術というのは最低レベル(の話)であるけれど、それはまた、誰が生き残るかを知らしめるレベルでもある。ちょうどドアのところのガードマンみたいなもので、技術とはそういうものなんだ。その試験にパスできない者は、ガードマンから”君はダメだ”と言われる」
これはwynton Marsalis(ウイントン・マルサリス、tp)のあるアルバムのライナーに掲載されていた当人の弁。
まったくその通りだよね。ガードマンに「君はダメだ」って言われるべきミュージシャンのなんと多いことか(笑)。
技術が無いヤツがなにやったって、まともな音楽にはならんのだよ。
どんなに高邁な音楽をやってても、ヘタクソがやってる音楽は何も表現していない。空回りも甚だしい。だいたいさ、下手ってことは努力してないってことと同義だぜ。音楽を売るプロなら努力するのは当たり前だろっての。
また、そんなまともじゃない音楽を聴いて喜んでるリスナーもまともじゃない。あんたら音楽を聴く上での感性ってもんが育ってないよ。
僕はね、やっぱまず減点法で聴くよ。っていうかさ、演奏における減点対象が自然に耳に入ってこない方がおかしいんだって。
そういう視点、観点ってのは、感性を鍛えるために、さらには音楽をより楽しめるようになるために絶対必要だよ。
今回と同じような場面で「そんな音楽の聴き方して楽しい?」って、以前僕ぼくに聞いた人がいたけど、そうじゃない、違うよ。もっと楽しく音楽を聴きたいからこういう聴き方をしてるんだ。
決して「批評してひけらかすため」じゃない。そういう人もたくさんいるのは事実だけど、それだけじゃないんだよ。
実際に自分が聴いてる音楽を省みれば、やっぱ技術的な「減点対象」が少なくて、純粋に「加点法」で楽しく聴ける音楽ばかりだと思う。
聴いてて楽しいもん。
僕よりもっとシビアに音楽を聴く人だってたくさんいるし、もっと豊かに音楽を聴いている人もたくさんいる。そういう人は僕より感性が研ぎ澄まされているということ。
ただそれだけなんだよ。
質の低い音楽をきちんと判別すること、そしてそれを自分の視野から排除していく意識ってのは、リスナーがより音楽を楽しむために絶対に必要なことなんだよ。
音楽を聴くのに、まず「減点法ありき」だ。
それでいいんだよ。
実は、ずっと前の記事にもコメントを
出したかったんだけど、
なんだかダラダラしちゃって。。。
いつか「遅出しコメント」してもいいですか?
減点法。
私は確実にこの採点法によって
チャンスをつかみきれていません。
でも、きっとTAROさんが考えるのとはちょっと違うと思う。
なにが違うってレベルが。。。。
所詮ワタシですから。。。ええ。
私の受けてる採点での「良い」順番だと。
①いい声!いい音楽!
②良くない声。。間違えないけど。
③いい声!時々ツメが甘いけど。
TAROさんのお話は①の中での話よね。
低レベルの話をしちゃってごめんなさい。。
ワタシは③タイプです。
もちろん①はサイコ―。別格。極々少数。
②と③だとお客様はわりと③を支持してくれます。
でも採点は違うのですよ。
それが私は悔しい。
歌は何よりも「いい声」が第一だと思うから。
悪い声は聴いていられないもん。
(②は某国立の芸術系大学に多いタイプですね。)
まあ、頑張らねばならないという事ですが。
「聴く私」としては、
最近神経が尖っているせいか、
(すっごいダメダメ君や甘々ちゃんは眼中にないとして)
ちょっと狂ったところや理解できない事があっても、
その人の背景や気を感じてしまって、
それだけでもうOKということが多いです。
この間、NHKで柿沼なんとかさんが書を書いていたんだけど、
もう、気が伝わりすぎて感動を通りこして疲れちゃった。
書なんてあんまり観たことないのに。
私は「技術」や「個性」を武器にしているのが、
鼻について嫌なのかもしれない。
理由①
そういう人の「個性」って、大抵「個性的」じゃないから。
理由②
そういう人って、大抵自分を見てもらいたいだけだから。
なので、私はそういう人は「論外」です。
で、
技術も個性もある人は
そんなものはことさら強調しなくてもできてるのが当たり前なわけで、
もうもう聴いてるだけで
汗だの涙だのヨダレだのが吹き出してくるのだと思う。
私には「アリ」か「ナシ」なだけで、
音楽をピラミッド式に判別できない感じです。
ああ、文章力がないな、私。。。
言いたい事が伝わっているだろうか。。。
TAROさんの文章力が欲しいです。。。
ああ、「技術」ってこういう事ね。
言いたいことが無ければ無意味なもの。
技術が無ければお互い苦労するもの。
寒くなりましたな、今年は秋がなかったようで。
>遅出しコメント
人のブログやサイトに何か書き込もうとして、急にやる気無くなってやめちゃうことってありますよね。書きたいことはあるんだけど、文章にするのが面倒になっちゃって。僕もしょっちゅうあります(笑)。
遅くても早くてもコメントは大歓迎です。いつでも気が向いたときに書き込んでくださいね。
>私の受けてる採点での「良い」順番
これはクラシックのコンクールなどの話ですか?。
なかなか難しいですが、ミスがないことが前提で、「それ以降を評価する」というのが原則としてあるのでしょうね。
誰がどの賞をもらうか、何位になるかを決めるための「採点」であるわけで、リスナーが「純粋に自分の聴く音楽を選択する」のとは少々趣が異なりますよね。
「競う」というセンテンスが入ってきてしまうと、まず「正確であること」が求められてしまうのは、まぁ仕方ないのかなぁと思います。
正確であることのみが音楽の要旨ではないことは僕も同感ですが、だからといって「正確じゃなくってもいいや」っていう演奏者の音楽は聴きたくない、そんなところでしょうか(笑)。
これは偏に「努力」というお話なんですが、心情的にはなかなか複雑です。
聴き手としては「ふざけんな、努力しないんなら音楽なんぞやめちまえ」なんて思いますが、演り手として「じゃああなたはそれだけの努力をしたのか?」と問われると「してません、できません」と諸手をあげて逃げ出すしかないわけで(笑)。「そうは言ってもね、音楽やるってなかなか大変なんだよ。舞台に上がり続けるっていうことだけでも凄いことなんだよ」って弁護したくなる気持ちも大きくある。
この辺はホント複雑な気持ちです。
本文の「減点法」なんて記事を書いたということは、現在の僕、このブログに文章を書いている僕が、純粋にリスナー、聴き手としてのみ発言をしているということですね。
>良い声、良くない声。
「綺麗な声」と「聴かせる声」というのは、必ずしもイコールではないと思います。
クラシックからは離れた話になりますが、例えば高橋真梨子の声なんかは決して「良い声」ではない、レイ・チャールズやサッチモなんかもそうですね。でも彼らの声は「聴かせる声」だと思います。
つまり演る音楽のジャンルや、その音楽で何を表現したいかで「良い声」というのは変わってくるもので、一概に論じられないということですね。
ただ、クラシックの場合は「声そのもの」に求められる要素が他のジャンルに比べるとはるかにシビアだと思うので、僕が「良い声と聴かせる声は違う」なんて一丁前のことを言っていると、クラシックの舞台で現役で活動されているnaruru21stさんは「なに言ってんだ!」って思われるかもしれないですね(笑)。
クラシックにおいて「良い声」というのは「資質」なのか「技術」なのか、これはクラシックの発声法の知識が乏しい僕には分かりかねるのですが、以前に錦織健が「こういう声を出したいって真似る気持ちはとっても重要です。『真似る』という要素はクラシックでも必要ですよ」なんて言ってたのを思い出しますね。
聴き手として、歌い手には「良い声を出そう」という意識を常に持って欲しいですね。
>ちょっと狂ったところや理解できない事があっても、
>その人の背景や気を感じてしまって、
>それだけでもうOKということが多いです
これは、まあこれも難しいな。今回はテーマがシビアですね(笑)。
僕は「音」と「演奏者」は切り離して考える傾向にあるようです。
音楽って「そのとき出された音がすべて」って、僕は思うんですね。演奏のみ、演奏されて出た「音」だけ。
それ以外の、例えば「背景」だとか、演奏者の「事情」だとか「感情」だとか「思想」だとか「表情」だとか、そういったものは「音楽以外のもの」だと思うんです。一度音として出されてしまえば、極端な話、演奏者そのものとも関係ない、切り離された「出された音」になるものだと思うんですね。それが時間芸術というものだと思うんです。
ただ、そういう「音楽以外のもの」もひっくるめて鑑賞の対象とする聴き方も「あり」だとは思います。僕もそういった聴き方で感動したり感銘を受けたりといった経験は数限りなくあります。
でも意識のどこかで「音楽には関係ないよな?」って、常に思ってる部分があるんですね。
まあ難しいですが、そういった「音楽以外のもの」を「音だけ」で聴き手に感じさせられることができれば、それはもう素晴らしい!。まさに音楽!。音楽の本質!。素晴らしい「演奏」、心底素晴らしい「音」だということですね。
そういった演奏も実際に存在しますよね。
こんな考え方の僕ですから「音楽以外のもの」を売りにして音楽を聴かせようとするヤツはとっても気に食わない(笑)。
ラ・カンパネラを売りにしている日本の某ピアニストいるじゃないですか。あいつ、あいつはちょっと・・・・・
「私はこんな障害に見舞われて、こんなに苦労して、こんなに努力したのよ。だからこれでいいの!。私のカンパネラは世界一なの」なんて意識がどうにもいただけないんですよ。
そういう放漫さっていうのは、ピアノのタッチに出ますよね。あの人のピアノって決めつけるような弾き方で、ぶっちゃけ鉈みたい。
あいつ「私は負けず嫌いだから」とか言っておいて「私はよく間違うわよ。機械じゃないんだから、多少間違ったっていいのよ」とかいって、なんだ甘えたこと言ってるよ。
聴き手はあななたの苦労だの努力だのお涙頂戴のエピソードを買いに来てるんじゃないよ。演奏の「完成度」を買いに来てるんだよ。勘違いしないで欲しい。演奏ってのはその瞬間のコントロールがすべてであって、耳が聞こえようが苦労しようが関係ないよ某ヘミング。
ギャハハハ、俺はなにを興奮してるんだろう。
まぁ「音楽以外のもの」はあとから自然に評価されればいいもので、音楽と混同して欲しくないと僕は考えているということです。
どちらの聴き方、鑑賞の仕方が正しいということではないですよ、念のため(笑)。
>私は「技術」や「個性」を武器にしているのが、
>鼻について嫌なのかもしれない。
>技術も個性もある人は
>そんなものはことさら強調しなくてもできてるのが当たり前
ああ、これはまったくもって仰るとおりだと思います。
まず「個性」に関してですが、僕は別に個性は求めないです。演奏がよければそれでいい(笑)。たとえそれが誰かの模倣や猿真似だったとしても、聴いて良けりゃそれでいい(笑)。
だいたい個性なんてもんは今までの音楽の歴史の中でやり尽くされてきてるわけで、そんなもんに執心する前に演奏者はやらなきゃいけないことがたくさんあるはずなんですよね
で、技術に関しては、技術は用いるべきところで適切に用いれば良いものであって「あるのが当たり前」。技術が無い演奏は「必要な表現ができていない」ということでしかないと思うんです。
naruru21stさんが言われているのは、技術や個性を見せたいあまりに、不自然なところで不必要な技術を過剰に用いたり、不自然なデフォルメをして自己主張しようとする演奏者のことですよね?。技巧過多、自己満足型演奏者。そういった音楽は、完成度としては不適切なものしか生まれないと僕も思います。自然じゃない。
演奏に関して「おおっ!、スゲェ技術だ!」とか思われているうちは、まだまだ完成度としては自然な音楽ではないってことですね。
って・・・・なげーレスだなおい!。
さすがに現役の演奏者というか、何気なく書かれたコメントでも、僕にとって結構シビアな話題でした(笑)。
元来理屈屋の僕はこういうことを話し込むのは大好きなので、またいつでも書き込んだくださいね。
ではでは。
誤解がいくつかあったので、弁明させてください。
「聴かせる声」は当然「良い声」ですよ!!
マリア・カラスなんて、その典型じゃないでしょうか。
決して美声ではないけれど、素晴らしい表\現と感性と説得力があります。
実際の減点法の採点は。。
そうねえ。具体的に例えるなら、
「林家パー子さんが、あの声で歌いきる」
のと、
「高橋真梨子が一音だけ声の響きの場所が違った」
(もちろん、両方とも音程とか音楽が正確なのは大前提。)
では「パー子さん」の方が高い評価になるのです。
「減点できないから」です。
だけど、パー子さんと高橋さんでは
スタートラインが違うと思いません?
私の現実では、パー子さんと高橋さん程の差はないけど、
この二人を例にあげる事は決して大げさではないです。
もっとも、こんな採点してるのは日本のコンクールだけだと思うけど。
あと、私の言う「背景」とは当然音楽から伝わるものです。
だって私、音楽家の名前すら覚えられないくらいですから、
その人の今までの人生なんて覚えられない…。
音からその人の性格とか考えとかを感じる事が、
年々多く強くなっていってるみたいで。
私、音楽ってそういうものだと思っていたから、
その人の歴史だの環境だのってあんまり考えた事がありませんでした。
それは「論外」です。
でも、音楽にはミス(技術不足ではなく、あくまでもミス)よりも、
もっと大事な事がたくさんあると思います。
それは人それぞれ違うでしょうし、曲や場面によっても変わると思います。
例えば、私だったら発声練習でも聴き惚れるような声とか、
音楽が切れない事(音がなくなるという事ではなく)はすごく大切です。
まあ、ミスの質にもよるけどね。
言いたい事がうまく伝わらない~。
私、文章力が付けば歌も変わるような気がする。。
こんな自己満足ブログですが、読んでくれている人がいるというのはいつも励みになります。
>「聴かせる声」は当然「良い声」
>マリア・カラスなんて、その典型
>「林家パー子さんが、あの声で歌いきる」
>「高橋真梨子が一音だけ声の響きの場所が違った」
ウハハハ、分かりやすい!。
確かにマリア・カラスは「美声ではないけど聴かせる声」ですね。
パー子の歌かぁ・・・・・そりゃいやだなぁ(笑)。
言葉って難しいですね。
「良い声」「美しい声」「聴かせる声」、すべて同義にも取れるし、まったく違った意味にも取れる。こういうときは実例を出し合うのが一番ですね。
では音楽の正確さを除外して、林家パー子と高橋真梨子の声の「差」ってなんなのか、テーマはそこら辺でしょうか?。
声そのものの差はまあ当然として、最終的には「意識」でしょうか。聴かせようという意識、音楽を伝えようという意識、「どう言う声なら聴いてもらえるか」「どういう声なら伝わるか」という意識ですね。
それがあるかないか。スタートラインという言葉を使われたのは言い得て妙ですね。
それがないヤツが評価されるのは確かにムカつくなぁ。
端的にいうと「伝えたい」人の歌か「評価されたい」人の歌か。
そりゃ確かにスタートラインが違うなぁ。
>私の言う「背景」とは当然音楽から伝わるもの
ああ、そういう意味でしたか。ちょっと僕の解釈不足でした。ごめんなさい。
この「音だけ」か「音以外もひっくるめて音楽」か、という考察はなかなか難しいんですよね。
聴き手として、予備知識まったくなしの「音だけ」を聴いて感じるというのが音楽を鑑賞する純度としては一番高いと思うのですが、そういった聴き方は、実際にはちょっとありえない。ナマで演奏者を目の前にして聴けば、どうしたって視覚的にも予備知識としても音以外の情報が入ってきてしまうわけで・・・・・目をつぶって聴いたとしても(笑)、演奏がなされる場所の環境だったり雰囲気だったり、もっと言うと演奏を聴く季節だったり聴き手の生活の状況だったり・・・・そういった外的要素も含めて、聴き手が「音以外」に影響を受けることを完全に除外するということは、冷静に考えてみると事実上不可能なんですよ。生演奏の場合は特にですね。いくら聴き手が「私は音だけを聴いてる」と自分を律してみたところで、音以外の影響というのを100%除外することは、悲しいかなありえないんですよ。
対して、これが部屋に閉じこもってCDを聴くのであれば、ナマよりは比較的「音以外」を除外しやすいかもしれません。完全には無理だとしても、ね。
ではナマで、コンサートやライブなどで音楽を聴くのと、自宅で録音されたメディアになったものを聴くのとでは、どちらが音楽の純度が高いでしょうか。
ちょっと後者だとは言いたくない・・・・・生演奏の臨場感や繊細さを完全に再現できるメディアやオーディオシステムなんてありえないですから。
では、音楽を聴く上において「音だけ」というのは、実際にありえるのか・・・・・これはもう音楽云々ではなく人間の生理的な特質の問題で、「音楽だけを認識する」という行為が人間という生き物には不可能なんですよ。
これを考え始めると切りがないといえば切りがない。
理屈屋の僕は、暇さえあればこんな世の中に毒にも薬にもならないことを延々と考えているということです。バカだなあ(自虐的)。
ただ、「音楽家」を自認する人には「音だけで伝える」という意識は持っていてほしい。完全にそれを達成するというのが極めて現実的でないにしても、それを目標として演奏してほしい、そういう人の演奏を聴きたい、と僕は思っています。
そうであるから音楽家は音楽家。そこを一歩でも譲った時点で音楽家としての矜持は崩れ去る。音楽家は「音楽」家、であってくれと思います。あ、文章がくどいですか?(笑)。
勢いに任せてちょっと生意気な口を利きました(笑)。
>ミス(技術不足ではなく、あくまでもミス)よりも、
>もっと大事な事がたくさんある
これはまったく仰るとおりだと思います。
「ミスしない」ことも「良い声」も、どっちも大事なんですよね。どちらの方が重要か、もしくはどちらがどれくらい重要かという論議はナンセンスで、どちらも「より良く伝えるため」には重要なんですよね。演り手も聴き手も、最終目標や理想は「①いい声!いい音楽!」なわけですから。
結局は「バランス」の問題であって、それを「ミスがない」ことのみをクローズアップして評価するのは、バランスを欠いたいびつな評価だと、naruru21stさんが仰っているのはそういう意味ですね。聴き手としてもバランス感覚を持って聴きたい、というよりそうやって聴いていかないと音楽の本質が見えなくなってしまうかもしれない、ということでしょうか。
一流の演奏者でもミスはあります。超一流でも、これは絶対ある。ではその音楽が劣った音楽かというと、一概には断じられない。聴き手に「伝えること」が音楽ですものね。
今回のnaruru21stさんのコメントは、僕が音楽を聴いていく上での戒めとして肝に銘じておきますね。
>音楽が切れない事
あーっ!、でた!(笑)。
これねぇ、昔ついていた先生に「常に歌ってて欲しいんだ。フレーズごとにトライするんじゃだめなんだよ。次のフレーズが来たから歌うんじゃない、ひとつの曲を歌うんだよ。集中力のスパンはお前が考えているよりはるかに長いの!!」って、何度も怒られましたよ。
「曲はひとつなの!。音楽も気持ちも常に続いてるの。切れないの。伝えることはひとつなの。どうしてそんなことがわかんないんだお前は!!。格好をつけるために歌うんならやめちまえ!!」って、怖かったなぁ。
こんなこと書くと「なんだレベルの低いこといってやがる」って思われてしまうかもしれませんが(笑)。
いい思い出です。ギャハハハ。
また長いレスになりましたね。音楽のこと話すのは楽しいもんで、どうしても長文ぶちかましちゃいます。
これに懲りずに気が向いたらまた覗いてやってください。
ではでは。