今日は機嫌が悪いのです。
別になんもないけど、暇だったからCATVの音楽専門チャンネルを何気なく流してたら、そのあまりの質の低さに、気分が悪くなってきた。
だからとっても機嫌が悪いのです。
このところ、表現するとか創造するとか、表現者の業ってなことを書いてきて、今の日本のメディアに露出しているミュージシャン(とすら言えない・・・・・タレント?)達のあまりの不甲斐なさに、ちょっとまたJimmy Scott(ジミー・スコット、vo)のことを語りたくなってきたので、今回はそのことについて書こうと思う。
はじめに言っとくけど、これは酔っ払いの愚痴です。
ではどうぞ。
Jimmy Scottって知ってます?。5、6年前にテレビで特集番組が組まれたりして日本でも結構有名になったよね。
Jimmy Scottは25年生まれ。ホルモン異常の病気で身体の成長が止まり、声変わりせずに歳を重ねた少年のような声を持つ小柄なボーカリスト。
体の障害のことや独特な癖のある歌い方で、レコード会社やプローモーターから常に冷遇され続け、曲芸師のテントで歌ったこともあった。
一時期は一線から身を引いて、アパートの管理人や介護の仕事に就いていたんだけれども、80年代にカムバック。
長いあいだ不遇のキャリアを送ってきたけれど、90年代から徐々に名声を獲得。
現在でも第一線で歌い続けている。
「私にとって重要なのは、評価されることではなく、歌うことだからね。多くのレコード会社が興味を持っていることは、アートや文化ではなく、お金なんだ。だけどアーティストはお金のために歌うわけではない。クリエイトしたいから歌う。つまり、歌いたいから歌うだけなんだ。サポートがあろうとなかろうと、歌う。誰も聴いてくれなくても、歌う。死ぬまでにきっといいものを表現できるようになろう、そう信じて歌い続ける。だから、私もどんな扱いを受けようとも歌うことはやめなかった。音楽業界から離れたところにいた時代、クリーブランドで管理人やホテルの掃除の仕事をしていたときも、機会さえあれば地元の小さなクラブで歌っていたんだ。あのときも、きっといつか報われる日がくると信じていたよ」
これはJimmy Scottの某インタビューでの談。
すごいね。
この人ほど「表現者」という言葉がふさわしいジャズミュージシャンを僕は知らない。
ただのお涙頂戴じゃないよ。
それはこの人の歌を聴けばすぐにわかる。
そこに隠された鍛錬と研鑽、表現に取り組む真摯さ、そして曲を深く深く解釈して自分の気持ちに刻み込んでいるということ。
なんつうかさ・・・・・ろくに練習しないでチャラチャラと歌って、挙句の果てにトラディショナルな名曲をカバーして、高尚な音楽やってる気になって調子に乗ってる最近の日本のジャリタレに、爪の垢でも煎じて飲ましたいよね。
それでね、ここからが大事。
「あなたにとっての”いい音楽・いい曲”というのは?」という問いに、
「作詞家が重みのあるストーリーを歌詞の中に書き込んでいる作品。表現するに値する内容が込められているかだよ。若手には、一般に受けるパターンをすでに心得ている作家が多い。その形式を上手にあやつって詞をつくるんだ。そういう作品は、私の好みではない。真摯な作詞家はそういうことはしない。作品の中にライフ・ストーリーを込めている。それが結果としてリスナーに支持されるんだ」
これは「詞」を「曲」に置き換えて読んでもそのままOKだね。
で、
「今は上手にコマーシャルに乗ってヒットさせようとするシンガーが多いけれど、私は自分が共感できるストーリーを歌で表現することしかない。そういうところに、歌そのものの価値は生まれてくるんだ」
これさ、演り手も聴き手も身につまされる言葉だよね。
「表現するに値する内容が込められている」曲が、今の音楽シーンにどれだけあるだろう?。傾聴に値する歌がどれだけあるだろう?。
「共感できるストーリーを歌で表現」している歌い手がどれだけいるだろう?。
薄っぺらな感性で薄っぺらなストーリーをでっちあげて、その薄っぺらなストーリーすら表現し尽くす技術もなく、ただ格好をつけてるだけの歌い手のなんと多いことか。
そういう奴等が大手を振ってメディアを闊歩して、真摯な音楽家が不遇を託っているような状況には、心底腹が立つ。
いや、これは僕の勝手なグチなんだけどね。
Jimmy Scottが言うように「歌そのものの価値」ってのはあるんだよ。その歌がどれだけのセールスを上げるかとは、まったく別のファクターとしてね。
ただ、それを受け止める感性を持ったリスナーの絶対数が、音楽愛好者全体から見ると圧倒的に少ないというだけの話でね。
毎度のことながらこんな言い方すると嫌われるかもしれないけど、酒のせいで熱くなってるのでやっぱ言うよ。
リスナーは「価値の高い音楽」を聴くべきだ。好みってのは色々と分かれるかもしれないけど、少なくとも傾聴に値する音楽を聴き分ける耳と感性を持つべきだ。
感性のない人間に音楽は理解できないし、理解できないヤツには味わい尽くすことはできない。
半端な感性の人間が感じている感動ってのは、それも自体も半端な「中途半端な感動ごっこ」に過ぎないと思う。まあ俺も半端かも知れんけどね。
なぁみんな、ちゃんと聴こうぜ・・・・・
え?、うるさいって?
いいんだよ。間違ったことは言ってない。
ちょっとエキサイトしすぎてるかも知れんけどね。
言いたいことはそれだけ。
酔っ払いの愚痴でした。
ではでは~ん♪
別になんもないけど、暇だったからCATVの音楽専門チャンネルを何気なく流してたら、そのあまりの質の低さに、気分が悪くなってきた。
だからとっても機嫌が悪いのです。
このところ、表現するとか創造するとか、表現者の業ってなことを書いてきて、今の日本のメディアに露出しているミュージシャン(とすら言えない・・・・・タレント?)達のあまりの不甲斐なさに、ちょっとまたJimmy Scott(ジミー・スコット、vo)のことを語りたくなってきたので、今回はそのことについて書こうと思う。
はじめに言っとくけど、これは酔っ払いの愚痴です。
ではどうぞ。
Jimmy Scottって知ってます?。5、6年前にテレビで特集番組が組まれたりして日本でも結構有名になったよね。
Jimmy Scottは25年生まれ。ホルモン異常の病気で身体の成長が止まり、声変わりせずに歳を重ねた少年のような声を持つ小柄なボーカリスト。
体の障害のことや独特な癖のある歌い方で、レコード会社やプローモーターから常に冷遇され続け、曲芸師のテントで歌ったこともあった。
一時期は一線から身を引いて、アパートの管理人や介護の仕事に就いていたんだけれども、80年代にカムバック。
長いあいだ不遇のキャリアを送ってきたけれど、90年代から徐々に名声を獲得。
現在でも第一線で歌い続けている。
「私にとって重要なのは、評価されることではなく、歌うことだからね。多くのレコード会社が興味を持っていることは、アートや文化ではなく、お金なんだ。だけどアーティストはお金のために歌うわけではない。クリエイトしたいから歌う。つまり、歌いたいから歌うだけなんだ。サポートがあろうとなかろうと、歌う。誰も聴いてくれなくても、歌う。死ぬまでにきっといいものを表現できるようになろう、そう信じて歌い続ける。だから、私もどんな扱いを受けようとも歌うことはやめなかった。音楽業界から離れたところにいた時代、クリーブランドで管理人やホテルの掃除の仕事をしていたときも、機会さえあれば地元の小さなクラブで歌っていたんだ。あのときも、きっといつか報われる日がくると信じていたよ」
これはJimmy Scottの某インタビューでの談。
すごいね。
この人ほど「表現者」という言葉がふさわしいジャズミュージシャンを僕は知らない。
ただのお涙頂戴じゃないよ。
それはこの人の歌を聴けばすぐにわかる。
そこに隠された鍛錬と研鑽、表現に取り組む真摯さ、そして曲を深く深く解釈して自分の気持ちに刻み込んでいるということ。
なんつうかさ・・・・・ろくに練習しないでチャラチャラと歌って、挙句の果てにトラディショナルな名曲をカバーして、高尚な音楽やってる気になって調子に乗ってる最近の日本のジャリタレに、爪の垢でも煎じて飲ましたいよね。
それでね、ここからが大事。
「あなたにとっての”いい音楽・いい曲”というのは?」という問いに、
「作詞家が重みのあるストーリーを歌詞の中に書き込んでいる作品。表現するに値する内容が込められているかだよ。若手には、一般に受けるパターンをすでに心得ている作家が多い。その形式を上手にあやつって詞をつくるんだ。そういう作品は、私の好みではない。真摯な作詞家はそういうことはしない。作品の中にライフ・ストーリーを込めている。それが結果としてリスナーに支持されるんだ」
これは「詞」を「曲」に置き換えて読んでもそのままOKだね。
で、
「今は上手にコマーシャルに乗ってヒットさせようとするシンガーが多いけれど、私は自分が共感できるストーリーを歌で表現することしかない。そういうところに、歌そのものの価値は生まれてくるんだ」
これさ、演り手も聴き手も身につまされる言葉だよね。
「表現するに値する内容が込められている」曲が、今の音楽シーンにどれだけあるだろう?。傾聴に値する歌がどれだけあるだろう?。
「共感できるストーリーを歌で表現」している歌い手がどれだけいるだろう?。
薄っぺらな感性で薄っぺらなストーリーをでっちあげて、その薄っぺらなストーリーすら表現し尽くす技術もなく、ただ格好をつけてるだけの歌い手のなんと多いことか。
そういう奴等が大手を振ってメディアを闊歩して、真摯な音楽家が不遇を託っているような状況には、心底腹が立つ。
いや、これは僕の勝手なグチなんだけどね。
Jimmy Scottが言うように「歌そのものの価値」ってのはあるんだよ。その歌がどれだけのセールスを上げるかとは、まったく別のファクターとしてね。
ただ、それを受け止める感性を持ったリスナーの絶対数が、音楽愛好者全体から見ると圧倒的に少ないというだけの話でね。
毎度のことながらこんな言い方すると嫌われるかもしれないけど、酒のせいで熱くなってるのでやっぱ言うよ。
リスナーは「価値の高い音楽」を聴くべきだ。好みってのは色々と分かれるかもしれないけど、少なくとも傾聴に値する音楽を聴き分ける耳と感性を持つべきだ。
感性のない人間に音楽は理解できないし、理解できないヤツには味わい尽くすことはできない。
半端な感性の人間が感じている感動ってのは、それも自体も半端な「中途半端な感動ごっこ」に過ぎないと思う。まあ俺も半端かも知れんけどね。
なぁみんな、ちゃんと聴こうぜ・・・・・
え?、うるさいって?
いいんだよ。間違ったことは言ってない。
ちょっとエキサイトしすぎてるかも知れんけどね。
言いたいことはそれだけ。
酔っ払いの愚痴でした。
ではでは~ん♪
Jazz Vocalもほとんどの歌手はピアノが上手だし、
ブロードウェイの俳優やミュージシャンもタレント兼業なんて聞いたことがないし、
ちょっとした所でも、その差は歴然としているように思います。
何の差なんでしょうかね。。。
まじめに物事に取り組む事にすっかり
苦手になっている日本人?
またまたのご来訪、ありがとうございます。
>何の差なんでしょうかね
外国のジャリタレを知らないので、あまりなんとも言えないのですが、ちょっと前に「ノマノマイェイ~♪」ってやってるどこだかの外人2人組みいたじゃないですか。
あれを聴いて、「ああ、どこの国にもどうしようもないシンガーってのはいるんだな」って思いました。
こんなバカ誰が呼んだんだって(笑)。
日本人がそうなのか、どこの国でもそうなのかわからないんですが、リスナー側に音楽を感じ取る感性がないですよね。ないというか、育っていないというか・・・・・だから市場にも、感じ取る感性があまり必要ない薄っぺらな音楽しか出回らない。
これは音楽だけでなくて、例えば文学、絵画や演劇、映画なんかの芸術全般に言えると思います。
なんで感性が育たないんですかね?。
それってある意味「知的水準」って言葉とイコールではないかと思うんですが・・・・・
嘆かわしいことです。
ある意味、格差があるとその点も変わるのかと・・・危険な考えまで起こしたりします。
聞く側、奏でる側、(音楽に限った言い方でスミマセン)お互いに刺激し合っていかないと、芸術は育たないですよね。
経済に比例して芸術への思い入れが変わっているようではダメですよね。
ゴッホの『ひまわり』は、今何処へ・・・
って感じです。