前回はKeith Jarrett(キース・ジャレット、p)の「Solo Concerts」のライナーに載ってた本人のコメントを引用して、人間の感性なんていうものは社会や環境、引いては歴史の影響を抜きにしては成り立たないんだから、個人がまったく下地のないところから新しい何かを創造する、所謂「完全なる創造」なんていうことはありえないんだよと、そんなことを書いたんだよね。
音楽が生まれてから一体どのくらいの時間が流れたんだろう。
人類が文明社会を模索する以前から音楽が存在していたことは確実で、発祥は紀元前らしいね。そして現代でいう記譜法にあたる「音楽を書き記しておく」という行為は、約7世紀くらいから行われていたそうだ。
現在クラシック音楽と呼ばれるものの源流はヨーロッパの教会音楽にある。それが系統だった文化として確立されてきたのが中世、1000~1400年くらい・・・・・つまり、西洋音楽(クラシック音楽)を発祥とするジャズとかポップスとかロックだのといった、現在僕らが聴いているほとんどすべての音楽は、相当少なく見積もっても1000年のあいだ、より良い表現を目指して試行錯誤を積み重ねてきたわけだ。
そのあいだに人間の社会のあり方や人間関係の形態も様々に分化して、感情や情緒といったものも複雑多様になっていった。悲しみとか喜び、怒りだとかいう単純な表現では言い尽くせない、繊細かつ奥深い感情の機微といったものが、社会性の発展とともにどんどん生み出されていったわけだ。これは、人間が音楽で表現したいモチーフ(動機づけ)が限りなく膨らんでいったってことだよね。
この気持ちを表現するのにどういう音を出したらいいだろう・・・・・あんな感情を伝えるにはどうやったらいいだろう・・・・・そんなことを1000年やってきた。
1000年だぜ!。
1000年の試行錯誤の積み重ねを受け継いで、その上に現在の音楽がある。
それに比べればさ、人間1人が自分の感性だけで表現できるものなんて、本当に小さな取るに足らないものだと思わない?。
それを知ってるから、クラシックの演奏者は過去の名曲の確立されてきた解釈を気の遠くなる時間をかけて学び、それを忠実に演奏することに血道をあげているんだ。
彼らは人ひとりの感性のちっぽけさ、歴史の積み重ねの偉大さや深さを知ってるんだよ。
わかるかな、既成の様式(=歴史)を蔑ろにするような表現者は、良い表現をすることは決してできない。いや、結局何も表現することなんてできないと思うよ。
音楽において個人の独創性、オリジナリティなんてもんを語るのは、もう甚だちっぽけで取るに足らないことなんだよ。
って、まあここまでは前回の記事の内容の繰り返し。
で今回は、じゃあ音楽家は音楽で表現するに当たって、いったいどこにアイデンティティを求めていったらいいのか、なにをもって「創造した」とすればよいのか、ってのが今回のテーマね。
ええと・・・・・結論から言っちゃうと「既成の様式や方法論に『捉われない』ということ」。「自由であるということ」と言い換えてもいいかな。
これは簡単なようでいて難しい。実は凄いことなんだ。
無秩序に好き勝手やるという意味ではないよ。人間が生まれてから身につける感性や様々な物事に対する方法論って、もはやすでに「既成」のものなわけでさ・・・・・そこに「既成の音楽とは違うものを創る」なんて考えてるようじゃ、それはもうそいつが既成の概念に捉われまくってる証拠なんだよね。
本当に自由な人っていうのは、自分の表現に良かれと思えば、必要に応じて既成概念を用いることに躊躇はない。また、様々な既成概念をきちんと踏まえて(体得して、消化して)、その上でそれをどう用いるかに思いを馳せることが出来る。
うーん、上手く言えない・・・・・僕はジャズしか知らないから、ジャズでとびきりの創造性を持っていた巨匠を例にとって考えて見ましょう。
やっぱMiles Davis(マイルス・デイヴィス、ts)かな(笑)。この人は常に新しい試みにトライし続けて、もうジャズのほとんどのジャンルは彼が創ったなんて言われたりするよね。
彼が生み出したとされるジャンルの主だったところは、「クールジャズ」「ハードバップ」「モードジャズ」「フュージョン」といったところかな。
じゃあこれらはMiles個人の感性のみによって、降って湧いたように生み出されたものだと思う?。
違うよね。
クールジャズやハードバップは方法論としてはビバップの踏襲だし、モードを追及したときはGil Evans(ギル・エヴァンス、com,arr)と2人で世界各国の民俗音楽の音階の研究に没頭してた。
また新主流派からフュージョン、それ以降メロディを廃して音色とリズムをクローズアップしていく過程においても、ロックビートやファンク、ジミ・ヘンドリクスやプリンスからの影響、さらにはラップまで取り入れてしまったりしてる。シェーンベルクやハチャトゥーリアンなどの近現代のクラシックに傾倒していたなんていう話もあるよね。
Milesの何が凄かったかって、この人は「お、面白そうじゃん」って思ったものにすぐに飛びついて吸収するだけの柔軟性、そしてそれを自身の表現に消化していく自由さがあったってことだと思うんだ。
「俺だけの音楽」とか「俺はジャズミュージシャンだ」なんていう頭の固い矜持は一切ない。「やりたい音楽をやる」「したい表現をする」だけ。しがらみや固定観念一切なし。必要ならなんだって取り入れるし、学ぶ姿勢、吸収しようとする貪欲さは他に類を見ない。ひとつの様式を学んで吸収するだけでも、それはものすごい労力を必要とすることなんだけどね。
それらを常に自分流に消化して、自身の音楽、自分の新しい試みに還元してしまうんだから・・・・・もうその自由さってのは「凄まじい」の一言だよね。
なんて自由な人なんだろうって、Milesのアルバムを引っ張り出して聴くたんびにそう思う。
どんな分野でも、歴史上で重要な創造を成し遂げてきた人ってのは、きっとこういう自由な人たちだったんだろうね。
本当の創造性っていうのは、「今までにないことをやろうとする」のでは決してない。
むしろ既成の概念や様式をとことん学び尽くして、さらにその上でそこから「自由であること」なんだと、僕は思うよ。
もうね、「俺は俺の新しい音楽を演る」なんて青臭いことを口に出した時点で、そいつの表現者としての器が決まるから。
それなら「音楽の先達に学び、それを受け継いでいきたい」って姿勢の人の方が、新しいものを生み出す、創造に寄与する可能性をはるかに秘めていると僕は思う。
月並みな結論だけど「温故知新」なんだ。
まあそんなところです。
長いな・・・・・今回もかなり暴言系の投稿だけど、まあいいか(笑)。
語りたいことを好き勝手に語るためのブログなんだしね。
ではでは。
音楽が生まれてから一体どのくらいの時間が流れたんだろう。
人類が文明社会を模索する以前から音楽が存在していたことは確実で、発祥は紀元前らしいね。そして現代でいう記譜法にあたる「音楽を書き記しておく」という行為は、約7世紀くらいから行われていたそうだ。
現在クラシック音楽と呼ばれるものの源流はヨーロッパの教会音楽にある。それが系統だった文化として確立されてきたのが中世、1000~1400年くらい・・・・・つまり、西洋音楽(クラシック音楽)を発祥とするジャズとかポップスとかロックだのといった、現在僕らが聴いているほとんどすべての音楽は、相当少なく見積もっても1000年のあいだ、より良い表現を目指して試行錯誤を積み重ねてきたわけだ。
そのあいだに人間の社会のあり方や人間関係の形態も様々に分化して、感情や情緒といったものも複雑多様になっていった。悲しみとか喜び、怒りだとかいう単純な表現では言い尽くせない、繊細かつ奥深い感情の機微といったものが、社会性の発展とともにどんどん生み出されていったわけだ。これは、人間が音楽で表現したいモチーフ(動機づけ)が限りなく膨らんでいったってことだよね。
この気持ちを表現するのにどういう音を出したらいいだろう・・・・・あんな感情を伝えるにはどうやったらいいだろう・・・・・そんなことを1000年やってきた。
1000年だぜ!。
1000年の試行錯誤の積み重ねを受け継いで、その上に現在の音楽がある。
それに比べればさ、人間1人が自分の感性だけで表現できるものなんて、本当に小さな取るに足らないものだと思わない?。
それを知ってるから、クラシックの演奏者は過去の名曲の確立されてきた解釈を気の遠くなる時間をかけて学び、それを忠実に演奏することに血道をあげているんだ。
彼らは人ひとりの感性のちっぽけさ、歴史の積み重ねの偉大さや深さを知ってるんだよ。
わかるかな、既成の様式(=歴史)を蔑ろにするような表現者は、良い表現をすることは決してできない。いや、結局何も表現することなんてできないと思うよ。
音楽において個人の独創性、オリジナリティなんてもんを語るのは、もう甚だちっぽけで取るに足らないことなんだよ。
って、まあここまでは前回の記事の内容の繰り返し。
で今回は、じゃあ音楽家は音楽で表現するに当たって、いったいどこにアイデンティティを求めていったらいいのか、なにをもって「創造した」とすればよいのか、ってのが今回のテーマね。
ええと・・・・・結論から言っちゃうと「既成の様式や方法論に『捉われない』ということ」。「自由であるということ」と言い換えてもいいかな。
これは簡単なようでいて難しい。実は凄いことなんだ。
無秩序に好き勝手やるという意味ではないよ。人間が生まれてから身につける感性や様々な物事に対する方法論って、もはやすでに「既成」のものなわけでさ・・・・・そこに「既成の音楽とは違うものを創る」なんて考えてるようじゃ、それはもうそいつが既成の概念に捉われまくってる証拠なんだよね。
本当に自由な人っていうのは、自分の表現に良かれと思えば、必要に応じて既成概念を用いることに躊躇はない。また、様々な既成概念をきちんと踏まえて(体得して、消化して)、その上でそれをどう用いるかに思いを馳せることが出来る。
うーん、上手く言えない・・・・・僕はジャズしか知らないから、ジャズでとびきりの創造性を持っていた巨匠を例にとって考えて見ましょう。
やっぱMiles Davis(マイルス・デイヴィス、ts)かな(笑)。この人は常に新しい試みにトライし続けて、もうジャズのほとんどのジャンルは彼が創ったなんて言われたりするよね。
彼が生み出したとされるジャンルの主だったところは、「クールジャズ」「ハードバップ」「モードジャズ」「フュージョン」といったところかな。
じゃあこれらはMiles個人の感性のみによって、降って湧いたように生み出されたものだと思う?。
違うよね。
クールジャズやハードバップは方法論としてはビバップの踏襲だし、モードを追及したときはGil Evans(ギル・エヴァンス、com,arr)と2人で世界各国の民俗音楽の音階の研究に没頭してた。
また新主流派からフュージョン、それ以降メロディを廃して音色とリズムをクローズアップしていく過程においても、ロックビートやファンク、ジミ・ヘンドリクスやプリンスからの影響、さらにはラップまで取り入れてしまったりしてる。シェーンベルクやハチャトゥーリアンなどの近現代のクラシックに傾倒していたなんていう話もあるよね。
Milesの何が凄かったかって、この人は「お、面白そうじゃん」って思ったものにすぐに飛びついて吸収するだけの柔軟性、そしてそれを自身の表現に消化していく自由さがあったってことだと思うんだ。
「俺だけの音楽」とか「俺はジャズミュージシャンだ」なんていう頭の固い矜持は一切ない。「やりたい音楽をやる」「したい表現をする」だけ。しがらみや固定観念一切なし。必要ならなんだって取り入れるし、学ぶ姿勢、吸収しようとする貪欲さは他に類を見ない。ひとつの様式を学んで吸収するだけでも、それはものすごい労力を必要とすることなんだけどね。
それらを常に自分流に消化して、自身の音楽、自分の新しい試みに還元してしまうんだから・・・・・もうその自由さってのは「凄まじい」の一言だよね。
なんて自由な人なんだろうって、Milesのアルバムを引っ張り出して聴くたんびにそう思う。
どんな分野でも、歴史上で重要な創造を成し遂げてきた人ってのは、きっとこういう自由な人たちだったんだろうね。
本当の創造性っていうのは、「今までにないことをやろうとする」のでは決してない。
むしろ既成の概念や様式をとことん学び尽くして、さらにその上でそこから「自由であること」なんだと、僕は思うよ。
もうね、「俺は俺の新しい音楽を演る」なんて青臭いことを口に出した時点で、そいつの表現者としての器が決まるから。
それなら「音楽の先達に学び、それを受け継いでいきたい」って姿勢の人の方が、新しいものを生み出す、創造に寄与する可能性をはるかに秘めていると僕は思う。
月並みな結論だけど「温故知新」なんだ。
まあそんなところです。
長いな・・・・・今回もかなり暴言系の投稿だけど、まあいいか(笑)。
語りたいことを好き勝手に語るためのブログなんだしね。
ではでは。
今週もようやく終わりですね。
>マイルスの自伝
これは是非是非ご一読ください。
僕は退屈せずに一気に読めました。
僕がこのブログで書いている文章でも、この本から引用しまくりです(笑)。
やっぱり巨人は考えることが違うな、って感じです。
>拍手がない曲があることにふれ、
>日本の聴衆は素晴らしいと書いていて
>繰り返し聞いているうちに,このCDはすごいと
ああ、それは・・・・・レディアンス、是非聴いてみたくなりますね。
拍手の話で思い出したのが、Joao Gilbertoの「Live In Tokyo」です。
Joao自身が「あのコンサートは奇跡だ」とまで言ったそうです。
自身の演奏も非のうちどころのない出来で、聴衆もこの上なく純粋に音楽に向き合ってくれた、そんなコンサートだった。
普通どんなライブやコンサートでも、「オレはこんなに感動しているんだぞ」とか「俺は音楽をわかっているんだぞ」っていうことを周囲にアピールしたくて、人よりも少しでも早く拍手しようとする輩がいるものなんですよね。
クラシックではやたら「ブラボー」と叫びたがったり・・・・・拍手したり快哉を叫ぶことがカッコイイと思っている人たち。
聴き手としては甚だ純粋じゃない。
「In Tokyo」ではそういう聴衆が1人もいなかった。
音の余韻を味わいつくして、そして感情の底から湧き上がるように自然と拍手が鳴りはじめる。
あれだけ音楽に完成度と純度を求めるJoaoが、自ら「これをCDとして出したい!」と言ったという。
聴衆としても、「音楽に純粋に向き合う」というのは難しいことなんですね。
僕も、自我とかプライドをすべてかなぐり捨てて、音楽を感じることがすべてというような・・・・・そんな聴き方をしてみたいものです・・・・・すいません、もう酔ってます。ウイーッ(笑)。
レディアンスは近日中に絶対に聴いてみますね。
>ブックマーク
していただけるのなら、是非是非。
若造のたわごとを好き勝手に書きなぐっているブログですが、それを人に「読んでもらいたい」とまで言っていただけるのは、もう光栄の一言です。
ありがとうございます。
こちらのブログにも、penkouさんのブログをブックマークさせていただきますね。
これからもよろしくお願いします。
ではでは。
うっかり「創る」とは書き難くなってしまいました。困ったなあ(苦笑)
僕の建築、感、に興味を持っていただきありがとうございます。うれしいのですが、TOROさんがおっしゃるような建築家でありたい、という気持ちになります。謙虚なのか自信がないのか(笑)
マイルスの自伝は読んでみます。ものづくりとはなんぞやに示唆を与えてくれそうですね。
レディアンス・ソロはいまだにレコードプレイヤーが動かないので比較しにくいのですが、基本姿勢は変わっていないと思いました。ライナーで拍手がない曲があることにふれ、日本の聴衆は素晴らしいと書いていて感じるところもあります。のめりこんで手をたたくのを忘れてしまうのです。きっと。
はじめ聞いたときは曲によっての拍手などが気になったのですが、繰り返し聞いているうちに,このCDはすごいと思うようになりました。ちなみに2枚組みです。
ずいぶん前に中野サンプラザでソロを聞いたのですが、そのときは何か物足りなかったのですが、今回はとても良いと思います。
なんとなく単なる感想になってしまいすみません。
ところでTAROさんのこのブログを僕のブックマークに載せて良いでしょうか。建築家にTOROさんのJAZZ論考を読んで貰いたいのですが。
まだまだ寒いですね。
こんな日は暖かい部屋で酒飲んでジャズを聴くのが一番ですねぇ。
>レディアンス ソロ
これって2000年以降の近作ですよね?。
僕は残念ながら聴いていませんが、どうですか?。
ジャズは聴きたい音源が多くって、ファンとしてはなかなか大変ですよね。ひとりのアーティストを追いかけていればいいというわけにはいかない・・・・・難儀ですなぁ。
>1000年と一緒にいる
これはクラシック音楽だけでなく、実はクラシック音楽を源流にもつ音楽はすべてそうなんですよね。ジャズも、ロックも、ポピュラーも。
ジャズだって、その発展の過程は1から10までクラシックの模倣にあったわけですし。
だから1000年とともにあるはずなのに、それを認識せずに(鍛錬、修練をせずに)「俺の作った曲だ!」なんて薄っぺらい音楽をやってるタレントたちを見ると、僕はもうハッ倒したくなるんですよ。
いや、別にいいんですけど(笑)。
>誰でもなくマイルスだったからとはいえないでしょうか
そうですね。
彼が時代時代の音楽シーンで、常に無視できない影響力を持っていたことは、仰るとおりだと思います。
ジャズの歴史は100年そこそこ。シーンの趨勢なんてもう物凄いスピードで移り変わっていたはずなんですよね。そんな激流に流されて多くのミュージシャンが時代に取り残されていくなかで、なぜMilesだけが常にシーンの先端で影響力を持ち続け得たのか。
それは彼が「天才ではなかったから」だと、僕は思っています。
これは・・・・・そうですね、先日penkouさんが言われていた「天才論」のようなものを、Milesをダシにして来週にでも書くことにします。
今回は「ジャズの歴史」の続きを書く予定なので。
>創ってという文字を使いたくなるし、使うべきだと思って書く
「造る」から「創る」を成し遂げるには、「造る」ことをとことん突き詰めて、極めつくして、飽和状態になったその先にこそ「創る」があるものだと、僕は思います。様々な表現者にとって、それこそ一生の課題なんでしょうね。
その意味で「造る」ことを生業とされてきるpenkouさんは、僕のような一方的な享受者よりも「創る」ことにより近い位置にいるんだなあと思います。
penkouさんのホームページを覗いて、penkouさんのされた仕事の画像なども見させていただきました。
「注文を受けたからただ建てる」ような所謂「お仕事」ではなく、ご自分の建てられた建物それぞれにプライドと思い入れを持たれているのが伝わってきました。
建築に関しては僕はまったくの門外漢なので気の利いたコメントをすることができないですが、素晴らしい仕事に携わられているんですね。
PS
penkouさんはクインシー・トループ著「マイルス・デイビス自叙伝」をお読みになりましたか?。
これ、音楽ファンは一度は読んだ方がいいと、僕は思っています。
Milesの独白の形で、彼の半生が綴られているのですが、長年「創る」を成し遂げ続けてきた人が、どんな風に物事を考えるのか、どれだけ豊かな感受性を持っていたのか、そして彼がどれだけ周囲との関係性を重んじていたのか・・・・・それがわかる名著ですね。
あと、小川隆夫著「マイルス・デイヴィスの真実」、これもまぁ興味深い談話が数多く載っていました。
前者は宝島社から上下巻に別れて文庫で出ているので気軽に購入できます。「真実」の方は多分まだ文庫にはなっていないと思いますが・・・・・。
機会があったら是非。
ではでは。
考え込んでしまってなかなか整理がつきません。どうしても僕の生業、建築のことを考えてしまうので。
いまキースのレディアンス ソロという大阪と東京のライブアルバムをイヤホーンで聞きながら書いています。TAROさんの論考がキースから始まったので。
(聴いているとまあ色々あってもキースだなあと思ったりして・・・)
クラッシクの演奏者が何故忠実に演奏しようとしているかという命題は、僕にとっても極めて明解になりました。1000年に対峙するというのは気の遠くなるようなことだと思いますが、彼らが時間に身を委ねる快感も感じているような気がしてきます。1000年と一緒にいる・・・
JAZZもそうですか!巨匠といわれる(巨人という言い方はどうでしょうか)マイルスは、例えばギル・エバンスとの研究があって巨匠といわれるようになったのか。自由さの凄さは本当に凄いと思いますし、だからJAZZに僕たちは魅せられるのだと思いましたが・・・だから例えばビッチェズ・ブリューからフュージョンとかエレキが容認されるようになったような気がするのですが、マイルスがやったからそれらがJAZZの世界や一般社会に認知されていった。誰でもなくマイルスだったからとはいえないでしょうか。
しかしと思うのは、同じ創造の世界だと思っている建築の世界では、モダニズムの時代になって、先達のやってきたこと、それこそギリシャ、ローマ時代からの時間を経てきたものを学ばなくなった、少なくとも僕たちはそういう教育を受けなかった、そしって創っている、造ってでなく創ってという文字を使いたくなるし、使うべきだと思って書くのですが、TAROさんの論考を読んでいて考え込んでいるのです。
支離滅裂、まだ飲んでいないのに!