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歌うという事の客観性

2004-09-09 00:18:20 | 音楽一般
歌うって行為は主観的なものなんだろうか?、客観的なものなんだろうか?。

「歌う」は「訴う」、つまり「訴える」だよね。
訴えたいモチーフや気持ちがまずあって、それを聴いてる人に伝える為に、あーしようこーしようと考えてその方法を選択するわけだ。
方法ってのは歌うためのテクニックだったり伴奏に用いる楽器の選択だったり、さらには衣装や照明などの環境の選択でもあるわけだ。
まぁ環境面はメンドイので省くとして、例えば「ここはビブラートをかけよう」とか「ここで1度フレーズを切って、次にフォルテシモで出よう」とか「ウィスパーっぽく息を混ぜて声を出そう」とか・・・・・発声のし方、リズムの取り方、その他諸々多岐にわたる技術の取捨選択していくってのは、結局のところ「計算」だよね。どうやったらより伝わるか、伝えたい事を聴き取ってもらえるか、曲中の局面局面において「判断」して「選択」していくわけだ。

どうやったら訴えたい事が伝わるかを「計算する」ってのは、やっぱ主観的な行為ではないと思う。
今まではそういう風に考えていたのね。
まず伝えたい主観があって、いったん客観のフィルターを通して作られたものが歌なんだと今まで思ってたんだけど・・・・・ちょっと最近分からなくなってきた。

感じた事や思っていることを伝える、理論を伝えるような場合は別としても、情緒を訴えるとか感情を伝えるって行為は、本来主観的なもんだよね。
そこに音楽という「手段」が介在してくるから技術なんてもんが必要になるわけで・・・・・技術ってのは、それによる聴き手に対しての「効果を期待して計算ずくで用いられる」のであって、つまり客観的なものなわけだ。

じゃぁ「技術を用いる」って行為は客観的な行為?、それとも主観的な行為?。
他人に「こう聴いてもらいたい」という思考は抜きで、ただただ自分の主観でのみ技術を用いていては、どんなに高等な技術であろうともそれは独りよがりなものになってしまうよね・・・・・・音痴なオヤジが1人で気持ち良くカラオケ歌ってるのと同レベル。
でも歌うことの本質が「訴える」、つまり主観的な行為である以上、技術ってものは主観的に用いられるべきものなんだろうか・・・・・・。
音楽を表現することにおいて、主観と客観の境目ってのはどこにあるんでしょうね?。

うう、なんか昨日にもまして散漫な文章・・・・・考えなくても誰にも何も不都合が無いような事をウダウダと書いてますね。
元来語り好きなもので(笑)。
ブログ立ち上げてからまだ数日だけど、張り切って毎日音楽の事書いてたから、最早少々ネタ切れ気味なのね(はやっ)。

さて、いつまで続くものやら・・・・・。

5 コメント

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歌うということの利他性 (風野妖一郎)
2004-09-19 19:33:47
 主観・客観というのはモノの見方・見え方であり、主観的(または客観的)な行為、そのどちらかだけであるような行為、というのは日本語としても意味が通らない気がします。同じセッションでも、演奏している時は主観的な視点(聴点?)で感じて、後でビデオで客観的に見ることができる。主観客観とはそういうものではないでしょうか。

 TAROさんが言いたかったのは「自己満足的行為」と「利他的行為」ではないでしょうか。それを主観客観と呼んでしまったので混乱したのでしょう。



 さて、自分が気持ちよくなるために歌うのか、誰かを励ますために歌うのか?前者ならテクニックなど要らないのではないか?という疑問は分かります。

 でも「音楽を表現するのに利己と利他の境目はどこにあるのか?」という問いに直せば答えは明らかでしょう。この問題は「表現する」という行為すべてに通ずる問題であるのですから。歌でも楽器でも絵でも小説でも演劇でも料理でも工芸でも、およそ芸術と名のつくもの、いやもしかしたらあらゆる職業において共通する問題ではないでしょうか?



 そう、答えは人それぞれ。自分で見つけ出すしかないのです。「自分は何のためにこれを表現するのか?したいのか?してあげたいのか?」多くのアーティストの様々な言行に触れてきたTAROさんならご存知のはず。テクニックの問題もおのずと明らかになるでしょう。





 最後におまけ。授業でちらっと聞いたのです。

 演じることの主観客観について能の大成者世阿弥が「風姿花伝」で言っていることによれば、

「自分の目で自分を完全に見ることは出来ず、自分の背中を見ることはけして出来ない。一方、観客の目は自分を完全に見ている。この自分の視点と観客の視点を併せ持つこと、舞台に居ながらにして自分の背中を見ることが演者として究極の姿である。」

 だ、そうです。風姿花伝を読んでないし、書いたノートもどっかに行ってしまったのでうろ覚えですが、なるほど風姿花伝が海外の芸術家にも人気なのが分かりますね。
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歌うことの直感性 (風野妖一郎)
2004-09-19 19:51:14
 しまった・・・。TAROさんの本文を読み返したら、メインテーマは「歌うときには計算ずくで行くべきか、巧まざる感情の波に任せるべきか」ということだったか!



 どっちにしても「技術を用いるのは主観的でも客観的でもない」と思いますが。

 「訴える」行為は「主観的行為」ではなくて「主観を表現する行為」だと思います。それを相手にうまく伝えたいのであれば客観的に計算した方法、つまり技術をつかうべきである、のであって、「技術を用いる」という行為は「客観的行為」ではないと思います。



 いや、まあ、TAROさんの言う「主観客観」が私の言う「利己利他」ならTAROさんの本文には何の問題もないと思います。長文失礼致しました。
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書いてて混乱してきました (TARO)
2004-09-20 02:52:36
こんにちは。

風野さんはこちらでは初めてでしたね。

コメントありがとうございます。僕は基本的に語り好きなので、長文はガンガン書き込ンでいただければ嬉しいですよ。



>主観的(または客観的)な行為、そのどちらかだけであるような行為、

>というのは日本語としても意味が通らない



>~ならTAROさんの本文には何の問題もないと思います



「~なら~何の問題もないと思います」と最終的に帰結されていますが、風野さんは文章に何か問題を探されているのですか?(笑)。

はじめに確認しておきたいのが、風野さんのスタンスが、僕の日本語の文法や用法または文章の拙劣さ、言ってみれば言葉尻を捉えて問題点を探そうという指摘であるなら、僕は討議する意味をあまり感じないという事です。

風野さんが、歌うという行為がどんなものかに関心を持っていて、純粋な興味から書き込んで頂いていると仮定して話を進めましょう。



伝えると言う行為に関してですが、人間は色々な伝える手段を持っていますね。

一番身近なのが言葉。毎日のように接しているであろう映像。殴る蹴る等の暴力や、抱きしめたり撫でたりといったのもその手段の一つですね。

で、音楽と言う手段を選択する時に、何を伝えんとして音楽を選択するかと言うと、それはやっぱり「情緒」だと思うんですね。

理論や思想、または物の構造だったりなにかの収支報告だったり、そういったものを伝えるのに音楽は向いていませんよね。

「情緒を伝えるのに適している」、これももう音楽自体が持っている特徴と言って良いと思います。

なになにが「美しい」「醜い」「愛しい」「憎い」「嬉しい」「悲しい」「寂しい」と言った感情または感情の変化、ですね。

これらはやはり客観的に認識されるものでなく、主観的に認識されるものなわけです。



技術って「方法」ですよね。

風野さんは「客観的に計算された方法=技術」とされていますが、技術自体はその成立した過程に客観的な計算があろうとなかろうと、用る側にとってみれば単なる方法に過ぎません。用いる場面が適当でなければ不適当(なに言ってんだ?)なわけで、歌い手にとっては技術そのものよりも、技術を「どこでどう用いるか」にこそ客観的な計算が介在してくるわけです。

音楽、まぁその中でも歌のみに的を絞ったとして、曲を歌うという事は「曲が主題としている情緒(モチーフ)を伝える事」なわけですね。

モチーフを伝える為に、色々な方法(技術)を用いるんですね。

で、「歌う」が「伝える」という行為と同義である以上は、風野さんが言われているように「相手にうまく伝えたいのであれば客観的に計算した方法をつかうべきである」という結論になるわけですね。

相手が用いられた技術に対してどう感じるかを計算して、取捨選択の後に技術を用いる。聴いてどう感じるかは聴き手によって異なりますが、より多くに伝えたい場合、より多くの人の一般的な感性の平均値を採ってその取捨選択を行なう事になるでしょう。

僕が言いたいのは行為そのものの主観客観ではなく、歌う上で用いる技術の取捨選択が主観に基づくべきか客観に基づくべきか、という話ですね。

で、ここからが問題なんですが、伝えたいものが情緒(主観)である以上、客観的な取捨選択というフィルターを通した時点で、それはもう情緒ではなくなってしまっているのではないか、という事なんですね。



本文で「まず伝えたい主観があって、いったん客観のフィルターを通して作られたものが歌」と書いていますが、この「いったん客観のフィルターを通した」時点で、それはもう主観ではないのではないか、と。

上記のように「一般的な感性の平均値を基準に計算」するようではなおの事です。

スゴーク冷静に、冷めた視点で何の感情も感じる事無く歌っている歌が、果たして情緒を伝えうるか、という事です。

もしできるとしたら、それはスゲェ大芝居を打っている事になりますよね。

言ってみれば「食わせ物」。歌い手はなんの情緒を感じていなくても聴き手に情緒を感じさせる事ができる、という事になります。

極論しちゃうと、歌うという行為は「騙す事」か「共感してもらおうとする事」か、どちらなのかという事なんですね。



歌を勉強した人は、「自分が気持ち良く歌うのと、人が聴いて気持ち良くなる歌は違う」というジレンマに必ず突き当たります。

これは誰でも来る。

で、思った事を感じてもらおうとしてどうしたらいいか色々考えるんですが、ここが難しい。

聴き手側の感性に自分の主観的な技術の取捨選択が一致していれば話は速いですがこれはまずありえない。自分の主観で取捨選択した技術のみを用いていては、相手の感性に訴える事は絶対できない。

聴き手の主観を伺って完全に客観的に技術の取捨選択をしているようでは、歌う事そのものに意味がない。

ここら辺の線引きをどこに持ってくるか・・・・・。

風野さんの仰った「利己」「利他」ですが、完全な利己であれば歌を他者に聴かせる意味はないし、完全な利他であっては、もうそこに伝えたい主観は存在しない。

ここらへんの悩ましさ・・・・・。



まぁこんなところです。
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歌うことの迫真性 (風野妖一郎)
2004-09-28 15:48:56
あー成る程。そういうことでしたか。



 揚げ足取りととられたのは、まあ、半分は当たっているので否定はしません。失礼致しました。ただ、TAROさんの使ってる主観客観という用語に違和感があったのでどういう意味かな~と突っついてみただけです。お蔭様でよく分かりました。



 で。コメント書いていて私も混乱してきました(汗)。書きたいことは多々あれど、全然まとまりません。そこで、言いたい事ごとにグループにしてみました。



コメントA



 私は「歌うことは演じることだ」と思っています。



 カラオケで歌っていてそれを実感する現象にあったことがあります。

 私は失恋の歌が好きなので、カラオケでもたいてい失恋の歌を歌っています。特に職場の人やクラスの人たちと行くと、アニメソングは歌えないので(笑)、失恋歌ばかりになってしまいます。

 で、せっかくだからとその場の思いつきの技術で感情をこめて歌うと聴衆から「すごい感情こもってたね。そういう経験あるの?」と言われます。ハッキリ言いますが、そんな経験はアリマセン。♪まだ恋したこともない~♪(by失恋レストラン:古っ)。

 経験したこともない失恋の悲しみを、さも実体験かのように感じさせてしまったわけです。最近では、聴衆にそう感じさせることそのものが私の楽しみになっています。つまり、楽しみながら、有りもしない感情をさも有るかのように見せかけて歌うことは可能なわけです。「そんなのは歌(訴)っているとは言わない」と言われればそれまでですが(笑)。

 まあ、こんなスタンスで歌っている奴もいるということです。



コメントB



>極論しちゃうと、歌うという行為は「騙す事」か「共感してもらおうとする事」か、どちらなのかという事なんですね。



 歌に近い例で考えて見るのはどうでしょう?

 例えば、演劇やドラマ・映画で演技することは「騙す事」か「共感してもらおうとする事」か、どちらなのか?・・・といえばどちらでもあるわけです。悲劇のヒロインは同情されるし、悪役の人なんかよく街中で怒られてますからね。皆さん役と役者の中身を混同しています。

 また、絵を描くという行為は「騙す事」か「共感してもらおうとする事」か、どちらなのか?・・・といえばやはりどちらでもあるわけです。ただの二次元の色素の配列の中に三次元の空間、更には時間、感情、雰囲気までも表現しようというのですから。

 どちらも騙した上で共感してもらおうとしているわけです。



コメントC



 日本人にとって「愛してる」という言葉はとても気恥ずかしくて言いにくい言葉です。古い世代の人は特に。でも歌の中ではずっと前から出てきていました。そしてその頃から歌の中では「愛してる」と言うことが出来ていました。

 つまり歌は、自分の気持ちを代弁してくれるもの、普段はとても言えないセリフも言えたりする、果てはまったく違う自分になれたりする装置なわけです。

 だから、私のような一般人がカラオケなんかで歌うぶんには主観的で充分なんじゃないかと思いますね。



>「情緒を伝えるのに適している」

 まさにそうだと思いますね。言葉にメロディーがついているから言葉の意味は半分失われ、残った情緒が伝わってくる、といったところですか。実はこの情緒は歌い手自身にも伝わってくるから、歌ってて楽しいんですよね。





コメントD



 古い話ですが、何年か前の紅白歌合戦で若手歌手が出場の喜びのあまり失恋の歌を嬉しそうに歌っているのに対して、(というか、失恋の歌を常に楽しそうに歌う奴っているよね。)石川さゆりは慣れているのか貫禄なのか、振り付けから感情の込め方までばっちりで「天城越え」を歌っていて、うーむこれこそプロだ、と唸らされたものでした。

 さて、石川さゆりは我々を騙しているのでしょうか?違いますよね。年に一度の晴れ舞台だからこそ、彼女は素の感情よりもプロとして自分が磨き上げた技芸(つまり技術ですね)をお客様にお見せしたのではないでしょうか?(完全に憶測ですが。)



 歌い手がこの「プロ」かどうかというのが今回の問題の焦点なんじゃないでしょうか?つまり、歌謡・演技などは、観客の感情に訴えるものをお見せする仕事であり、お金を払って頂く対価としてお客様が望むもの・お客様に満足して頂けるものを提供するサービス業であるわけです。そのためには不安定な主観(感情)をベースに歌うよりも確かな技術に裏打ちされた客観で歌うべきなのではあないでしょうか。

 もちろん本能というか直感で歌い続ける天才肌のシンガーもいるんでしょうけれど、そういう人って出来はそのときの体調や感情に左右されやすでしょう?



 プロとして真摯にお客さんに向かい合えば合うほど技術を磨くべきだと思うのではないのでしょうか?月影先生も役者は仮面をかぶって舞台に上がるのだ、と仰っていますから。ガラスのだけど。

 もちろんプロでも「歌は心です」とおっしゃる方もいますけど。



コメントE



>僕が言いたいのは行為そのものの主観客観ではなく、歌う上で用いる技術の取捨選択が主観に基づくべきか客観に基づくべきか、という話ですね。

 なるほど。平たく言えば「自分好み」か「一般受け狙い」かということですね。やっぱりこれも全ての技芸に通じる問題だと思うんですけどねぇ。ほら、「吼えろペン」でも言ってるじゃないですか。俺の読みたい漫画と読者の読みたい漫画は違う!ここにあるのは俺が読みたかったネーム!だから没になってしまったネームだっ!って。

 確かJAZZにもそういう流れがあったんじゃなかったでしたっけ?演奏者が気持ちいいJAZZをやろう!っていう。



>完全な利他であっては、もうそこに伝えたい主観は存在しない。

 それはつまり、歌いたくもない、つまらないというか全然共感できない歌なんだけどすごくファンが喜ぶので無理やり歌っている、というような状況でしょうか?確かにそれは歌ってて辛いなあ・・・。

 ちょっと違うけど最近の曲は、いかにも若者が食い付きそうなフレーズをちょちょっと散りばめて、実は全体として何の意味もない歌詞が多いような気がするんですが、気のせいでしょうか?そんな歌を歌っている歌手が可哀想なんですが。



コメントZ



 ・・・以上のコメントを組み合わせて、説得力のある話をしたかったんですが敢え無く失敗。でもせっかくなのでバラで載せることにしました。散文失礼。では、また。
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石川さゆりは上手いですよ!!! (TARO)
2004-09-28 22:49:18
いえいえ、こういう議論は大好きですよ(笑)。



>コメントA



まず、「歌う」と言う事を「フリをする」事と履き違えては間違いです。

風野さんはカラオケで「悲恋を経験した事があるようなフリをしている」に過ぎないんです。それは「歌で聴き手に感情(主観)を想起させた」のではなく「フーン、悲しそうだね」と思われたに過ぎません。

歌で情緒を伝える事とは根本的に違う事であって、そこには音楽的な技術は一切介在していないと思いますが、どうでしょう。

「そこにない感情をあるように(自分が感じているように)見せかける」のと「聴き手に自身の(聴き手本人の)主観としての感情を感じさせる」のは雲泥の差があります。

キツイ言い方になりますが、風野さんの歌で悲恋の感情を感じて泣く人がいるか・・・・・と言う事です。

それが「そう感じさせるのが楽しみ」というほど可能なのであれば、風野さんは歌う事で食べていけるでしょう。

巨匠と呼ばれる歌い手の歌に介在している技術と計算の膨大な量の積み重ねを知らなければ、ちょっとこの手の議論は空回りしてしまうかもしれませんね。





>コメントB



演劇やドラマを例にあげていらっしゃいますが、歌うという事は「まったくの別人格を演じる」という事とはやはり違う側面が多分にあります。

方法論と目的がまったく違うものを比較してもちょっと分かりづらいですが・・・・・。

この議論のそもそものテーマに近いかもしれませんが「本来の人格が介在するかしないか」といったところですよね。

一切介在しなければ、その歌は「騙し」である、と。

介在してくればその歌のモチーフには、歌い手(作り手ではない)が訴えたい(感じさせたい)主観が存在しているということになります。

これはどちらのタイプの歌も存在するでしょう。





>コメントC



「愛している」とマジで歌で伝える人って・・・・・・身の回りにはなかなかいませんが(笑)。

「別の自分になる」という括りで、そこに自身の感情である「愛している」が入ってくるとなれば、モチーフは主観であると言えます。

ここで論じているのは、そのモチーフを聴き手に感じさせる為にどういった方法(技術)を用いるか、その選択が主観に基づくか、客観に基づくか、という話ですね。

まぁホントに歌に代弁させるかどうかは別ですよ(笑)。





>コメントD



風野さんが言われるように「主観で歌えば十分」というのは「伝えなくっていいや」と言う事であって、「歌う=訴う」と定義付けて始めているこの議論のテーマから見れば、その歌は「歌う」とは呼べません。

「主観をベースに歌う」と大雑把に括ってしまうとちょっと論点がぼやけてしまいます。主観がベースにあったとしても、その主観を伝える為の方法論として計算が介在してくる事は歌う(訴う)うえでは当たり前であって・・・・・技術を磨くのはそのためですね。

その計算が主観によるものかどうか・・・・・これがテーマです。

すべてのプロの歌のモチーフに主観が存在していないかと言えば、それはそんなことはないと思います。また、プロでなければ技術を磨かないかと言うと、そういう事ではないんですよ。

歌で伝えようとするなら誰でも磨く。

歌に「技術が必要」というのは、論点ではなく前提です。

プロはモチベーションに「お金を稼ぐ」という事が介在しているだけであって、でも稼ぐと言うそれだけならばその方法は歌である必要すらない。プロであるかどうかというのは、ちょっとこの議論の本質からは外れてしまいますね。

プロであるかというより「歌で伝えようとしているか」が根幹です。





>諸々



身近な例で考えてみますか。

まったく訴えたい主観がなくても感じさせる事ができるタイプの歌手で、ピカイチに上手い人いますよ。

高橋真梨子。

この人は多分ほぼ100%客観的な技術論において100%仮面を被って演じているでしょう。

自分は何も感情を感じていなくても、人に歌で感情を感じさせる事ができる。技術力がずば抜けているからですね。



石川さゆりに関してですが、この人もずば抜けていますね。歌う事だけでなく「ステージを作る」。

立ち方から歩き方、腕の使い方、首の使い方、衣装の用い方、すべてに強烈な計算と繊細な思惟を感じます。

ですが、この人には「仮面を被っている」という印象がないんですね。

なんでだろ・・・・・モチーフに本人が訴えたい主観が存在しているからなのかどうかは、ちょっと僕には分かりません。

見せられる技術の量が圧倒的なんで・・・・・・この人は半端じゃないですよ。



そうですね・・・・・ごく最近、技術というカーテンを剥がした、歌い手素のままの感情に感動する事があったので、この件に関しては近々新規の投稿で結論めいたもの書こうと思います。
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