ジャズファン、そしてボサノバファンにも必携とされ、ボサを世界中に認知させるきっかけになった屈指の名盤「Getz / Gilberto」をひさびさに引っ張り出して聴いてる。
良くも悪しくも色々と曰くつきなこのアルバム・・・・・今日はこれについて書こうと思う。
当時のレコーディングに際してはStan Getz(スタン・ゲッツ、ts)とプロデューサーのCreed Taylor(クリード・テイラー)と、Joao Gilberto(ジョアン・ジルベルト、g,vo)のあいだにかなりの確執があったらしいね。
本盤では一応主役級のJoaoだけど、GetzとCreed Taylorにとっては「ブラジルから来た素知らぬ若手ミュージシャン」程度の認識だったらしい。
レコーディングを通しての格下扱い、録り終ったあとのミキシングの段階でGetzのサックスソロのパートだけ意図的に音量を上げたり、「The Girl From Ipanema」(イパネマの娘)のシングルカット時にJoaoのボーカルパートをまるまるカットしたり、さらにはGetzもCreed Taylorも高額のギャランティを得て、曲を提供したAntonio Carlos Jobim(アントニオ・カルロス・ジョビン、p,com)も多額の著作権収入が約束されたにもかかわらず、Joaoには雀の涙ほどの低額なギャラしか払われなかったらしい。
Joaoにとっては踏んだり蹴ったりの、思い出したくもないレコーディングだったんだそうね。
このアルバムに関してボサファンがよく言うのは「Getzのテナーがブホブホうるさい」っての。このアルバムを聴いたことがある皆さんはどう思われますか?。
僕はね、個人的にはリラックスしたいいアルバムだと思う。ただ、全体として聴けないアルバムではないけれど、やっぱりボサノバとして見た場合はバランスが悪いなと思う。
以前から何回も書いてきたけど、ボサの本質って余計な装飾や激情を抑制して、シンプルな表現を淡々と反復するところに真髄がある。独り言めいたつぶやきが、昼下がりの潮騒に乗って遠くで鳴り続けてる・・・・・ボサってそんな音楽。
それがね、Getzのソロが来ると急に目の前で鳴り出すのさ。
たとえば1曲目「The Girl From Ipanema」、ボソボソと語るようなJoaoのボーカル、どことなくやる気なさそうなAstrud Gilberto(アストラッド・ジルベルト、vo)の歌声、ボサのビートに乗って気持ちよーくたゆたってると、突然目の前でテナーの角のある音がドカッと鳴り出す。
2曲目の「Doralice」、女性に求婚されて「しまった、厄介なことになったなぁ、どうしよっか」っていう少々おどけた調子の内容を、結構なアップテンポでもボサの抑制を崩さずに、淡々と気楽に歌う。そこにGetzのソロが入ってきて、16分や3連を絡めたグリングリンとこねくるような節回しではしゃいじゃったりする。
Getzもね、当時の主流派を占めていたジャズ、コテコテネチネチのハードバップからすればかなり洒落ててクールなんだけども、ボサノバの地味さから比べると、やっぱり饒舌に過ぎるんだよね。
Joaoのギターが淡々と控えめなビートを刻んで、Jobimの単音ピアノが素朴にさり気なく入ってくる。歌い手は熱く歌いあげないで、寄せては返す波のようにひたすらひたすら語り続ける。間違っても誰1人として昂ぶらない、奇妙な浮遊感漂うテンションの中で、Getzは「洒落たフレーズ」「かっこいいクールなソロ」を繰り広げちゃってる。「どうだ、俺ってかっこいいだろ」って。
明らかに1人だけ別世界(笑)。
これってもうジャズとボサの表現方法の違いなんだよね。「感情を吐き出すのがジャズ」、「感情を隠すのがボサ」。
音楽のバランスって難しい。
確執云々は別にしてもね、GetzもJoaoもお互いの方法で良い演奏をしていると思う。ただそれぞれが別の音楽をやってるということ。
Getzのフレーズ確かにかっこいいよね。イカしてる(笑)。で、じゃあJoaoのギターや歌、Jobimのピアノが同様にかっこよくてイカしてるかというと、そんなことはない。
むしろボサノバ勢の持ち味は、たどたどしい素朴さ、語りすぎない風通しのいい清涼感、そういったところにある。
「Joao Gilberto In Tokyo」とか「Joao」とか、彼の傑作といわれているアルバムを聴いてるとよくわかるけど、Joaoは特にこの「素朴」「語り過ぎない」というところは徹底してる人だし、Getzと音楽的に合わなかったことは容易に想像できる。
一触即発の2人を、Jobimが冷や汗流しながらなんとか取り持って、どうにか完成させたというのが、このアルバムの実情だったらしい。
「ジャズとして聴いてみる」、「ボサノバとして聴いてみる」、「おのおののコミュニケーションを意識してみる」、といった、少し視点を変えた聴き方をしてみると、このアルバムの違う側面が見えてくるかもしれないですね。
あららら、ひさしぶりにまともな記事を書いたけど、非常にくどくて読みづらい文章になってしまった。
書いていくうちに調子が戻ってくるといいねぇ。
ではでは。
良くも悪しくも色々と曰くつきなこのアルバム・・・・・今日はこれについて書こうと思う。
当時のレコーディングに際してはStan Getz(スタン・ゲッツ、ts)とプロデューサーのCreed Taylor(クリード・テイラー)と、Joao Gilberto(ジョアン・ジルベルト、g,vo)のあいだにかなりの確執があったらしいね。
本盤では一応主役級のJoaoだけど、GetzとCreed Taylorにとっては「ブラジルから来た素知らぬ若手ミュージシャン」程度の認識だったらしい。
レコーディングを通しての格下扱い、録り終ったあとのミキシングの段階でGetzのサックスソロのパートだけ意図的に音量を上げたり、「The Girl From Ipanema」(イパネマの娘)のシングルカット時にJoaoのボーカルパートをまるまるカットしたり、さらにはGetzもCreed Taylorも高額のギャランティを得て、曲を提供したAntonio Carlos Jobim(アントニオ・カルロス・ジョビン、p,com)も多額の著作権収入が約束されたにもかかわらず、Joaoには雀の涙ほどの低額なギャラしか払われなかったらしい。
Joaoにとっては踏んだり蹴ったりの、思い出したくもないレコーディングだったんだそうね。
このアルバムに関してボサファンがよく言うのは「Getzのテナーがブホブホうるさい」っての。このアルバムを聴いたことがある皆さんはどう思われますか?。
僕はね、個人的にはリラックスしたいいアルバムだと思う。ただ、全体として聴けないアルバムではないけれど、やっぱりボサノバとして見た場合はバランスが悪いなと思う。
以前から何回も書いてきたけど、ボサの本質って余計な装飾や激情を抑制して、シンプルな表現を淡々と反復するところに真髄がある。独り言めいたつぶやきが、昼下がりの潮騒に乗って遠くで鳴り続けてる・・・・・ボサってそんな音楽。
それがね、Getzのソロが来ると急に目の前で鳴り出すのさ。
たとえば1曲目「The Girl From Ipanema」、ボソボソと語るようなJoaoのボーカル、どことなくやる気なさそうなAstrud Gilberto(アストラッド・ジルベルト、vo)の歌声、ボサのビートに乗って気持ちよーくたゆたってると、突然目の前でテナーの角のある音がドカッと鳴り出す。
2曲目の「Doralice」、女性に求婚されて「しまった、厄介なことになったなぁ、どうしよっか」っていう少々おどけた調子の内容を、結構なアップテンポでもボサの抑制を崩さずに、淡々と気楽に歌う。そこにGetzのソロが入ってきて、16分や3連を絡めたグリングリンとこねくるような節回しではしゃいじゃったりする。
Getzもね、当時の主流派を占めていたジャズ、コテコテネチネチのハードバップからすればかなり洒落ててクールなんだけども、ボサノバの地味さから比べると、やっぱり饒舌に過ぎるんだよね。
Joaoのギターが淡々と控えめなビートを刻んで、Jobimの単音ピアノが素朴にさり気なく入ってくる。歌い手は熱く歌いあげないで、寄せては返す波のようにひたすらひたすら語り続ける。間違っても誰1人として昂ぶらない、奇妙な浮遊感漂うテンションの中で、Getzは「洒落たフレーズ」「かっこいいクールなソロ」を繰り広げちゃってる。「どうだ、俺ってかっこいいだろ」って。
明らかに1人だけ別世界(笑)。
これってもうジャズとボサの表現方法の違いなんだよね。「感情を吐き出すのがジャズ」、「感情を隠すのがボサ」。
音楽のバランスって難しい。
確執云々は別にしてもね、GetzもJoaoもお互いの方法で良い演奏をしていると思う。ただそれぞれが別の音楽をやってるということ。
Getzのフレーズ確かにかっこいいよね。イカしてる(笑)。で、じゃあJoaoのギターや歌、Jobimのピアノが同様にかっこよくてイカしてるかというと、そんなことはない。
むしろボサノバ勢の持ち味は、たどたどしい素朴さ、語りすぎない風通しのいい清涼感、そういったところにある。
「Joao Gilberto In Tokyo」とか「Joao」とか、彼の傑作といわれているアルバムを聴いてるとよくわかるけど、Joaoは特にこの「素朴」「語り過ぎない」というところは徹底してる人だし、Getzと音楽的に合わなかったことは容易に想像できる。
一触即発の2人を、Jobimが冷や汗流しながらなんとか取り持って、どうにか完成させたというのが、このアルバムの実情だったらしい。
「ジャズとして聴いてみる」、「ボサノバとして聴いてみる」、「おのおののコミュニケーションを意識してみる」、といった、少し視点を変えた聴き方をしてみると、このアルバムの違う側面が見えてくるかもしれないですね。
あららら、ひさしぶりにまともな記事を書いたけど、非常にくどくて読みづらい文章になってしまった。
書いていくうちに調子が戻ってくるといいねぇ。
ではでは。
TBありがとうございました。
こちらからも、返させていただきました。
このアルバムは、確かに異文化が仲良しになり過ぎない程度に同居してますよね。(苦笑)
でも、ボサを知らなかった頃の私にはとっつきやすいアルバムでした。
こんにちは。
ご来訪ありがとうございます。
ジャズも異文化コミュニケーションの時代ですね。
なんちゃって(笑)。
そちらのブログもちょくちょく覗かせていただきますね。
ではでは。
http://blog.livedoor.jp/ponty_girasoli/archives/50103113.html
へのトラックバックありがとうございました。
ゲッツ/ジルベルト以前にもマイルス・デイビスとギル・エヴァンスによる「クワイエット・ナイツ」や、スタン・ゲッツとチャーリー・バードの「ジャズ・サンバ」などボサノヴァへアプローチした作品は出ていますが、その圧倒的な音楽性でヒットし、認知度を上げた作品はまさしくこのゲッツ/ジルベルトだと思います。様々な逸話がある作品ですが、音楽におけるコペルニクス的転換のきっかけとなった非常に重要な作品だと思っています。それだけに不朽の名作だと思います。
「Getz / Gilberto」は、僕もジャズ聴き始めのころにいやというほど聴きまくりました。
当時はボサがどういう音楽かも知らず、なにを聴いたらいいかもわからずに、ガイドブックの「歴史的名盤」という文字を鵜呑みにして「これはいい演奏なんだ!」って、自分に言い聞かせて無念無想で聴いてました(笑)。
Getzのソロは諳んじてしまっていて、鼻歌で口ずさんだりしてましたよ。
今になってみると、少々複雑な気持ちです。
各々の演奏のみをクローズアップしてみるとよくまとまっていて、個人個人はそれなりに充実しているんですよね。
ただ曲を通して全体としてみると、Getzはジャズをやっていて、他はボサをやってるという・・・・・お互いに歩み寄ろうという意識はほとんどなくて、GetzはボサのリズムでJobimのメロディラインを題材にジャズを演奏している。他はいつも通りにボサの演奏を淡々とやっているという・・・・・結構シュールな世界ですよね。
大ヒットして新たな流れを起こし歴史的に重要な役割を果たしたアルバムであることは確かなんですが、それと演奏の音楽的なバランスは必ずしも比例しないというか・・・・・。
思うに、ジャズにボサのエッセンスを取り入れた作品は数あれど、ジャズの側からボサの本質に歩み寄った作品というのはほとんどない気がします。
これは、感情の赴くままにアドリブするいうジャズ側のコンセプトが、アドリブなしに淡々と反復するというボサのやり方にあまりそぐわないということなんでしょうか。
ちなみに、ブラジル音楽とジャズのコラボレーションで僕がよく聴くのは「Native Dancer / Wayne Shorter」でしょうか。
これは結構好きですね。
Infinite Love (Gil Goldstein/Romero Lubambo)
http://blog.livedoor.jp/ponty_girasoli/archives/30507725.html
サンバにせよショーロにせよ、ブラジルポップ、所謂MPBにせよ、結構ストレートな感情表現に終始しているのに対して、ボサだけが屈折している、というか感情を出さない奥ゆかしさを前面に出している。
これって、結構日本人の「侘び寂び」っていうんですか?、そういった表現に近いと思うんですね。ブラジル人の情緒が日本人に近い側面があるんでしょうね。
これは近代以降のブラジル以外の欧米の音楽にはちょっと見られない表現方法で、そういった意味で「ジャズの側からボサの本質に歩み寄った作品というのはほとんどない」と思うんですね。
上に挙げた「Native Dancer / Wayne Shorter」にしても例外ではないです。
僕は極端な話「ボサの表現はジャズミュージシャンには無理」って思っているんですよ。
どうしたってフレーズ動きたくなるし、ダイナミクスも上下したくなる・・・・・そういった装飾を否定したところにボサの本質があるわけで、どんなコラボを組んでも、ジャズ畑の人とでは最終的にボサにはならないというか・・・・・。
ただ、ジャズメンが無理してボサをやる必要はないと思うし「ボサっぽいジャズ」でも構わないと思っています。
そういった音楽が必然的な表現を内包しているかというと、それはちょっと?ですが(笑)。
「少し視点を変えた聴き方をしてみると、このアルバムの違う側面が見えてくるかもしれない」というのは全くそのとおりだと思います。聴き方を変えることによって二度も三度も楽しめるアルバムだからこそ、名盤なのかもしれません。
わざわざご来訪いただきましてありがとうございます。
>聴き方を変えることによって
>二度も三度も楽しめるアルバムだからこそ、名盤
なるほど、それはいい得て妙ですね。
1枚で2度おいしい、3度おいしい。
お得な気分ですね(笑)。
遅レスすごめんなさい。
ええと、本文で論じているのは、ボサがブラジル音楽であるかどうかとか、「Getz/Gilberto」がボサであるかないかということではまったくなくて、「音楽の方向性の統一が取れていない」ということなんですね。
ジャズである、ボサである、一般にどのジャンルとして聴かれているかというのは、ジャーナリズムに流布している瑣末な話でしかありません。
ここで言っているのは、ボサ勢とGetzは「音楽的な表現方法が違う」ということで、それが演奏全体としてみたときにバランスを崩している、ということなんです。
おわかりになりますでしょうか?。
僕はこういった音楽的な議論は大好きなのですが、pontyさんの反論の内容が少々的を得ていないような気がします。
アルバム自体が良いか悪いかとか、名盤か堕盤かということは書いていないですよね?。また、僕の個人的な趣向(嗜好?)について書いているのでもないんですよ(笑)。
あしからず(笑)。
ではでは。