一回り以上年上の彼が新しくなったバス乗り場を見たら少しは驚くだろう。地下送迎場の建設を急ぎたい市と福山城遺構の保存を求める市民団体との間には過去激しいやり取りがあって舟入・二重櫓台の南側石垣が築城当時の高さに復元され上部のみが一般に公開されている。福山城は三十万石クラスの大名の城に匹敵するほどの規模であった(これには徳川家康公と初代福山藩主・水野勝成公とはいとこにあたることが関係している)
福山城
備後福山城は、江戸時代初期の1819年(元和5年)に、備後10万石の藩主として配置された譜代大名の水野勝成により築城された近世城郭で、1822年(元和8年)に完成しました。
五層の天守を中心として、7棟の三重櫓、14棟の二十櫓、多くの渡櫓が建ち並び、内堀と外堀を備えた壮大な平山城で、外堀は築城当初、入江(入川)を通じて海と直接つながっていました。
福山城は、江戸時代を通じて、水野氏、松平氏、阿部氏と続いた福山藩政の中心的な施設としての役割を果してきました。明治維新の後、廃城令により、天守、伏見櫓、筋鉄御門などを残して城の建物は撤去されました。さらに内堀、外堀も鉄道用地や市街地化にともなって昭和初期には全て埋められました。
「福山駅前に残る福山城遺構のパネル」には発掘時の二重櫓台の石垣、御水門入口の石段の写真が補足説明として印刷されている。福山駅の在来線ホームから私が撮影した発掘調査の写真も参考にしていただきたい。