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寮管理人の呟き

国宝福山城御湯殿清風楼の記念スタンプ

福山城の絵葉書コレクションのうちの1枚。表面に残された「國寳山城御湯殿清風樓」の文字と鮮やかな朱色から判断して昭和8年(1933)以降、おそらく大東亜戦争勃発前に福山公園を訪れた人が記念に押した物だろう。

福山公園の沿革

…明治七年(一八七四)九月、本丸の公園運営にかかわって各町村戸長が小田県県令に天守閣等の諸建物と城地の無償下賜を請願した。同年十月二十七日、内務卿伊藤博文により「人民偕楽の地となすべし」との条件のもとに許可され、翌八年一月二十五日付内務卿大久保利通より「指令どおり公園となし、建造物は永久保存すべし」との達しに接している。

 明治二十一年(一八八八)三月、栗原喜助氏などの発起により、公園の繁栄作として月見櫓の跡に「葦陽館」を建設して貸席とすることを県に願い出て、株主二百六十三人を集めて建設している。

…天守閣の荒廃はいよいよはげしく、県へも度々修理を申し出たけれども実現せず、ついに明治二十八年(一八九五)福山町会は決議をもって、県に福山町への公園移管を上申し、福山公園保存会を組織して保存管理にあたることとした。明治二十九年四月一日を持って公園を福山町に移管する手続きがとられたのである。保存会はただちに組織され寄付金も一万円にのぼり、天守閣や伏見櫓、御湯殿、筋鉄御門の大修理もなされ、面目を一新したのである。
 当時、二之丸は福山製紙田中八九郎氏の個人所有となっていたが、大正四年(一九一五)に桜が植えられ、年々春四月には浪漫の美景となり公園に風致をそえていた。
 大正五年(一九一六)、福山市になっても公園はそのまま市に移管され、市の管理のもとに経営されていた。
…昭和六年(一九三一)一月十九日をもって福山城天守閣は国宝に指定されたのである。このとき同時に指定を受けた城郭は、姫路・岡山・広島城の各天守であった。さらに、昭和八年一月二十三日には伏見三層櫓・御湯殿・筋鉄御門の三棟も国宝指定されたのである。…
 昭和二十年(一九四五)八月八日の空襲に、天守に直撃焼夷弾二発が命中し、五層の床から火を発して上層より焼け崩れ、灰燼に帰してしまった。劫火はついで葦陽館、御湯殿を焼失したが、伏見櫓、筋鉄御門、鐘櫓のみが無事だったのである。

『新版福山城 / 福山市文化財協会(2006年)』

再建された御湯殿

明治期に御湯殿(おゆどの)は手が加えられ料亭(清風楼)として利用された。桜の咲く時期には賑やかな宴会が行われていたと思われる。

御湯殿の復元
 戦前まで、桃山風の建築で城の前面に美観をそえていた。木造で内外共に復元を計画し、幸いに設計資料が保存整備されていたので、昭和四十一年(一九六六)の秋に復元された。内部は、御物見の段と御風呂の間は旧規に復元され、御物見のある座敷と次の小間は各種の文化的な会合に利用することとし、そのため便所と流しを内部に設けている。

『新版福山城 / 福山市文化財協会(2006年)』

再建された御湯殿を見上げた私は「4月にまたここに来よう」と誓い城の歴史を辿るきっかけを作ってくれた押印者に深く感謝したのである。

御湯殿の説明

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