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立正大学の学園歌 北原白秋の高弟 大木惇夫(あつお) その時代の人間関係

2016-03-31 00:45:26 | 命・地球 NPO
『いき高し、矢山が丘に、立正ぞ我らが誇り・・・』で始まる立正大学の学園歌も大木惇夫の作詞である。
http://www.ris.ac.jp/rissho_school/about_school/school_song/enka.html←立正大学学園歌

学園歌「意気高し」 
作詞・大木惇夫
作曲・乗松昭博

1.

意気高し谷山ヶ丘の
立正ぞ 我等の誇り
橘の清けき花を
諸共に香らさんかな
明日の春 明日の春
額(ぬか)に汗して待つを知る
清若き者に幸よあれ

2.

不二ヶ嶺の東雲(しののめ)映ゆる
安国ぞ我等の願い
蒼空の明るき智恵を
諸共に汲み取らんかな
明日の春 明日の春
額に汗して待つを知る
清若き者に幸よあれ

3.

夕星に御諭(みさとし)光る
行学ぞ我等の標
風戦ぐ緑の園を
諸共に培わんかな
明日の春 明日の春
額に汗して待つを知る
清若き者に幸よあれ


校歌「見よ東海の」
作詞作曲不明
 
1.

見よ東海の芙蓉峰
茜射す陽に映ゆる時
無明の眠 覚ますべく
暁鐘響く谷山丘

2.

前聖(ぜんしょう)既に範を垂れ
後世起つに遅れんや
同胞(はらから)のため世のために
生命を身をも捧げなむ

3.

翳す立正破邪の剣
樹つる理想の旗風に
四海を靡け久遠(とこしえ)に
本時の春を讃えなむ

日本詩壇に大きな影響と足跡を残した詩人北原白秋の高弟であった、大木惇夫(あつお)の作詞(立正大学学園歌)によるもので、大木の友人であった詩人で歌人、評論家であった『浅野晃』の紹介によるものであったといわれる。

大木淳夫(幼名大木軍一)
明治28年に広島市に生まれた。
広島商業学校卒業後東京に出て、出版社に勤務のかたわら正則英語学校・アテネフランセへ通って英・仏語を勉強した。
まもなく、淳夫は出版社を退社したが、このころ北原白秋の知遇を得て、大正12年に白秋と山田耕筰が創刊した 「詩と音楽」に以下に掲載する処女詩集である『風と光と木の葉』 を発表して、文筆生活に入った。

北原白秋は、淳夫の第1詩集「風と光と木の葉」に序文を寄せ、この詩集を「同種同血の親愛」と述べ、淳夫が白秋抒情の正統を継ぐものと、その作風を高く評価した。

よくは知られてはいないが、『鎌倉市歌』も、大木惇夫氏の作詞です。

鎌倉市歌
大木 惇夫 作詞
矢代 秋雄 作曲

1959年(昭和34年)に、鎌倉市市制施行20周年を記念して美しい自然環境と豊かな歴史的遺産を持つ、古都・鎌倉のさらなる発展を願って作られました。

1

由比ガ浜 しずけき波に
人の和を いざなう都
山の幸 海の幸 豊(ゆた)けく
風光は雅にも 清(すが)しく
世界の人の 心を惹くよ
虹は立つ 虹はよぶ
鎌倉 鎌倉 ああ栄えある都


大仏(おさらぎ)の気高き在り所
慈悲と会いあふるる都
山の幸海の幸ゆたけく
栄光をかかぶりて興りて
久遠の智慧の泉を掬よ
虹はたつ 虹は呼ぶ
鎌倉 鎌倉 ああ歴史の都


さみどりの林と丘と
砂の白むつめる都
山の幸海の幸ゆたけく
住居(すまい)して快よく明るく
風懐ゆかし 貝殻鳴るよ
虹はたつ 虹は呼ぶ
鎌倉 鎌倉 ああ文化の都

参考↑ホームページ
『鎌倉を唄う歌』
http://158.199.167.162/kamakura/do%20you%20know/doyouknow/shouka.htm


『風・光・木の葉』

               
一すぢの草にも
                われはすがらむ、
                風のごとく。

                かぼそき蜘蛛(くも)の糸にも
                われはかゝらむ、
                木(こ)の葉(は)のごとく。

                蜻蛉(あきつ)のうすき羽にも
                われは透(す)き入らむ、
                光のごとく。

                風、光、
                木の葉とならむ、
                心むなしく。

             
一筋の草に、風のようにすがりたい。

か細い蜘蛛の糸に、木の葉のようにかかりたい。

蜻蛉(とんぼ)の薄い羽に、光のように入りたい。
              
心をむなしくして、風、光、木の葉になりたい。

            
自然の微妙な情感を、孤独の中、淡く描き出したいと言葉を選んでささやくように歌う。

             『小  曲』
               
想ひ
                かすかに
                とらへしは、

                風に
                流るる
                蜻蛉(あきつ)なり。

                霧に
                ただよふ
                おちばなり。

                影と
                けはひを
                われは歌ふ。


この詩で、淳夫は 「風・光・木の葉] よりさらに口数が少なく、小さな想いを歌う。「とんぼとおちば」 を象徴的に取り上げ、自然の実体ではなく 「影とけはい」 だけを歌うことで、自然との合一を求めているかのようである。
                『亡びの門』

青春は、げに華麗なる蛾の羽搏(はばた)き、
一瞬の栄え、
きのふ、すでに、わが祭りは散りゆけり、
陰影のごとく、落ち葉のごとく。

さて、古風なる、雅(みやび)やかなる、また聖なる

笙(しょう)と鼓(つづみ)と笛の祭りも・・・・

今は見よ、末人(まつじん)の末期(まつご)の乱舞、黄金と剣と肉の祭りの

獣(けもの)のごとく地を統(す)べたるを。

ああ、廃れゆくものゝ美しさ、

世も、われも亡びの門の嘆きにあり。

青春とは、華麗な蛾が羽ばたくかのよう、その栄華は一瞬だ。

人生の祭りは、影のように落ち葉のように、散り去った。

古風な、みやびやかな祭りは、いつしか人生の末期を迎えて

黄金と剣と肉の獣の祭りとなって終わる。
        
廃れゆくものの美しさ。だが、それは滅び行く門の前での嘆きか。
                淳夫は、この詩ではとても饒舌である。語彙も豊富である。しかし 「影と落ち葉」 はここにも顔を出している。耽美的な情感も、強く生きる気持ちも、ここにはない。この詩で淳夫は、動揺する戦前の日本の混乱を訴えようとしたのだろうか。

淳夫は太平洋戦争中は軍部に徴用され、南方戦線に従軍し、青年将兵の気持ちを歌った。
だが敗戦後、日本詩壇は淳夫を戦争詩人と呼び、強く批判したという。しかし、この繊細な口数の少ない詩人が、果たして戦争を賛美したのだろうか。生死の岩頭に立つ青年将兵を、詩を通じてなお戦場に狩り立てる厚顔さがあっただろうか。

自らの反省と苦悩の中、敗戦後もなお詩作を続けた淳夫は、昭和52年、享年82歳で没した。
なお、詳しくは中央公論新社から出版されている大木惇夫『忘れられた詩人の伝記』宮田毬栄著を参考にしてください。

複数の書評↓があります。

http://mainichi.jp/articles/20150628/ddm/015/070/003000c

http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2015071200004.html

大木惇夫さんは、合唱などでよく歌われる「大地讃頌(だいちさんしょう)」が有名です。

下記は、『土の歌』の 第六楽章「大地讃頌」の歌詞です。

第六楽章「地上の祈り」

美しい 山河(やまかわ)を見て
美しい 花を見て
大地の意(こころ)を信じよう
恩寵(おんちょう)を
自然に享(う)けて感謝しよう

 ああ
 戦争の
 狂気をば
 鎮(しず)めたまえ
 剣の乱れ
 爆弾の恐れを
 さけたまえ
 天意にそむく
 動乱を
 おさめたまえ
 ああ 戦争の
 狂気をば
 鎮めたまえ

地の上に花さく限り
よろこんで日ごと営み
悲しみも耐えて生きよう
ああ 栄光よ
ああ 地の上に平和あれ
 
石村 柳三
(いしむら りゅうぞう)
1944年 青森県北津軽に生まれる。
1962年 身延山高等学校卒業。
1967年 立正大学文学部史学科卒業。
2004年 『石橋湛山-信念を背負った言説』(高文堂出版社)を刊行。本書は《日本図書館協会選定図書》となる。
2005年 11月8日 「平成17年度 身延山大学公開講演会」から講演を依頼され、「自由主義者 石橋湛山」を語る。
2007年 詩論集『雨新者の詩想』(コールサック社)より刊行。

 僧侶になるべく仏教系の学校に学んでまもなく父が亡くなり、身延町波木井山円実寺にお世話になり、行学の二道に励む。毎日五時に起床するなど、躾は厳しかったが、住職夫妻の分け隔てない愛情に、育ての親の恩愛を知る。ふかい感謝が胸臆を離れない。
 東京池上から千葉県鎌ヶ谷市、市川市、千葉市に転居し落ち着く。この間、水書房編集部や日蓮宗新聞社編集部に記者として勤める。
 詩誌「光芒」同人。詩誌「COAL SACK」、その他にも寄稿。
千葉県詩人クラブ会員。立正大学国語国文学会会員。石橋湛山研究者。

以下は、石村 柳三氏の立正大学での体験を回顧なされたお言葉である。

『石村柳三氏の詩人論』より
http://sakubungakukaei.blog.fc2.com/blog-entry-53.html 一部変更

秘めた求道心と詩の業を叫ぶ呼応者

・・・拙著『石橋湛山―信念を背負った言説』を出版されてまもなく、私は立正大学を訪れ、企画広報室の青野課長に一冊進呈したことを覚えている。それを含めて二、三回の出合いであったと思う。
 さて、それから嶋岡晨先生も青野の遺稿集『幻花』で、「青野詩の存在」として認めているごとく、立正大学の校歌は日本詩壇にも大きな影響と足跡を残した詩人北原白秋の高弟であった、大木惇夫(あつお)の作詞によるもので、大木の友人であった詩人で歌人、評論家であった浅野晃の紹介によるものであったといわれる。
 浅野晃は、戦後立正大学国文学科の専任教授として教えており、日本浪曼派の一人として有名であった。晩年は「日本浪曼派最後の一人」と呼ばれた。とくに転向文学者の代名詞のごとく捉えられていた。私も立正大学に学んだ者として、大木惇夫の校歌作詞や「浜辺の歌」の作詞者であった林古渓(こけい)、『起てよ印度』『二重国籍者の詩』の文学者又は詩人と知られた野口米次郎らが立正で教えたということは、大学の出していた発行誌で知っていた。
 就中、日本浪曼派で知られていた浅野晃先生からは、私の名前を入れてくれた署名詩集『寒色』(再版)や『草原』という詩集も進呈され、うれしかったことを覚えている。それから五反田でソバをごちそうになり、太宰治や評論家の大宅壮一などの若かりし頃の話を聞いたのがなつかしい。
『寒色』(初版)は第15回読売文学賞を受賞した詩集で、文学者佐藤春夫や作家三島由紀夫らが激賞した。

 尚、私が在学していた時は、まだ若かりし新進気鋭の現代ドイツ哲学者の清水多吉先生、マルクス経済学宇野学派の異端児と知られていた岩田弘先生、それに教養部教授として迎えられた『日本国憲法学の生誕と発展』『憲法制定前後』などの名著で、日本護憲派の憲法学者で知られた鈴木安蔵先生。社会教育学の気鋭藤田秀雄先生(現在立正大学名誉教授)などが、社会に対して活発に発言していたことを思う。
 そうした立正大学の姿というか、状況を職員として詩人青野三男は知っていたことであろうと思う。
 遺稿詩集となってしまった『幻花』に所収されている詩篇「雑木林の詭計」は、立正大学の熊谷校舎の原野風景をイメージさせるところもあって、どこかなつかしい匂いがある。

以上、校歌(学園歌)などの歌詞の意味、さらに作詞家や作曲家の人間関係を、各自の母校の成り立ちを、その時代の歴史と照らし合わせることで作詞の意味をさらに深く捉えてることは、感慨深いことでもある。

さて、あなたの母校の校歌の作詞家や作曲家はだれであり、成り立ちはいかがなものでしょうか。
    
                                


                    

   

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