神といひ
仏といふも
世の中の
人のこころの
ほかのものかは
源実朝『金槐集より』
今回は、鶴岡八幡宮で行われる『献詠披講式(けんえいひこうしき)』をご紹介したいと思います。
ものいわぬ 四方のけだもの すらだにも あはれなるかなや 親の子をおもふ
『吾妻鏡』によると1184年(寿永3年)4月4日に源頼朝は、桜が満開の御所に一条能保を招いて花見を催して「管弦詠歌の儀」を行っています。
また、1186年(文治2年)8月15日には、東大寺再建の勧進のため、奥州へ向かう途中の西行に歌道と弓馬の事について尋ねたといわれています。慈円との贈答歌 「陸奥のいはでしのぶはえぞしらぬふみつくしてよ壺の石ぶみ」 は『新古今和歌集』に撰されています。
さらに重要なことには、源頼朝の次男である源実朝は、和歌の道に精進しながら『金槐和歌集』を編纂しています。
鎌倉時代の始まりは、1192(イイクニ=良い国)ではなく、1185(イイハコ)となりましたから、単なる箱物を作るという浅はかな話ではなく、この歴史を担うべき『良い箱』には『何を入れるべきか』が一番大事なのであります。
その箱とはまさに漢字の『口』のようであり、白川静氏がいみじくも解釈なされた、「サイ」のように神事に関し、神に対して載書(祝詞)をあげるときの供えの器(うつわ)を象徴したものでもある。
つまり「口」はサイで、器に榊の枝葉を掲げて神への報告やおつげを待つときのスタイル(様式)を表すと解いている。言葉(漢字)の起源は民間の暮らしではなく、神事や政治に関わりが深いことを、ことばの成り立ちなどを歴史や文化から学びながら、それを踏まえた表現や解釈が大切になります。
このように、『和歌』は、善い口から詠まれ、イイ(良い)ハコ(箱=サイ)に容れるのに相応しい『言霊』なのです。
私自身も、学生時代から鎌倉を訪れ、拙い短歌を詠んだものです。
我ありと こころを伝う 鴬(うぐいす)よ 『我と汝』の 深き谷越え
単に、ウグイス(鴬)の声が聴かれる『春の訪れ』だけでなく、あのマルティン・ブーバーの名著である『*我と汝』を読まれてご存じの方々には更に心に響くのではないでしょうか?
以前お会いした日野原重明医師は、以下のようなことを言っています。「・・・それは、マルティン・ブーバーという哲学者の言っている言葉を知りましてね。人は老いても新しいことを始めるからには、いつまでも若い。だから新しいことを始めようと。その始めるというのは創作もそう。歳をとって今までやったことのない、したことのないことを始めるということが、これが若さの秘訣だと思いますよ。・・・」
『マルティン・ブーバー』の著作、
我と汝・対話 みすず書房 1978
Martin Buber Ich Und Du 1923に関して詳しくは、各回とも秀逸な解釈や解説の松岡正剛の『千夜千冊』をぜひ参考にして下さい。
https://1000ya.isis.ne.jp/0588.html
さて、話を『献詠披講式』に戻しますと、あの源頼朝は、武家の古都を創始しただけでなく、『和歌にも優れた人物』でした。この「献詠披講式」は、和歌に精通していた源頼朝や源実朝にちなんで、平成17年より始められました。
通常、3月の最終土曜日か日曜日に行われます。今年平成28年は3月26日(土)の午後1時に行われる予定です。
「被講(ひこう)」とは、詩歌に曲節をつけて詠み上げることの意味であり、和歌とは「披講」することを前提としています。
「献詠披講式」の執り行れ方は、
司会役である読師(どくじ)が1名、全句を節をつけずに読む講師(こうじ)が1名、第一句から節をつけて歌う発声 (はっせい)が1名、第二句以下を発声に合わせて歌う講頌(こうしょう)が4名の構成で行なわれます。
披講(ひこう)される和歌は、実朝の一首と公募によるものです。
このような伝統と文化に触れるために、ぜひ鎌倉を訪れ、できれば一首春の訪れを詠まれてはいかがでしょうか?
『我と汝』の間隙を、講頌(こうしょう)の歌声で埋めることのできる鎌倉(八幡宮)にてお待ちしております!
世の中は
常にもがもな
渚(なぎさ)漕ぐ
海人の小舟(をぶね)の
綱手(つなで)かなしも
鎌倉右大臣(93番)
『新勅撰集』羈旅・525
鎌倉右大臣(1192~1219)とは鎌倉幕府を開いた源頼朝の次男で北条政子の息子、源実朝(みなもとのさねとも)のことです。百人一首の撰者である定家の指導で和歌に親しみました。
1203年には、わずか12歳で3代鎌倉幕府将軍となりましたが、28歳になった1219年に、鶴岡八幡宮への参拝した際に源頼家の子で八幡宮の別当を務めていた公暁が大銀杏に隠れて待ち伏せ、源実朝を殺害したという伝説があり、暗殺されたと言われています。
うつつとも 夢ともしらぬ
世にしあれば 有りとてありと
頼むべき身か
正岡子規も、評論「歌よみに与ふる書」で、『柿本人麻呂以来の最高の歌人』は源実朝だと絶讚し、太宰治には「右大臣実朝」を著し、さらに小林秀雄も評論「実朝」を書いています。
あの有名な「金槐和歌集」の「金」は鎌倉の「鎌」の「かねへん」を表し、金槐の「槐」には「大臣」という意味のある和歌集である。別名・鎌倉右大臣家集とも言われ、実朝の作品集なのです。
*我と汝・対話【新装版】
http://www.msz.co.jp/book/detail/07854.html
ICH UND DU / ZWIESPRACHE
著訳者略歴
マルティン・ブーバー
Martin Buber 1878-1965
ウィーンに生まれる。
3歳の時から幼少年時代を、主としてガリチア(ポーランド)の祖父ザロモン・ブーバーの家に住み、のちウィーン、チューリヒ、ベルリンなどで哲学や芸術史を研究し、1904年に論文『個体化の問題の歴史について(クザーヌスとベーメ)』で学位を取得。学生時代にはシオニズムの運動にも参加したが、政治的シオニズムとは異なる立場からユダヤ文化のために尽力するに至り、1916年から24年までは雑誌「ユダヤ人」を編集する。1923年には主著『我と汝』を出版。またこの年から33年まではフランクフルト大学で宗教学とユダヤ教倫理を講ずる。38年、ドイツを去り、イスラエルに住み、51年までヘブライ大学の教授を務める。著作は邦訳されて『ブーバー著作集』(全10巻、みすず書房)に収められたもの以外にも、『ひとつの土地にふたつの民』(合田正人訳、みすず書房)など重要なものが多く、旧約聖書のドイツ語への新訳も高く評価されている。
「根元語はわれわれの存在そのもので語られる。汝が語られれば、対偶語・我‐汝における我も共に語られている。それが語られれば、対偶語・我‐それにおける我も共に語られている。根元語・我‐汝はただ存在の全体でもってのみ語られ得る。根元語・我‐それは決して存在の全体でもっては語られ得ない。」
(『我と汝』より)
「私には要求する資格も権限もない。私はただ、或ることが存在するという事実を語ろうとこころみ、それがどのようなものかを暗示しようとこころみているだけだ。私は報告しているのである。そしてそもそもわれわれは、どうして対話的なものを要求することができようか? 対話は命令されるものではない。応答はなされるべき義務ではなくて、なされ得ることなのだ。」
(『対話』より)
ユダヤ思想家ブーバーの主著2編。我とは何か? 汝とは何か? 根本的な問いから、人間の全体性の回復をめざす。「数学の定理」のような文章、散文詩の一節に似た表現、神話的なエピソード、読者への語りかけ… 破格でかつ美しい言葉に満ちた、20世紀前半を代表する思想書。
[初版1978年]
目次
我と汝
第一部/第二部/第三部/原著者あとがき
対話
記述/境界設定/確証
訳注
訳者あとがき
マルティン・ブーバーにご関心を持たれた方々には、
斉藤 啓一 著『ブーバーに学ぶ―「他者」と本当にわかり合うための30章』もあります。
出版社 日本教文社
発売日 2003/12/1
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