三鷹で一番高い山
加藤嘉六
2003年から玉川上水の写真を撮り始めましたが、最初に撮った水路の中の写真だけでは枚数が足らないと思い、玉川上水や分水の周りの古い農家や畑、屋敷林を撮ろうと狙いを定め、流域を探し回りました。そんな中で出会ったのが、三鷹で一番高い山裾にあった16代続くという農家の大きな屋敷でした。
その屋敷の裏山には、写真のエノキの大木と根本には個人が持つには立派な造りの鳥居と稲荷がありました。
その後この裏山の頂き付近から撮ったものが次の写真で、絶好のチャンス待つために何度か通った記憶があります。15年ほど前の初冬のうっすらと朝焼けした空に、後方の白く冠雪した富士山。手前に丁度富士山のような三角形の形をした、どっしりとした瓦屋根を持つ、白い壁の農家の佇まいが印象的な風景でした。
都会とは思えない里山の風景に出会えたと思いました。この場所に、半年ほど前にも近くまで行きましたので確かめましたが、今でも変わらずに保たれていました。私にとってはいつまでも残って欲しい風景です。
ところで、この辺りは玉川上水でも特殊な場所になります。玉川上水は、太宰治入水体発見場所に近い新橋辺りから、左岸の先の神田川の低地を避けるために右へ左へと蛇行します。そして右岸には小高い山が現れます。一つ目の(下層に下末吉ローム)山です。ここは昔から法面の崩れが見られ、修復工事をしない所を探すのが難しいほどです。
山の斜面を流れ下った雨水が玉川上水に流れ込むために法面が崩れるのではないかと思います。左岸は南側が高いのと、樹木が繁っているために光があたらず、霜などの影響で崩れ易くなったのではないかと思っています。そしてその先が上記した三鷹で一番高い山で、2つ目の下末吉ローム土を持つ山です。
この二つの山の成り立ちを説明するには、武蔵野台地(北は荒川、南は多摩川)の成り立ちを説明しなければなりません。武蔵野台地は200万年前から7万年位前までは浅い海でした。西の奥多摩山地から流出した礫や砂が海に堆積し、土台となる上総層(神田川椿山荘前で見ることが出来る)が造られ、氷河の発達により海面の低下、陸化して、西は高く、東は低い扇状地が形成されました。武蔵野台地で一番高い狭山丘陵は50万年前からの富士山や、箱根火山、八ヶ岳などの噴火により、その灰が積もった多摩ロームと呼ばれる層に6万年前の武蔵野ロームや2万年前の立川ロームが積み重なって出来ています。同じように他地区も火山灰が降灰しましたが、扇状地を流れる古多摩川が堆積したローム土を流し去ってしまいました。ここでは下末吉ローム(12~13万年前)と呼ばれる火山灰の上に武蔵野ローム、立川ロームがその上に重なっています。古多摩川の流路の変化が影響していると言われています。
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タイトルを「三鷹で一番高い山」としましたが、「そんなところがあったかなー」という感じる人が多いと思います。ただ、西に見える日本一の富士山を眺めながら、畑仕事や日々の暮らし、季節や時代の変化を感じながら、16代も住み続けることが出来たということは、得難い住みやすい場所だったのだと思います。