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“何もしない時間”は無駄なのか?

2009-08-20 21:42:32 | memo など

“何もしない時間”は無駄なのか?――「ウツ」を引き起こす「有意義」という言葉

――「うつ」にまつわる誤解

 現在の社会では、何につけても効率が優先され、通勤時間などでも寸暇を惜しんで知識を身につけることが奨励されるような風潮があります。

 経済効果や経済効率が最優先される価値観は、いつの間にか「時は金なり」という考えと結びついて、私たちの生きる時間についても、常に「有意義」に過ごすべきであるという強迫観念を生みだしてしまいました。

 何かを「する」ことにばかり価値が置かれ、何も「しない」時間は無為に浪費された時間と見なしてしまう現代人の意識は、「うつ」をひき起こすオーバーワークの精神的土壌になっていますし、「うつ」の治療に欠かせない「何もせずに」療養するという際にも、罪悪感や焦燥感を抱かせる原因になっています。

 今回は、この「有意義」という病に取りつかれてしまった私たち現代人と「うつ」の関係について考えてみたいと思います。

幼少期から始まっている強迫的な時間管理
 相談にいらっしゃるクライアント(患者さん)の幼少期からの歴史をうかがってみると、常にすき間なく習い事や塾、友だちとの遊びの予定等でスケジュールがびっしり埋められていたということが珍しくありません。

 幼少期においては、親の影響下で毎日が「有意義」にしつらえられ、何をするわけでもなくダラダラと過ごす時間が奪われてしまうことが多いようですが、後にそれが習慣化して、本人自身もスケジュール帳に空白ができることに不安を覚えるようになったりします。

 学校では、長期休みにすら「日課表」「予定表」の作成が義務づけられ、それをきちんとこなせることが良い過ごし方であるとすり込まれます。

 社会人になってからも、余った時間はスキルアップを目指して「有意義」に使うべきだという考えがあちらこちらから聞こえてきます。また、仕事場においては、近年徐々に時間効率が厳しく管理されるようになってきている流れも見られます。

 このような時代ですから、何も「しない」でダラダラと過ごすことが問題視されることはあっても、何かを「する」ことで埋め尽くされた状態について問題視されることは滅多にありません。しかも、目に見える「有意義」なことをしていることは周囲からプラスの評価を受けやすいため、「有意義」に傾く傾向は、疑いを抱くこともなくどんどん強化されていくことになります。

「うつ」は「有意義」への反逆
人間の「頭」とは、そもそも「二匹目のドジョウ」を狙うような効率化を目指して発達してきたコンピューター的な部分です。ですから、予定を立てたり計画をしたりするのは、「頭」の得意分野ですし、それを実行に移す意志力も「頭」由来のものです(第1回参照)。

「頭」はコンピューター的に情報処理を行なう部分なので、量的に把握可能なもの、つまり目に見えるものを重視する傾向があります。ですから、自分自身の価値を考える時に、「何をしたのか」「何が達成されたのか」などの生産性を目安に評価しようとします。

しかし、人間はそもそも何かのための「生産マシーン」として生まれたわけではありません。ですから、「常に有効に稼働しなければならない」という考え方は、生き物としての自然に反したものだと言わざるを得ません。

「頭」がコンピューター的で自然の原理から遠い部分であるのに対して、人間の生き物として自然な部分は「心」(=「身体」)の側にあります。ですから、「頭」が過度に効率を求めたり「有意義」であることを自らに課したりしますと、「心」(=「身体」)はそれにたまりかねて、ある時点から反逆を始めるのです。

反逆とは、相手が最も嫌がるようになされるのが常です。「頭」が効率的で「有意義」であることを強要し続けてきたことに対して「心」(=「身体」)が反逆するとすれば、自分を「無為」で「何の生産性もない」状態に置くのが最良の方策になるわけです。

 「うつ」の状態では、意欲が減退し、集中力は低下し、作業能率が著しく阻害されます。また、強い倦怠感とともにすべてに価値が感じられない状態にも陥ります。これぞまさに、常に「有意義」な「生産マシーン」であることを強要されたことに対して「心」(=「身体」)が激しく反逆した姿として捉えることができるでしょう。

過食症も「有意義」への反発である
 現代の「うつ」においては、もともと摂食障害と言える状態にあった方が途中から「うつ」状態も併発するようになるケースが珍しくありません。

 摂食障害には拒食症と過食症がありますが、どちらか一方の状態だけで経過することは珍しく、実際には拒食に始まり、途中から過食が主になるケースが多く見受けられます。

 摂食障害の方たちに共通して認められる特徴は、意外に思われるかもしれませんが、自己コントロール力の強さです。そのために、大概の人ならば挫折するはずの無理なダイエットでも継続できてしまったりして、それを契機に摂食障害が発症することも多いようです。

 本来人間は、「心」(=「身体」)が必要なものを必要な分量だけ「食欲」という形で要求してくる見事なシステムを備えています。そこにダイエットという「頭」による計算が強制的に介入し、食行動にコントロールをかけてくると、ある限度を超えたところで「心」(=「身体」)側は、食欲のストライキ(拒食)か暴動(過食)という形で、レジスタンス運動を始めることになります。

 特に過食症においては、過食の後に自ら嘔吐するパターンが多く、大量に摂取された食物は、ほとんど吸収される間もなく吐き出されることになります。しかし、この「無意味」で「無駄」な行為にこそ、症状の反逆としての意義が潜んでいると考えられるのです。

 自己コントロール力の強い方たちは、強力な「頭」の監視下で、絶えず「有意義」であることを強いられて生活しています。その息の詰まる生活に対して「心」(=「身体」)が反逆し風穴を開けようとしたのが、「無意味」で「無駄」な過食嘔吐という症状なのです。

何もしない時間がなければ、
「心」の声は聴こえない
 何も「しない」空白の時間は、「生産マシーン」としては「無駄」な時間に見えても、実は「心」(=「身体」)にとってはなくてはならない大切な時間です。

 人間は、何も「しない」空白の時間があってこそ、内省や創造と言われるような内的作業が可能になるもので、ボンヤリと様々なことに思いを巡らしてみたり、自分自身との対話を行なったりします。また、その退屈さゆえにどこかに新しい世界はないかと模索してみたり、とりとめもない空想にふけったりするのです。このように自由な精神活動こそが、人類の文明や文化を築いてきた根源でもあると言えるでしょう。

「頭」はいつも大声で主張してきますが、一方の「心」のほうは、普段はかすかな声でささやくだけです。そのかそけき「心」の声を聞き届けるには、どうしても空白の時間が欠かせないのです。

 知らず知らずのうちに現代人をむしばんでいる「有意義」という病に対して私たちが対抗できる方法があるとすれば、それは、あえて「無為」な空白の時間を大切にする意識を持つことでしょう。


キュートン 6回目


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