11.
「がん」の2文字の重みも、ときには負担になった。前にも述べたように、再発や転移の可能性は低い部類なので、不安はあまりない。それなのに、補助療法を始めてから起こるさまざまな症状にはとかく敏感だし、乳房を自己検診するときの不安感には常につきまとわれている。脂漏性角化症(しろうせいかっかしょう:加齢性のおできのようなもの)がどこかにできただけでも、「まさか皮膚がんじゃないだろうな」と考えてしまうし、何かが起こるとすぐに「がん」の2文字が頭の中を無意味に飛び交ってしまう。これは私だけの固有の現象ではなく、がん患者に共通するようだ。
生活の質を落とすもっと辛い難病がたくさんあるのに、なぜか“がん→生命の危機”と、とかく短絡し、「がん」の2文字に脅かされてしまうのはどうしてなのだろう。おそらく、それほど昔でもない頃まで実際にそうだったのかもしれないのと、がんの起こす肉体的な痛みへの漠然とした恐怖が、そうさせるのだろう。
そして、なんといっても、がんに対する無知が短絡を生むのだと私は思う。医療が進み、治療の考え方も変わり、がんが慢性病としてとらえられるようになってから、まだ日が浅いということなのかもしれない。少なくとも患者の側にはまだその考えが浸透していないので、慢性病としてとらえる余裕がないといえるだろう。あるいは、自分が患者になって初めてがんと対峙するので、その余裕が生まれないのかもしれない。自分の発病に先立って実父の大腸がんを経験していた私でさえ、いざ自分のこととなると、動揺の度合いも質も違ったものだ。そういう意味では、日本対がん協会などががんについて正しく積極的に啓蒙活動を行っていくことが、とても大事なことだと思う。
とにかく、皮下注射による治療をやめる頃と相前後して、放射線治療後の疲れに加え、ホルモン療法の精神的副作用、病気の原因追及、痛みの相対化、「がん」の2文字の重みに次々翻弄され、私はかなりしんどい状態だった。相変わらず、周囲には元気なそぶりを見せようとしていたのだけれども…。そして、“わがまま患者”になろうと決めたし、主治医が精神的なケアも引き受けると言ってくれていたにもかかわらず、Y先生にも漠然とした心のモヤモヤは相談しにくいのが実情だった。ただでさえいつも“押せ押せ”の診療時間内で、誰がこんなことを訊けるだろう…「先生、私、どうしてがんになったんでしょうか?」
こんなこと……そう、こんな漠然とした単純な疑問こそ、がん患者を翻弄する本質的な疑問なのだ。そして、それにもかかわらず、受け皿がなくて宙を漂ってしまう疑問でもあるのだ。
「がん」の2文字の重みも、ときには負担になった。前にも述べたように、再発や転移の可能性は低い部類なので、不安はあまりない。それなのに、補助療法を始めてから起こるさまざまな症状にはとかく敏感だし、乳房を自己検診するときの不安感には常につきまとわれている。脂漏性角化症(しろうせいかっかしょう:加齢性のおできのようなもの)がどこかにできただけでも、「まさか皮膚がんじゃないだろうな」と考えてしまうし、何かが起こるとすぐに「がん」の2文字が頭の中を無意味に飛び交ってしまう。これは私だけの固有の現象ではなく、がん患者に共通するようだ。
生活の質を落とすもっと辛い難病がたくさんあるのに、なぜか“がん→生命の危機”と、とかく短絡し、「がん」の2文字に脅かされてしまうのはどうしてなのだろう。おそらく、それほど昔でもない頃まで実際にそうだったのかもしれないのと、がんの起こす肉体的な痛みへの漠然とした恐怖が、そうさせるのだろう。
そして、なんといっても、がんに対する無知が短絡を生むのだと私は思う。医療が進み、治療の考え方も変わり、がんが慢性病としてとらえられるようになってから、まだ日が浅いということなのかもしれない。少なくとも患者の側にはまだその考えが浸透していないので、慢性病としてとらえる余裕がないといえるだろう。あるいは、自分が患者になって初めてがんと対峙するので、その余裕が生まれないのかもしれない。自分の発病に先立って実父の大腸がんを経験していた私でさえ、いざ自分のこととなると、動揺の度合いも質も違ったものだ。そういう意味では、日本対がん協会などががんについて正しく積極的に啓蒙活動を行っていくことが、とても大事なことだと思う。
とにかく、皮下注射による治療をやめる頃と相前後して、放射線治療後の疲れに加え、ホルモン療法の精神的副作用、病気の原因追及、痛みの相対化、「がん」の2文字の重みに次々翻弄され、私はかなりしんどい状態だった。相変わらず、周囲には元気なそぶりを見せようとしていたのだけれども…。そして、“わがまま患者”になろうと決めたし、主治医が精神的なケアも引き受けると言ってくれていたにもかかわらず、Y先生にも漠然とした心のモヤモヤは相談しにくいのが実情だった。ただでさえいつも“押せ押せ”の診療時間内で、誰がこんなことを訊けるだろう…「先生、私、どうしてがんになったんでしょうか?」
こんなこと……そう、こんな漠然とした単純な疑問こそ、がん患者を翻弄する本質的な疑問なのだ。そして、それにもかかわらず、受け皿がなくて宙を漂ってしまう疑問でもあるのだ。
がん闘病の苦しみは、いくつかの本で読んで言葉では理解はするものの、たぶん本当に実感はできていないんだろうと思います。というわけで、安易な慰めの言葉は空虚に響いてしまうのではないかと危惧します。とにかくご養生いただいて、一日も早く平穏な日々に戻られることを願ってやみません。
「私、どうしてがんになったんでしょうか?」
自然な疑問だと思います。ただ、その答が将来の助けになればいいのですが、こうすれば防げたはずだということで過去への悔恨になるとすればわからない方がいいのかもしれません。
でも、こうすることで少しずつ癒えていくのだと思います。本当にありがとうございます。
「過去への悔恨に......」そのとおりだと思います。後々の文章で出てきます(ある程度書き溜めておりますのでね)が、体の内外の要因が複雑に絡み合って、免疫力を落とした結果発病する病気だと思うので、厳密な原因追求に振り回されるよりも、快適に楽しく生活することで免疫力をあげていく方向へ転換する方が、大事かもしれないと、今では思っています。
当時はなかなかそこに辿り着けなかったのですよね...。
ご心配かけて申し訳ありません。