振出し 難聴、そして人工内耳へ

2007年2月17日から始めたブログ人のブログを継承しています。
gooブログは2014年11月3日よりスタート・・・

人工内耳のための音楽 勉強会

2013-06-08 21:25:00 | 人工内耳・補聴器

 6月になり、いつのまにか梅雨入りしました。

しかし、本日は、真夏のような日差しが強い日です。<o:p></o:p>

 先日の夕刊の一面に「梅雨入りまだだった?」という見出し記事が掲載されていました。もしかしたら、見直しされるのかもしれません?<o:p></o:p>

 今年はいつになく早く七分袖のシャツを諦め、半袖の綿シャツやポロシャツを引っ張り出しました。別に世の中のクールビズに合わせたわけではありません。雨が本格的に降り続くようになったら、きっとあわてて長袖のシャツを探すのだと思います。<o:p></o:p>

 皆様はいかがお過ごしですか?<o:p></o:p>

 自分は、相変わらずPCマウスや文字入力作業を続けていると腱鞘炎が再発するなど、肉体的にも精神的にも少々参っています。心と手首に休養を与えたいとダラダラしているうちに、何もせずに過ごしてしまいました。<o:p></o:p>

 ベッドで寝そべりながら、東野圭吾の加賀シリーズ「新参者」や「麒麟の翼」を読み返し、ナルホドと今更ながら話の展開に感心し、吉田友和・松岡絵里共著のバックパッカーの書「世界一周デート」を読んで、かつてドキドキしながらバックパッカーのことを知った沢木耕太郎の「深夜特急」とは違って、面白くスラスラ読みながら、のめり込むことができない自分を確認し、村上春樹の新著「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を午前1時まで読みながら、イマイチ中途半端な展開に何故って?突っ込んでいる自分がいてびっくりしていました。<o:p></o:p>

 ・・・・・<o:p></o:p>

 さて、ブログをしばらく更新していないとだんだん書くのが億劫になってきます。更新を待っている人は、そんなにいないと思いますが、忘れっぽい自分の記憶をブログ記事として残しておくことは自分のためにも、そして情報を欲している方にとっても、良いことなのだと理由づけして、怠け心を抑えて書くことに致します<o:p></o:p>

 いつもながら前置きが長くなりました。きっと書くことから逃げ出したいに違いありません。我ながら情けないです。<o:p></o:p>

 ・・・・・<o:p></o:p>

 5月19日に地域の「人工内耳装用者の会」の総会と勉強会がありました。<o:p></o:p>

 本日は、その時の勉強会のことを中心に報告していきます。<o:p></o:p>

 総会については、特別変化のない(進歩のない)ものでしたので、少しガッカリしました。<o:p></o:p>

 当事者の一人ですので、自分自身が反省すれば良いものだと思っています。<o:p></o:p>

 一方では、集団行動が苦手な自分としては、「一人で行動した方が向いている」と改めて自覚することができました。<o:p></o:p>

 この総会前後に「人工内耳装用者の会の在り方など」について、個人的にいくつかのメールをいただき、その度に杓子定規にしか答えられない自分にため息をついていました。<o:p></o:p>

 いずれにしても会を維持するための会であっては、つまらないと思いますし、何のための会なのか?ということになってしまいます。<o:p></o:p>

 ・・・・・<o:p></o:p>

 総会後の勉強会のテーマは、「人工内耳のための音楽作成」でした。<o:p></o:p>

 静岡大学情報学部、北澤先生の講演及び研究実践としての音楽聴取装置を使用した音楽試聴、そして静岡大学の学生で幾つかの口笛コンクール世界大会で優勝や入賞をしているTさんの口笛演奏は、人工内耳で音楽を聴くということへの可能性を探る試みでした。<o:p></o:p>

 講演の時間よりも実際に人工内耳音階を考慮し移調した音楽を聴いてもらい装用者の反応を直接、確認したいという北澤先生の狙い、さらに口笛演奏と音楽聴取装置からの音楽との受け取り方の比較という内容で構成されていました。<o:p></o:p>

 自分自身は、実際に音楽を体感できて、とても有意義な時間を過ごすことができました。<o:p></o:p>

 研究の一環とはいえ、「人工内耳で音楽を聴いてみよう」ということをキーワードにしており、こういった人工内耳装用者参加型の勉強会は、とても新鮮で素敵なものでした。<o:p></o:p>

 このような機会を設けていただいた北澤先生と口笛奏者のTさんを含む9名の学生達に感謝の気持ちでいっぱいです。きっと参加者も同じ気持であったと思います。ありがとうございました。<o:p></o:p>

 自分は、学生達の真摯な取り組みに感心し、心強く感じ、先生の研究はこの学生達によって、さらに、羽ばたいていくのだろうと勝手ながら思っていました。<o:p></o:p>

 また、今回の勉強会のため(私ども人工内耳装用者のため)に、10台もの音楽聴取装置(「懐名歌」と名付けた装置)を作製し、研究学生が装置1台に付きひとり取扱い説明のため配置するという行き届いた体制で、音楽を第2の耳(人工内耳)に届けてくれました。<o:p></o:p>

 ・・・・・<o:p></o:p>

 中途失聴者の多くは、「手話」という言語を身に着けることなく「健聴」から「難聴」になっていき、そして、進行性の難聴にもがきながら自分の意思に反して「失聴」してしまいます。<o:p></o:p>

 したがって、相手の言葉が理解できないことばかりでなく、自分の言葉を適切な場面で話すことが出来ずに一方的な会話になりがちになり、信用を失っていきます。<o:p></o:p>

 そのことから自己嫌悪を招き、社会から必要でなくなった自分を感じるようになっていき孤立します。<o:p></o:p>

 自分の場合は、まさしくそれで、無力感と同時に「中途失聴」というジョーカーを引いてしまった自分に対して、ぶつけようのない怒りが心の中に宿りました。<o:p></o:p>

 「会話」から「単語に近いやり取り」に変わり、親切に書いてくれるメモも「単語に近い簡単な文書」であったり、自分が知りたいと思った内容と方向性の違う「的外れな説明」であったり、「要約することから起こる、プロセスの書かれない結果だけの記述」であったり、徐々に頭脳が短絡的な思考になっていき、物事を予測して行動するということが出来なくなっていったような気がします。<o:p></o:p>

 例えば、「美味しいお菓子がある」とメモや身振りを交え単語的な話をしてくれたとしても、直感的に「食べる」という思いだけに留まり、「美味しいお菓子とは?」→「和菓子なのか?駄菓子なのか?洋菓子なのか?」・・・という連想や、「どこかの名物なのか?誰からの土産物なのか?」→「産地に行ったときの思い出話」「誰と行ったのか?」「お礼はしなくていい?」というように話を膨らませることが億劫になり・・・、「自分だけでなく、他の方も食べたいのか?」→「本当に自分が食べて良いのか?」「他の方と分けることはできないのか?」・・・という相手を思いやるというようなことまで到達できずに、発想が多彩でなくなり余裕を失い、豊かな気持ちを持つことが乏しくなっていったような気がします。<o:p></o:p>

 何らかの聴こえの障害(多くの場合、感音性難聴)があり、「音声理解」や「音楽理解」が困難な状況にあった者達の中で、人工内耳の装用にチャレンジした者は、「環境音と音声、聴こえの理解」を再獲得することを目指します。<o:p></o:p>

 そして多くの場合が、補聴器とは違ったフラットな音刺激(電気信号)により、言葉(音声理解と自分自身の音声確認ができることにより)を取り戻していくことで会話のみならず、生活の質を取り戻していくように思います。<o:p></o:p>

 人の話しを理解できることは、自分自身の意思を伝えることが出来ることに繋がり、笑顔を取り戻すことでもあります。理解できない言葉を理解しようとし、聴くことにだけに集中し疲れないことでもあります。<o:p></o:p>

 会話を取り戻していくにつれ、「音楽」を聴きたいという抑制していた欲求が湧いてくるのは自然なことだと思います。人工内耳で「会話」ができるようになったのだから、もしかしたら「音楽」も聴けるかもしれないという期待を持つのは当然のことなのです。<o:p></o:p>

 それまでは、難聴が進行していく中で「音楽」はだんだんと遠いものとなり、諦めの対象になっていきました。同時に、難聴者の音楽は、聴こえていた当時の音楽で保留されストップ状態のままリフレインし、時として頭の中に知っているメロディがグルグルと回りまとわりつくこともありました。<o:p></o:p>

 ・・・・・<o:p></o:p>

 人は何故「音楽」を求めるのか?<o:p></o:p>

 ひとりで聴く音楽、ライブで皆と一緒に体感し高揚する音楽、ヒーリングのための音楽、ドラマや映画で場面をより鮮明にさせる音楽、色々な音楽があります。<o:p></o:p>

 懐かしい音楽もあれば、時代の先頭を走る音楽もあり、それらは時代や思い出を感じさせる音楽になります。心地よい音楽もあれば、悲しくさせる音楽もあり、自分自身の気持ちを反映させる音楽にもなります。<o:p></o:p>

 だいぶ以前のことですが、「音の持つ力 音が脳に及ぼす影響とは」という記事にインターネットで出会い、思わずメモしたことがありました。<o:p></o:p>

断片的なもので申し訳ないのですが、紹介します。いささか、過ぎている部分もありますが、説得力あるものでした。<o:p></o:p>

 「人間は音だけで景色がわかる」・「感性は『音』だけで充分磨かれる」・「高音から低音まで含んでいる音楽を日々聴くことによって、耳を改善できると考えている」・「音がなぜ感動を呼び起こすかというと、音の波動が人間の身体全体に直接ぶつかるから」・・・等。<o:p></o:p>

 ・・・・・<o:p></o:p>

 さて、「人工内耳のための音楽作成」をテーマにした勉強会、北澤先生の話しに戻ります。<o:p></o:p>

 北澤先生は、京都大学で「音声の研究」に従事し、1985年静岡大学情報学部の教授に就任しています。<o:p></o:p>

 人工内耳については、1988年から研究に着手しているとのことでした。<o:p></o:p>

 6月15日に行われるACITA東京大会は25周年記念を兼ねていますので、先生が人工内耳に注目されたのは比較的早かったのだと思います。<o:p></o:p>

 2002年より岩崎講師と人工内耳装用者の聴取試験を開始し、2004年人工内耳のコード化法CSPEを発明、日・米・中・EP・豪他で特許を取得しているそうです。<o:p></o:p>

 

コメント (13)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする