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長靴を履いた開高健

小説家開高健が書かなかった釣師開高健の姿や言葉などあれこれ

05年5月号『南北両アメリカ大陸縦断の旅』

2005-11-13 21:05:08 | 「ラピタ」バックナンバー
《半ば子供の脳を持った大人衆と、半ば大人の脳を持った子供衆と、そういう私自身のために。》

『もっと遠く!』『もっと広く!』(朝日新聞社81年刊/文春文庫83年刊)は小説家・開高健の南北両アメリカ大陸縦断記である。北米大陸の北端アラスカから南米大陸の南端フェゴ島までの一気通貫の旅の記録だ。『週刊朝日』に掲載された同名の連載(80年1月11日~81年4月10日)をまとめたもので、『もっと遠く!』が北米編、『もっと広く!』が南米編である。
 48歳の小説家が日本を出発したのは79年7月20日。フェゴ島に上陸したのが80年3月23日。取材期間は足掛け9カ月、正味8カ月、約240日にもおよんだ。全行程を走破したトヨタのメーターが記録した走行距離は実に5万2340キロにもなる。地球1周がほぼ4万キロであるから、二つの大陸のあちこちで南北に行きつ戻りつし、東奔と西走を繰り返した旅だったことが5万2340キロという数字だけからでもよくわかる。
 1回のの取材に費やした時間といい、移動距離といい、費用(3000万円強!)といい、『週刊朝日』の長い歴史の中でも空前絶後のスケールだという。
 冒頭に記した文章は『もっと遠く!』『もっと広く!』それぞれの巻頭に小説家が記した読者に向けての献辞である。

■『オーパ!』は生まれていなかったかも・・

 前代未聞、空前絶後の企画は、フラリと『週刊朝日』の編集部を訪れた小説家と涌井昭治編集長(当時)との茶飲み話の中で飛び出し、その場で決まった。
「何かしばらくぶりに書いてよ」「何かゴツイことをやりなさいよ」と編集長に水を向けられた小説家が、前々から温めていた構想だったのか、はたまたその場の思いつきだったのかはわからないが、アラスカを振り出しに北米大陸と南米大陸を釣竿を片手に縦断してみたらどうだろう--と切り出すと、編集長が「買うた!」と小さく叫んで、それで決まり。
 同じ週刊朝日に連載された名作『フィッシュ・オン』(70年1月2日号~7月3日号)の続編と位置づけられたこの企画には『フィッシュ・オン・オン』という仮タイトルがつけられた。
 企画はすぐに決まったが、しかし、それが実際に動きはじめるまでには7、8年もの歳月を要することになる。『輝ける闇』(68年)、『夏の闇』(71年)に続く“闇3部作”の第3部がいつまでたっても完成せず、小説家が書斎にたれこめて《とらえようのないイメージ群と言葉のお粥に浮いたり沈んだりして》暮らしていたからだ。
 なかば立ち消えになっていた企画が再燃しはじめるのは77年のはじめ頃。焼け棒杭に火をつけたのは涌井氏の後任、畠山哲明編集長である。
「放っておいたら企画倒れで終わってしまいそうだったので、開高さんに会うたびに“やりましょうよ”といっていたと思うんだけど、なかなか話に乗ってこない。気持ちがブレていたのかな。というか気分が乗らないというか。それがしばらくして、1年くらい経って“やりましょうよ”といったら、“本気か?”と。その頃には開高さんも気分的に機が熟したという感じになっておられたようで、“じゃあ・・”ということになった」(畠山)
 小説家にとって〈77年のはじめ頃〉というのが、実になんとも微妙なタイミングであったことをここで一言つけくわえておくべきだろう。
 その前の年に、『月刊プレイボーイ』(集英社)でアマゾン大釣行--『オーパ!』を連載することが決まり、準備が着々と進んでいるまさにそのタイミングだったのである(77年8~10月取材。78年2~9月号連載)。
 そんな折りも折り、立ち消えになっていたと思っていた『フィッシュ・オン・オン』がにわかに再燃しはじめたのだから、小説家も内心焦ったのではないだろうか。南北両アメリカ大陸を釣竿片手に縦断するということになれば、当然アマゾンは外せない。南米編の目玉になることはわかりきった話。にもかかわらず他誌でアマゾン大釣行の取材、連載が決まり、その準備に着手していたのだから。畠山編集長に「やりましょうよ」といわれても、すぐに色好い返事ができなかったのはこうした事情もあってのことだと推測される。
 次のことも容易に推測される。もし『フィッシュ・オン・オン』が2、3年早く実現に向けて動き出し、南北両アメリカ大陸縦断の途中に小説家がアマゾンへ立ち寄っていたとしたら、きっと『オーパ!』は生まれていなかったに違いない。(以下略)



05年4月号「アマゾンの舌と鼻の記憶」

2005-11-13 08:09:47 | 「ラピタ」バックナンバー
『オ ーパ!』の最終章を小説家は“舌と鼻”で書いた。題して『第八章・愉しみと日々』。舌と鼻の記憶をまさぐりつつ書いたアマゾンの「食」の体験記、味覚の追想だ。
 ならばということで、東京・神田神保町にあるブラジル料理の専門店「ムイト・ボン」の外ノ池祐太店長に無理を承知で食材(ピラルクーやピラニヤなど)を取り揃えてちょうだいと頼み込み、リオ・デ・ジャネイロ出身のシェフ、バストス・アルデス(愛称カレッカ)さんにレシピを考えてもらい、某日、開店前の店で『オーパ!』片手にアマゾンの味覚を味わった。
 オーパ隊の面々の舌と鼻の記憶も交えつつ、アマゾンから遠く離れた東京で実現した“愉しみと日々”をお届けする。 

ピラルクー・・世界最大の淡水魚、最大で4~5メートルにもなるピラルクーを小説家は絶賛している。《肉、心臓、腸、砂ずり、腹壁、ことごとく美味である。》
 サンパウロ在住の醍醐さんによると、ピラルクーは生息数が減少しているため漁が規制されており、ブラジル国内はもとよりアマゾン河流域でさえ「いまでは一般的な食べ物とはいえない」のだそうだ。現地でも滅多に口にすることができなくなったピラルクーを、外ノ池店長が手を尽くしてブラジルから輸入してくれた。その値段、輸送料別でキロ8000円。高いのか安いのか、ちょっと判断しかねるところだ。
 ピラルクーは胴体を輪切りにしたブロック状で来るのかと思ったら、刺身にするのにおあつらえ向きのさく状で届いた。皮はすでに剥がれていたが、全身をびっしり覆っていた巨大な鱗の形跡がまるで型押ししたかのように身の表面にくっきりと残っていたのには驚かされた。
 塩漬けにされてはるばるアマゾンからやってきたピラルクーの味は、さながら干ダラのようだった。過酷な長旅の疲れを感じさせる味・・とでもいっておこうか。味はともかく、アマゾンにしかいない世界最大の淡水魚を食べたという一生モノの幸福感、ある種の征服感が腹ではなく頭を満たしてくれる。(以下略)


05年3月号「取材に苦労したブラジリア」

2005-08-21 08:16:41 | 「ラピタ」バックナンバー
 『オ ーパ!』の各章にはそれぞれはっきりとした主役がいる。主題がある。
 第1章の主役ははじめて目にする大アマゾンであり、そのアマゾンを遡っていく“無敵艦隊のオオカミ号”。第2章の主役はアマゾンのテロリストと恐れられるピラニアであり、第3章は華麗な跳躍を見せるアマゾンの名魚トクナレ。第4章は最大5メートルにもなるといわれる世界最大淡水魚ピラルクーが、第5章は1774キロを3晩4日かけて走破したマット・グロッソ=大森林が主役になっている。第6章の主役は南米第2の大河ラ・プラタに転戦して挑んだ黄金魚ドラド。第7章は超近代都市ブラジリア。そして最終第8章の主役は旅の記憶を呼び覚ます“味覚”。
 主人公・主題がはっきりしていれば取材はしやすい。文章も書きやすい。その意味で、『オーパ!』全8章の中でもっとも
苦労させられたのはブラジリアを舞台にした《第7章タイム・マシン》だった。--担当編集者の菊池治男さん(現集英社新書編集長)はそう話す。
「ブラジリアは非常に苦戦したんですよ、取材が。とらえどころがないというか、何をどう表現したらいいのか分からないというか。早い話が面白くないわけですよ。開高さんが興味を示したのは大ミミズくらいしかないんですから。それじゃあ沽券にかかわるというので、ブラジリアの日本人会の人があっちこっち案内してくれるんだけど、面白いモノにぶち当たらない。それで開高さんも困っちゃったし、カメラはカメラで困っちゃうしで・・」
 広大なブラジルの中でもブラジリア近辺にしかいないというご当地限定ブラジリア特産のミニョコスー(現地の言葉で文字通り大ミミズの意味)。太さは太い万年筆くらいだが、長さは2メートルにもなるという超ド級の大物。身長170センチの小説家が160センチあまりの大ミミズを持ち上げている証拠写真が『オーパ!』に載っている。1~五キロくらいの魚を狙うときはこれを竹輪のように輪切りにして鈎に刺し、20~30キロの魚を狙うときは1匹丸ごと鈎に刺す。万能のエサで、たいていの魚がこれで釣れるそうだ。
 小説家が、ブラジリアで興味を持ったのはこの大ミミズだけだったという。が、それは決してほかに面白いモノがなかったから--ということではなかったのではないか。
 ブラジリアに着く前に小説家にとっての『オーパ!』の旅はすでに終わっていた。驚きを求めてアマゾンに踏み込み、分け入り、何を見ても「オーパ!」、何を聞いても「オーパ!」と驚きの声を上げていた小説家の旅はすでに終わっていたのである。
 ラ・プラタ河で黄金魚ドラドを釣り上げ、ブラジリアへ向かうためマット・グロッソ州の州都クイヤバの空港に着いたときの気持ちを、小説家は次のように書いている。
《空港のロビーの人ごみのなかを釣竿を持って歩いていると、ふいに背後から滅形が襲いかかってきた。(略)一瞬で私は滅形し、なじみ深い、荒寥とした、いいようのない憂鬱がたちこめてくる。これからはもう犯されるままに私は形を失い、澱んで腐った潮溜りとなって日々をやりすごしていくのである。》
 この文章に続けて、小説家は中国の古諺を引用し、6章を結んでいる。開高ファンの間ではつとに有名な諺だ。

一時間、幸せになりたかったら、酒を飲みなさい。
三日間、幸せになりたかったら、結婚しなさい。
八日間、幸せになりたかったら、豚を殺して食べなさい。
永遠に、幸せになりたかったら、釣りを覚えなさい。

 この諺を最後に、この第6章をもって話を完結させてしまったほうが、『オーパ!』はもっと『オーパ!』らしかったかもしれない。



ラピタ05年2月号『担当編集者のオーパ!』

2005-07-17 08:29:27 | 「ラピタ」バックナンバー
《とはいえ、第一回の原稿を前に、入社三年目の若輩編集者が顔を引き攣らせていたのも、また事実だったと思います。》
 担当編集者として『オーパ!』の取材旅行に同行した菊池治男さん(現・集英社新書編集長)は、かつて『サントリークォータリー』(季刊第35号・90年8月発行)に寄稿した『オーパ!誕生』の中でこう記している。茅ヶ崎の開高邸で、小説家から手渡された書きたてホヤホヤの原稿30枚--第1章・神の小さな土地--を読んだ直後の心象だ。なぜ、菊池さんが顔を引き攣らせたのか・・。
《強烈な体験を自分なりに持った直後だったために、先生の捨て去ったものが、あまりに多いという、早くいえばこの原稿はバランスが崩れているのではないかという思いがしたからでした。日本での話が長すぎる、もっとアマゾンの魅力を前面に押し出して欲しい・・》 
 このときの気持ちを改めて菊池さんに聞いてみた。小説家が見ている前で原稿を一読した後の正直な気持ちを。
「自分も一緒にアマゾンへ行って、先生と同じものを見聞きしてきて、それがこんなふうな文章になるのかとすごくびっくりさせられた反面、ほかにもたくさん面白いことがあったのにそれが書いていない。あんな面白い話を捨ててしまうのはもったいないと思ったし、それが書かれていないことがものたりないなと思ったんですね」
 たとえば。
『オーパ!』は、8月18日夜10時“無敵艦隊のオオカミ”という勇ましい名を持つ定期船がアマゾン河口の街ベレンの第14号埠頭を「蛍の光」とともに静かに離れていくシーンの描写からはじまる。はじめて『オーパ!』を手にする読者にすれば十分にワクワクする書き出しだが、小説家と共に旅をした菊池さんの読後感は異なる。
「8月7日にサンパウロに着いて、そこからベレンへ行くまでの間にずいぶんいろいろなことがあったんですけど、それがすっぽり抜けている。何も書いていない。ベレンからサンタレン(アマゾン中流域の街)までずっと遡っていく間にも、原稿に書かれていること以外に面白いことがたくさんあったんですけど・・」
 もったいない、ものたりないと感じることは、その後も何度かあった、という。しかし、入社3年目の編集者は芥川賞作家に対して「なぜあれを書かないんですか?」とは聞けなかったし、「あれを書いてください!」と頼むこともできなかったと苦笑する。
 原稿を受け取りに行くたびに自慢のワインやウィスキーをご馳走になり、グラス越しに「無口な編集者というのはあり得ないんや。もっと褒め上手にならなあかんね」などと小説家にいわれ、笑わぬ目でニヤリとされたら、海千山千の編集者であっても褒め言葉以外はなにもいえなかったに違いない。(以下、略)


ラピタ05年1月号カメラマンが見たオーパ!

2005-06-19 09:29:02 | 「ラピタ」バックナンバー
takahasi


 見渡す限りの水平線。日差しを柔らかく反射して輝く水面。水の中に起立している1本の木。そのすべてがオリーブ色のグラデーションで描き出されている1枚の写真。
 キャプションにはこう記されている。
《水平線にたった一本の木が生える。これがアマゾン風景の典型である。水がひくとこの木の下から島が出てくる。》
 全日程65日、全行程1万6000キロにおよんだアマゾン大釣行の取材中に、カメラマン・高橋さんが撮影したフィルムは実に700本近くにもなるという。2万5000回近くシャッターを押した計算になる。
 膨大な写真の中から高橋さん自身が吟味、厳選した写真約350枚(カラー約30枚・モノクロ約50枚)が『オーパ!』に収録されているが、その中で高橋さんにとってもっとも思い出深いのが冒頭の写真である。高橋さんがそういうのである。
 鋭い牙をむき出しにしたピラニヤの写真でもなく、水しぶきをあげて跳躍する一瞬をとらえたトクナレの写真でもなく、アマゾンの泥ガニを食べて恍惚陶酔する小説家の写真でもなく、無際限に広がる空と水の間に名のある華道家が1本だけ木を活けたようなアマゾンの風景写真がもっとも思い出深い、と。
「(開高)先生にはじめて会ったときに“魚がルアーをくわえてジャンプした瞬間を撮ってほしいんや”といわれたけど、それ以外は写真に関して先生から注文をつけられたことは一度もない。ただ、2回だけ確認の意味で聞かれたことがある」
『高橋君、水平線に木が1本ぽつんと立っている風景があったんだけど、あれどうした?』
『撮ってます』
『あぁ、そう・・』
「その風景を見てから3日くらい経った後で、そう聞かれた。先生にとっても印象深い風景だったんだろうな。そういうことがもう1回あったけど、写真について先生が何かいったというのは長い旅の中でその2回だけ」
 帰国後しばらくして高橋さんはこの写真を引き伸ばし、パネルにして、当時付き合っていた女性にプレゼントし、そしてプロポーズした。それが今の奥さんだ。東京・赤坂にある貝料理の専門店『貝作』の女将、三重子さんだ。
 そのパネルは今も自宅に飾ってあるという。(以下、略)

※写真は『オーパ!』(集英社)より。撮影・高橋