《半ば子供の脳を持った大人衆と、半ば大人の脳を持った子供衆と、そういう私自身のために。》
『もっと遠く!』『もっと広く!』(朝日新聞社81年刊/文春文庫83年刊)は小説家・開高健の南北両アメリカ大陸縦断記である。北米大陸の北端アラスカから南米大陸の南端フェゴ島までの一気通貫の旅の記録だ。『週刊朝日』に掲載された同名の連載(80年1月11日~81年4月10日)をまとめたもので、『もっと遠く!』が北米編、『もっと広く!』が南米編である。
48歳の小説家が日本を出発したのは79年7月20日。フェゴ島に上陸したのが80年3月23日。取材期間は足掛け9カ月、正味8カ月、約240日にもおよんだ。全行程を走破したトヨタのメーターが記録した走行距離は実に5万2340キロにもなる。地球1周がほぼ4万キロであるから、二つの大陸のあちこちで南北に行きつ戻りつし、東奔と西走を繰り返した旅だったことが5万2340キロという数字だけからでもよくわかる。
1回のの取材に費やした時間といい、移動距離といい、費用(3000万円強!)といい、『週刊朝日』の長い歴史の中でも空前絶後のスケールだという。
冒頭に記した文章は『もっと遠く!』『もっと広く!』それぞれの巻頭に小説家が記した読者に向けての献辞である。
■『オーパ!』は生まれていなかったかも・・
前代未聞、空前絶後の企画は、フラリと『週刊朝日』の編集部を訪れた小説家と涌井昭治編集長(当時)との茶飲み話の中で飛び出し、その場で決まった。
「何かしばらくぶりに書いてよ」「何かゴツイことをやりなさいよ」と編集長に水を向けられた小説家が、前々から温めていた構想だったのか、はたまたその場の思いつきだったのかはわからないが、アラスカを振り出しに北米大陸と南米大陸を釣竿を片手に縦断してみたらどうだろう--と切り出すと、編集長が「買うた!」と小さく叫んで、それで決まり。
同じ週刊朝日に連載された名作『フィッシュ・オン』(70年1月2日号~7月3日号)の続編と位置づけられたこの企画には『フィッシュ・オン・オン』という仮タイトルがつけられた。
企画はすぐに決まったが、しかし、それが実際に動きはじめるまでには7、8年もの歳月を要することになる。『輝ける闇』(68年)、『夏の闇』(71年)に続く“闇3部作”の第3部がいつまでたっても完成せず、小説家が書斎にたれこめて《とらえようのないイメージ群と言葉のお粥に浮いたり沈んだりして》暮らしていたからだ。
なかば立ち消えになっていた企画が再燃しはじめるのは77年のはじめ頃。焼け棒杭に火をつけたのは涌井氏の後任、畠山哲明編集長である。
「放っておいたら企画倒れで終わってしまいそうだったので、開高さんに会うたびに“やりましょうよ”といっていたと思うんだけど、なかなか話に乗ってこない。気持ちがブレていたのかな。というか気分が乗らないというか。それがしばらくして、1年くらい経って“やりましょうよ”といったら、“本気か?”と。その頃には開高さんも気分的に機が熟したという感じになっておられたようで、“じゃあ・・”ということになった」(畠山)
小説家にとって〈77年のはじめ頃〉というのが、実になんとも微妙なタイミングであったことをここで一言つけくわえておくべきだろう。
その前の年に、『月刊プレイボーイ』(集英社)でアマゾン大釣行--『オーパ!』を連載することが決まり、準備が着々と進んでいるまさにそのタイミングだったのである(77年8~10月取材。78年2~9月号連載)。
そんな折りも折り、立ち消えになっていたと思っていた『フィッシュ・オン・オン』がにわかに再燃しはじめたのだから、小説家も内心焦ったのではないだろうか。南北両アメリカ大陸を釣竿片手に縦断するということになれば、当然アマゾンは外せない。南米編の目玉になることはわかりきった話。にもかかわらず他誌でアマゾン大釣行の取材、連載が決まり、その準備に着手していたのだから。畠山編集長に「やりましょうよ」といわれても、すぐに色好い返事ができなかったのはこうした事情もあってのことだと推測される。
次のことも容易に推測される。もし『フィッシュ・オン・オン』が2、3年早く実現に向けて動き出し、南北両アメリカ大陸縦断の途中に小説家がアマゾンへ立ち寄っていたとしたら、きっと『オーパ!』は生まれていなかったに違いない。(以下略)
『もっと遠く!』『もっと広く!』(朝日新聞社81年刊/文春文庫83年刊)は小説家・開高健の南北両アメリカ大陸縦断記である。北米大陸の北端アラスカから南米大陸の南端フェゴ島までの一気通貫の旅の記録だ。『週刊朝日』に掲載された同名の連載(80年1月11日~81年4月10日)をまとめたもので、『もっと遠く!』が北米編、『もっと広く!』が南米編である。
48歳の小説家が日本を出発したのは79年7月20日。フェゴ島に上陸したのが80年3月23日。取材期間は足掛け9カ月、正味8カ月、約240日にもおよんだ。全行程を走破したトヨタのメーターが記録した走行距離は実に5万2340キロにもなる。地球1周がほぼ4万キロであるから、二つの大陸のあちこちで南北に行きつ戻りつし、東奔と西走を繰り返した旅だったことが5万2340キロという数字だけからでもよくわかる。
1回のの取材に費やした時間といい、移動距離といい、費用(3000万円強!)といい、『週刊朝日』の長い歴史の中でも空前絶後のスケールだという。
冒頭に記した文章は『もっと遠く!』『もっと広く!』それぞれの巻頭に小説家が記した読者に向けての献辞である。
■『オーパ!』は生まれていなかったかも・・
前代未聞、空前絶後の企画は、フラリと『週刊朝日』の編集部を訪れた小説家と涌井昭治編集長(当時)との茶飲み話の中で飛び出し、その場で決まった。
「何かしばらくぶりに書いてよ」「何かゴツイことをやりなさいよ」と編集長に水を向けられた小説家が、前々から温めていた構想だったのか、はたまたその場の思いつきだったのかはわからないが、アラスカを振り出しに北米大陸と南米大陸を釣竿を片手に縦断してみたらどうだろう--と切り出すと、編集長が「買うた!」と小さく叫んで、それで決まり。
同じ週刊朝日に連載された名作『フィッシュ・オン』(70年1月2日号~7月3日号)の続編と位置づけられたこの企画には『フィッシュ・オン・オン』という仮タイトルがつけられた。
企画はすぐに決まったが、しかし、それが実際に動きはじめるまでには7、8年もの歳月を要することになる。『輝ける闇』(68年)、『夏の闇』(71年)に続く“闇3部作”の第3部がいつまでたっても完成せず、小説家が書斎にたれこめて《とらえようのないイメージ群と言葉のお粥に浮いたり沈んだりして》暮らしていたからだ。
なかば立ち消えになっていた企画が再燃しはじめるのは77年のはじめ頃。焼け棒杭に火をつけたのは涌井氏の後任、畠山哲明編集長である。
「放っておいたら企画倒れで終わってしまいそうだったので、開高さんに会うたびに“やりましょうよ”といっていたと思うんだけど、なかなか話に乗ってこない。気持ちがブレていたのかな。というか気分が乗らないというか。それがしばらくして、1年くらい経って“やりましょうよ”といったら、“本気か?”と。その頃には開高さんも気分的に機が熟したという感じになっておられたようで、“じゃあ・・”ということになった」(畠山)
小説家にとって〈77年のはじめ頃〉というのが、実になんとも微妙なタイミングであったことをここで一言つけくわえておくべきだろう。
その前の年に、『月刊プレイボーイ』(集英社)でアマゾン大釣行--『オーパ!』を連載することが決まり、準備が着々と進んでいるまさにそのタイミングだったのである(77年8~10月取材。78年2~9月号連載)。
そんな折りも折り、立ち消えになっていたと思っていた『フィッシュ・オン・オン』がにわかに再燃しはじめたのだから、小説家も内心焦ったのではないだろうか。南北両アメリカ大陸を釣竿片手に縦断するということになれば、当然アマゾンは外せない。南米編の目玉になることはわかりきった話。にもかかわらず他誌でアマゾン大釣行の取材、連載が決まり、その準備に着手していたのだから。畠山編集長に「やりましょうよ」といわれても、すぐに色好い返事ができなかったのはこうした事情もあってのことだと推測される。
次のことも容易に推測される。もし『フィッシュ・オン・オン』が2、3年早く実現に向けて動き出し、南北両アメリカ大陸縦断の途中に小説家がアマゾンへ立ち寄っていたとしたら、きっと『オーパ!』は生まれていなかったに違いない。(以下略)