長靴を履いた開高健

小説家開高健が書かなかった釣師開高健の姿や言葉などあれこれ

ラピタ04年3月号「小説家が生涯通った釣具店」

2004-09-14 22:47:15 | 「ラピタ」バックナンバー
a『この人はルアー界のヴェテラン中のヴェテランともいうべき、御開祖といってよいくらいの草わけなのだが、熱が進行するあまり自宅は薬屋なのにそのよこで釣道具屋をはじめ、そのうちとうとう自分でルアーを何種類か製造・販売をはじめたくらいである。』(「ツキの構造」-『河は眠らない』収録-より)
 小説家・開高健がこう記した「この人」--チューさんこと常見忠さんがはじめてルアーを目にしたのは1963年3月のこと。桐生で薬局を営んでいたチューさんが仕事の関係で上京し、ふっと思いついて銀座の三越に当時あった釣具店をのぞいたときだという。
「その頃テンカラに夢中になっていて、新しい毛鈎がないかと思って見に行ったら、ショーケースの中にそれまで見たこともない魚の形をした金ピカの、4センチくらいの金属片があった。鈎がついてるけど何だろうこれは、と。それが最初です」
 開祖にして草分けであるチューさんにして、このときはじめてルアーを目にしたというのだから、日本のルアー・フィッシングは63年当時まだ夜明け前の闇の中、先人なき未開の原野だったと考えられる。
「店員に聞くと疑似鈎だと。湖でニジマスを釣るのに使うらしい、と。そういいながら、それ用の短めの竿とリールも出してくれたけど、売っているほうも実際にどう使うのかまではよくわからない。輸出用に作られた国産品を、外人客用に置いてみたらしいんだけど」
 使い方はよくわからなくてもそこは“蛇の道はヘビ”。何かピンと来るものがあったのだろう。チューさんは1個150円の金ピカルアー3つと、オモチャのような3000円のリール(写真)を買い求めて桐生へ帰った。
 
 自宅近くを流れる渡良瀬川でルアーの投げ方、引き方を独習したチューさんが、満を持して金ピカルアーをためしてみることにしたのは翌64年。場所は年間100回近くは通い詰めたという新潟の銀山湖。雪解け水が流れ込み、湖がはち切れんばかりに膨張しきっていた6月のことである。
「北の岐川の流れ込みですよ。流れの真ん中に大きな岩が頭を出していたので、岩の上流に投げて岩の裏側へルアーを流してみた。3投目にいきなりガン、ガンと来た。反射的に竿をあおったあとは無我夢中で・・」
 気がつくと白点のひときわ大きなイワナが草の上ではねていた。58センチあった。
「38センチというのがテンカラ、毛鈎での自己記録だったんですが、それがいきなり58センチですよ。中学生と大人くらいの違いがある。そんなのがいとも簡単に釣れちゃったからさぁ大変。すっかり夢中になった」(以下略)