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長靴を履いた開高健

小説家開高健が書かなかった釣師開高健の姿や言葉などあれこれ

ラピタ06年4月号(モンゴル後編)

2006-05-06 09:08:24 | 「ラピタ」バックナンバー

《十二時をまわって十五分ほどしたとき、突然、岸のすぐ近くの木のかげでルアーがガクッと止まった。すかさず竿先をあおったらガクン、ズシッとショックがあり、穂さきがびくんびくんと。もう一度大きくあおってしゃくるとそれが魚の逸走をくいとめ、水を裂いて魚が飛びだした。それはまぎれもなくイトウだった。ずんぐりした丸い頭に特徴がある。
「釣れた。イトウだよ」
 連日の疲労困憊のためはしゃいだ声が出せない。》
 メーター・オーバーの大イトウを釣り上げるべく、満を持して小説家・開高健がモンゴルを訪れたのは86年7月末のこと。しかし、他の魚は釣れてもイトウはなかなか釣れなかった。他の釣り人の竿にイトウがかかることはあっても、小説家の竿にイトウがかかることはなかった。来る日も来る日もノー・ヒット、ノー・ストライクの繰り返し。ただそれだけで1カ月弱の釣行日程はあっという間に過ぎ、気がつけばモンゴルの短い夏が終わろうとしていた。
 ようやく念願のイトウを釣ることができたのは実に釣行最終日(8月23日)のこと。それが冒頭のシーンだ。釣れたのは九三センチのイトウだった。
 その瞬間、小説家の一挙一動を遠巻きに見守っていた開高隊の面々、テレビ・クルー、モンゴル人スタッフなどがみな涙したという。 
「それまでぜんぜんイトウが釣れなくて、精神的にも肉体的にもみんな疲れ切っていて、それが最後の最後になって釣れたものだから全員が泣いた」(岩切靖治読売広告社社長)
「1カ月近く苦楽を共にしてきて心が一つになっていたから、だからみんな泣いたんだと思いますよ。僕も涙が出ましたから。珍しいですよね、魚が1匹釣れただけで大の大人がみんなして泣くなんて」(鯉渕信一亜細亜大学教授)
 その場に居合わせた人たちは誰もが、完封負け直前の9回裏ツーアウトから小説家が劇的なサヨナラ・ホームランを放ったと思ったにちがいない。奇跡の逆転勝利だ!、筋書きのないドラマだ!と思ったはずだ。だからこそ感動の涙が、歓喜の涙がこぼれたのだろう。
 しかし、感動と歓喜の輪の中心にいながら、一人小説家だけは敗北感を噛みしめていた。最後の最後にヒットを1本を打ってノーヒット・ノーランを免れることはできたものの、完璧なる敗北を喫したことになんらかわりはない。小説家はそう受け止めたようだ。

(中略)

 2度目のモンゴルは小説家に微笑んだ。小説家の執念に釣りの神様が応えてくれた。80~90センチ大のイトウがワン・キャスト、ワン・フィッシュの入れ掛かり状態--という夢のような体験が数日にわたって続いたこともあった。釣ったイトウは実に50匹を数える。
 念願のメーター・オーバーの獲物を釣り上げることもできた。1年前に惨敗を喫したチョロート河で小説家は120センチの大イトウを釣り上げ、目標を達成した。夢を成就させた。
 その直後、感想を求められた小説家は次のように答えている。
『またわたしは少し生き延びられます。ありがとう。』
『大いなる日は終わりました。円は完全に閉じました。』
 
(中略)

 モンゴル釣行を境に釣師・開高健は活字の上からは実質的には姿を消す。中国新疆ウィグル自治区アルタイ山脈にあるハナス湖に謎の巨大魚(推定体長9~12メートル、体重1トン以上!?)を追い求めた『国境の南』という作品が『オーパ、オーパ!!』に収録されているが、しかし、『国境の南』はスケールの大きな学術調査のようであり、秘境探検のようでもあり、従来の釣行とは趣を異にする。そこには釣師としての姿はほとんどない。
 モンゴル釣行以降、われわれはテレビの中で小説家・開高健の姿を見ることが多くなるが、テレビの中の釣師ぶりもモンゴル釣行を映像化した2作品--『開高健のモンゴル大紀行 ~未知の大地に幻の巨大魚を追って』(87年2月16日放送)、『続・開高健のモンゴル大紀行~見た!撃った!釣った!悠久の大草原縦断の旅』(87年9月14日放送)--とそれ以降の番組とではかなり雰囲気が異なる。
 2度目のモンゴル釣行をはさんでロケが行われた『キャビア・キャビア・キャビア~謎の古代魚チョウザメを追って』(88年1月2日放送)は、世界三大珍味のひとつキャビアの謎と魅力に迫ったドキュメンタリーで、小説家はキャビアの生みの親であるチョウザメ釣りにも挑んでいるが、内容はあくまでもキャビアを主役にした美味探求であり美味礼賛であり、釣師・開高健は画面の中ではごく控えめだ。
 テレビのドキュメンタリー作品としては遺作になった『スコットランド紀行~悠々として急げ』(90年2月7日放送)には元イギリス首相ヒューム卿の敷地内を流れるプライベート・リバー(ツィード川)で慣れぬダブルハンドのフライ竿でアトランティック・サーモンを狙ったり、『釣魚大全』の著者で釣聖ともいわれるアイザック・ウォルトンが愛したダブ川で釣りをする小説家の姿が収められているが、その姿に旅の終焉を感じさせるような哀感が漂っていて、見ていてモノ悲しくなる。
 小説家最後の海外取材となったのはカナダのバンクーバー・アイランドだった。目的はスモールマウスバス・フィッシング。
これを皮切りにアマゾンのピーコックバス、フロリダのラージマウスバス、中国のケツギョなど、世界中のバスの仲間を釣り歩き、1冊の本にまとめる予定になっていた。『バスに乗り遅れるな!』というタイトルも決まっていたのだが・・。
 
 旅の終わりの予兆、予感はあった。
「ハナス湖へ行ったときのことですけど、毎日夜の8時になると先生の枕元で弔辞を読まされました。『もし俺が死んだら、君は弔辞を読まなければいけないんだから、今から練習をしておけ』といわれて。ぼくはそれが苦痛で苦痛で・・」(岩切)
「88年はスコットランドを皮切りに香港、中国、カナダへ行くんだけど、途中、香港で『先生、なんでこんなに立て続けに旅をするんですか』と聞いたことがある。そうしたら『もう俺には時間がないんだ』という言い方をしていた。
 もっと印象的だったのは、カナダから帰国する際に先生が自分の腕時計を外してガイドのボブ・ジョーンズに手渡したこと。
おかしなことをするなと思って、気になってあとで理由を訊ねたら、『ボブには生きて二度と会えんような気がしたんや』といったよ。死の予感みたいなものが先生の中に絶対にあったと思う」(高橋)
 こうした証言を聞くにつけ、小説家が書き残した作品を読み返すにつけ、そしてビデオとして遺っているドキュメンタリー作品を見直すにつけ、ひとつの思いが頭をもたげてくる。
“釣師・開高健の歴史は釧路湿原のイトウにはじまり、モンゴルのイトウに終わった”--という思いだ。確信だ。
 そのように考えると、120センチの大イトウを釣り上げた直後に発した小説家の言葉がより一層の重量感を持って胸にずしりと迫ってくる。
『大いなる日は終わりました。円は完全に閉じました。』
 小説家・開高健から釣師・開高健への弔辞のようにも思える言葉ではないか。(完)


ラピタ06年2月号『モンゴルのイトウ(前編)

2006-04-23 09:05:43 | 「ラピタ」バックナンバー

 釣り好きから釣師へ(もしくは釣りキチへ)--小説家・開高健にとってそのターニング・フィッシュとなったのは釧路湿原で釣り上げたイトウである。68年初夏。小説家が37歳の時のことだ。
 年々数が減り、絶滅の危機にさえ瀕していた釧路湿原のイトウは“幻の魚”といわれ、天才、魚聖の異名を持つ名立たる釣り自慢でさえノーヒット・ノーフィッシュの一敗地にまみれ、うなだれて湿原をあとにするのが常だった。その幻の魚を小説家は初挑戦で、たった1日の釣行で、見事2匹釣り上げた。75センチと60センチ。この釣果に小説家は完全無欠の満足と極上至福の喜びを味わい、意気揚々と湿原をあとにした。
 が、その栄光は長くは続かなかった。湿原での思い出はすぐにヒビ割れ、色あせたものになってしまう。1カ月ほどのちに訪れたドイツでぶらっと立ち寄った釣具屋に、2メートル近くありそうな巨大なイトウの写真が飾られているのを見てしまったからだ。“とたんにカーッと頭に血が上ってしもうた”という小説家の言葉が残っている。
 以来、小説家にとってイトウは栄光と挫折と羨望とに彩られた特別な魚になった。

 小説家がイトウに再挑戦するのは実にそれから18年後の1986年のこと。小説家独特の表現を借りるならば、橋の下をたくさんの水が流れたあとのことである。場所はモンゴル。狙うはメーター・オーバーの大物。 そのきっかけを作り、2度のモンゴル釣行を実現させた立役者が読売広告社の岩切靖治社長である。
「開高先生がイトウを釣りたがっている」--あるとき人づてに聞いたこの一言に岩切さんが「これはいける!」とばかりに飛びついたところから話が動きはじめるのである。
 当時、営業の課長だった岩切さんは大口クライアントの1社としてサントリーを担当しており、サントリーをスポンサーにしたテレビの特番--アマゾン河や黄河源流のドキュメンタリー番組をつくったりしていた。折しも「次は何をやろうか?」と考えていた岩切さんの耳に飛び込んできたのが「開高先生が・・」の一言だった。
「開高先生とサントリーの佐治敬三社長(当時)が親しい間柄であることは有名でしたから、先生を引っ張り出すことができればサントリーをスポンサーにして面白い特番が作れそうだと反射的に思った」(岩切)
 さっそく調べてみると中国の黒龍江(ロシア名:アムール川)でイトウが釣れるらしいということがわかったが、詳細は一切不明。それでも臆することなく茅ヶ崎の開高邸に直談判に行ってしまうところが、いかにも岩切さんらしいところ。
「ぼくは開高先生のことも何も知らなかった。本も読んだことがなかった。だから最初先生に会ったときは『オーパ!』や『オーパ、オーパ!!』の写真ばかり褒めたわけです。文章は読んでいないから、“写真が素晴らしい”って、そればっかり。さすがに先生もイライラしてましたけど、怒りはしなかった」(岩切)
 そんな前段があって、いよいよ本題に入っていくのだが、これまた話は小説家をイラ立たせるようなものだった。
開「君は俺にイトウを釣りに行けというけど。どこへ行くんだ」
岩「先生、中国ですよ。中国にいるんですよ」
開「中国のどこだ」
岩「黒龍江です」
開「黒龍江って君、何キロあるか分かってるか? 2700キロあるんだぞ。黒竜江のどこへ行くつもりなんだ」
岩「先生、行けばわかります」
開「行けばわかりますじゃ、行かない。釣ったヤツをつれてこい」
 この数ヶ月後、八方手を尽くしてようやく入手したイトウの写真をもって、岩切さんは喜び勇んで開高邸を再訪する。
岩「先生、やっぱり中国にイトウはいました。写真を見つけましたよ」
開「君、これがイトウか?」
岩「先生、これがイトウですよ。こんな大きいイトウはなかなかない」
開「これは君、イトウじゃなくてチョウザメだよ」
岩「・・・」(以下省略)


06年1月号「一閃の嚆矢」

2006-03-26 09:40:10 | 「ラピタ」バックナンバー

 小説家・開高健の『オーパ、オーパ!!』シリーズには2つの番外編が存在する。『カデンツァ・執念深くⅠ池原ダム』(釣行日84年6月6~9日)と『カデンツァ・執念深くⅡ琵琶湖』(同85年8月1~3日)だ。どちらも狙いは50センチオーバーの特大ブラックバスであり、どちらの場合も釣師でアウトドア・ライターの天野礼子さんが水先案内人をつとめている。

 日本各地、世界各地を釣り歩いた小説家は、行った先々で地元の釣師やガイドに水先案内を頼んでいるが、女性でその役割を果たしたのは唯一天野さんだけである。
《この人は関西方面のアユ釣師やアマゴ釣師のあいだではよく知られた変わりダネのお嬢さんで、アマゴからイシダイまで全科をこなす、けなげな、そして美貌のプロである。》《ヨーロッパやアメリカでは女の釣師やアウトドア・ライターが近年急増しつつあるが、ニッポンではおそらくこのあまごちゃんが一閃の嚆矢である。》
 あまごとは、小説家が“渓流の女王”の異名を持つアマゴからとって天野さんにつけたニックネーム。『カデンツァ』の中では天野さんは最初から最後まで“天野あまご”として紹介されている。それが本名ないしはペンネームだと誤解している読者が少なくないのではないか。

 それはさておき。
 海外遠征の合間を縫って、日本で50センチオーパーのブラックバス釣りに挑んだ理由を、小説家は池原ダム編の冒頭で次のように記している。
 ユタ州のパウエル湖、カナダのセント・ローレンス河、アリゾナのミード湖、サンフランシスコ近郊のデルタ、ジョージア州フロリダ州の境にまたがるセミノール湖など、いずれも大物で知られる黄金郷に出かけ、一流のガイドがついてくれたにもかかわらず、結果は惨憺たるもので、《(略)ことごとく敗北した。数でもダメ。サイズでもダメ。その場にいる平均サイズをささやかに釣り、口惜しさを噛みしめつつ、リリースして引き揚げたのだった。》《この積年の宿怨を祖国ニッポンで晴らす手はないものか。ここで一匹大物をあげ、足もとを忘れて遠い異国を流れ歩いた阿呆さを我とみずから一笑する方策はないものか。》--そう考えての池原ダム釣行であり、琵琶湖釣行だったわけである。

 しかし、祖国ニッポンでも小説家は連敗記録を2つ追加しただけだった。
 池原ダム(奈良県吉野郡下北山村)では開いた口がふさがらないほど気前よくブラックバスが釣れたが、すべてがすべて20センチ前後の2年魚だったため、何度となくキャッチ&リリースを繰り返したあげくに《うなだれて帰るしかないときまった。》
 琵琶湖での釣果はさらに悪かった。初日は釣りはじめとほぼ同時に小物が1匹かかったものの、その後はアタリもしなければカスリもしない始末。2日目は2匹釣れただけ。あちらこちらで中学生や高校生が50センチオーパーのブラックバスをひょいひょい釣っているにもかかわらず、だ。
《ついに釣れない。やればやるだけ悪くなる。いま八月の白暑の乾いた道をうなだれて去っていく。》

 例によって場所は最高、時季は最適、水先案内人は一流なのに、例によって釣れない。いつもこんな調子なので釣師の間で“開高健はあまり釣りがうまくないんじゃないのか”という風評が立ったり消えたりすることになる。しかし--。
「一緒に釣りをして印象に残っているのは、開高健はみんなが思っているよりもずっと釣りがうまいということ。そんなにドン臭いことはない。私なんかがやるとすぐに根がかりしちゃいそうなポイントでも、先生の言葉でいうと舐めるようにというんですけど、水底に沈んでいる倒木などに引っかからないように、舐めるようにルアーを引いてくるのが非常にうまい。ルアーの腕は私なんかより上でした」
※以下、略。


05年12月号「釣師・開高健の引退試合」

2006-03-12 20:37:15 | 「ラピタ」バックナンバー

 大アマゾンの釣り紀行『オーパ!』(取材:77年8月8日~10月13日)のPARTⅡとして企画され、月刊PLAYBOY誌(集英社)に掲載された『オーパ、オーパ!!』は全部で8つの釣行記および紀行からなっている。
【海よ、巨大な怪物よ】(アラスカ編/取材:82年6月1日~7月1日)
【扁舟にて】(カリフォルニア・カナダ編/83年5月25日~6月20日/7月27日~8月26日)
【カデンツァ・執念深くⅠ】(カリフォルニア・カナダ編番外/84年6月6日~6月9日)
【王様と私】(アラスカ至上編/84年6月27日~7月21日/8月29日~9月21日)
【雨にぬれても】(コスタリカ編/85年2月5日~3月8日)
【カデンツァ・執念深くⅡ】(カリフォルニア・カナダ編番外/85年8月1日~8月3日)
【宝石の歌】(スリランカ編/86年3月20日~4月7日)
【中央アジアの草原にて】(モンゴル編/86年7月31日~8月31日/87年5月29日~6月27日)
 単行本化にあたってはこの8作品に加えて週刊朝日に掲載された【国境の南--中国の秘境・ハナス湖釣行記】(88年6月20日~7月21日)が収録された。以上9作品が『オーパ、オーパ!!』の全編、全容である。
 ちなみに各作品の表題はすべて様々なジャンルの楽曲名を拝借している。【海よ、巨大な怪物よ】はウエーバーの歌劇『オベロン』第2幕から、【雨にぬれても】は映画『明日に向かって撃て!』のテーマ曲からといった具合。なお“カデンツァ”とは独奏協奏曲にあってソロ楽器がオーケストラの伴奏を伴わずに自由に即興的な演奏をする部分のこと。番外編の2作品に“カデンツァ”と名付けるあたりに小説家の博識と遊び心がうかがえる。
『オーパ、オーパ!!』を小説家は釣師開高健の引退試合、ファイナル・マッチと決めていた。50代になり、体力の限界を感じるようになっていたためだ。
 ファイナル・マッチの第1ラウンド--ベーリング海のオヒョウに挑んだアラスカ編に付記した「宣誓!・・・」と題する巻頭言の中で、小説家はこう書いている。
《釣りはこれからもひそひそとつづけるけれど、その紀行を本にするのはこれを最後ときめ、今後、四年か五年かけて、残り一滴か二滴の体力を賭け、引退試合として世界のあちらこちらをたずね歩いて一戦ずつ試みることを決意いたした。》
 この文章に続けて、小説家は引退する前に訪れたい場所と釣り上げたい魚を具体的に列挙している。アンデスのチチカカ湖のニジマス、パプア・ニューギニアのバラムンディ、アフリカのナイル・パーチなど。また本文の中ではメキシコのスヌーク、ガリラヤ湖のティラピアなどもあげている。“残り一滴か二滴の体力を賭け”と書いているわりにはずいぶん欲張ったものだ。
 しかし--。
 すでにお気づきの通り、チチカカ湖のニジマスも、パプア・ニューギニアのバラムンディも『オーパ、オーパ!!』には登場しない。引退試合の途中で、未消化試合を数多く残したまま病に倒れ、帰らぬ人になってしまったからだ。89年12月9日のことだ。
《釣師としての私の姿はこの本以後、頁から一切、消えてしまうのである。そういう覚悟であり、所存である。このあたり、白鳥のまさに死なんとするや、その声やよし、というところか?・・・》(アラスカ編)
 こう書きつけた小説家の意図とはまったく異なる形で、『オーパ、オーパ!!』を最後に長靴を履いた開高健は頁から一切姿を消すことになるのである。
※以下、省略


05年11月「南北両米大陸走破」

2006-02-26 08:58:19 | 「ラピタ」バックナンバー

Photo  北米大陸の北端アラスカから南米大陸の南端アルゼンチン領フェゴ島まで計5万2340キロ、実に地球1周半に相当する距離を長征、走破した開高隊の機動戦士--9ヶ月間にわたってハンドルを握り続けたのはアナザー・スズキこと鈴木勝由さんと、ナオこと三上正直さんの2人である。
 小説家と編集者を乗せたセダンを鈴木さんが運転し、カメラマンの水村孝さんと撮影機材その他の荷物一式を積んだワゴンを三上さんが運転した。
「いつまでにどこへ行かなければいけないということが決まっていなかったので、運転は気楽だったですね」と鈴木さん。しかし、道路事情のよくない南米ではハンドルを握る手に思わず力が入ることもあれば、べっとりと冷や汗をかくような場面が何度となくあった。
 たとえばベネズエラからコロンビアを経てエクアドルへ行く途中のアンデス越え。標高3~4000メートル級の山々が連なる尾根から尾根へと縦走する危険な山岳コースだ。
「路面のコンディションが最悪だった。砂利道、でこぼこ道、ぬかるみ、急勾配、大曲がり、崖崩れ、落石の連続で、前後左右上下に気配り、目配りして慎重の上にも慎重を期して運転しなければいけない。
 それにもかかわらず、現地の運転手たちは狭くて険しい道を必死の形相でぶっ飛ばしていくから、怖いったらありゃしない。一瞬も気を抜けない。ハンドルをわずかでも切り損なったらそれでおしまい。崖から転落して死ぬか、対向車に衝突して死ぬか、そのどちらかだから」(鈴木)
 ペルーの最北端トゥンペスから太平洋沿いに南下し、首都リマを経由したのち一気にチリの首都サンチャゴまで走り抜けたパン・アメリカン・ハイウェイもドライバー泣かせだった。全行程約3700キロのほぼ90%が砂漠地帯で、風が強い日には道路の半分近くが砂に埋まり、数メートル先が見えなくなった。
「どこまで行っても、いつまで走ってもずっと砂漠が続く。その単調さがイヤになるというか、運転していても退屈で辛い。危険を感じることはなかったけど、これはこれでハードなドライブだった」(鈴木)
 南米は道路事情が悪いだけでなく、治安上の問題も多々あり、窃盗や車上荒らしに遇わないよう注意することはもちろん、ゲリラの襲撃や誘拐などにまで気を配る必要があった。その意味でも一瞬も気が抜けなかった。
 小説家は、危険を回避するための知恵、遭遇してしまったときの対応を、アルプス越えに出発する前にメンバー全員に告げている。
①昼間だけ走り、夜は走らない。②自動車の往来の激しい幹線道路をいく。 
③なるべく他の車についていく。④ガレージのある旅館に入る。
⑤なるべく車は泥まみれにしておく。
⑥誘拐されたら悠々と微笑し、かつ、お祈りをする。何をいわれてもハイ、ハイという。ただし、生水は飲まないこと。
「洗車して車をピカピカにしておくと車上荒らしなんかに狙われやすいから車は洗うな、と。だから、南米に入ってからは一度も洗車せず、汚いままにしておいた。それでも被害に遭っちゃったけど」(鈴木)
 コロンビアでは強盗にナイフを突きつけられた。さいわいに怪我も被害もなかったが。エクアドルからペルーへ向かう途中では車上荒らしにあい、荷物の一部を盗まれた。これまたさいわいなことに旅を続けるのに支障のない程度の被害で済んだ。(以下、略)