《十二時をまわって十五分ほどしたとき、突然、岸のすぐ近くの木のかげでルアーがガクッと止まった。すかさず竿先をあおったらガクン、ズシッとショックがあり、穂さきがびくんびくんと。もう一度大きくあおってしゃくるとそれが魚の逸走をくいとめ、水を裂いて魚が飛びだした。それはまぎれもなくイトウだった。ずんぐりした丸い頭に特徴がある。
「釣れた。イトウだよ」
連日の疲労困憊のためはしゃいだ声が出せない。》
メーター・オーバーの大イトウを釣り上げるべく、満を持して小説家・開高健がモンゴルを訪れたのは86年7月末のこと。しかし、他の魚は釣れてもイトウはなかなか釣れなかった。他の釣り人の竿にイトウがかかることはあっても、小説家の竿にイトウがかかることはなかった。来る日も来る日もノー・ヒット、ノー・ストライクの繰り返し。ただそれだけで1カ月弱の釣行日程はあっという間に過ぎ、気がつけばモンゴルの短い夏が終わろうとしていた。
ようやく念願のイトウを釣ることができたのは実に釣行最終日(8月23日)のこと。それが冒頭のシーンだ。釣れたのは九三センチのイトウだった。
その瞬間、小説家の一挙一動を遠巻きに見守っていた開高隊の面々、テレビ・クルー、モンゴル人スタッフなどがみな涙したという。
「それまでぜんぜんイトウが釣れなくて、精神的にも肉体的にもみんな疲れ切っていて、それが最後の最後になって釣れたものだから全員が泣いた」(岩切靖治読売広告社社長)
「1カ月近く苦楽を共にしてきて心が一つになっていたから、だからみんな泣いたんだと思いますよ。僕も涙が出ましたから。珍しいですよね、魚が1匹釣れただけで大の大人がみんなして泣くなんて」(鯉渕信一亜細亜大学教授)
その場に居合わせた人たちは誰もが、完封負け直前の9回裏ツーアウトから小説家が劇的なサヨナラ・ホームランを放ったと思ったにちがいない。奇跡の逆転勝利だ!、筋書きのないドラマだ!と思ったはずだ。だからこそ感動の涙が、歓喜の涙がこぼれたのだろう。
しかし、感動と歓喜の輪の中心にいながら、一人小説家だけは敗北感を噛みしめていた。最後の最後にヒットを1本を打ってノーヒット・ノーランを免れることはできたものの、完璧なる敗北を喫したことになんらかわりはない。小説家はそう受け止めたようだ。
(中略)
2度目のモンゴルは小説家に微笑んだ。小説家の執念に釣りの神様が応えてくれた。80~90センチ大のイトウがワン・キャスト、ワン・フィッシュの入れ掛かり状態--という夢のような体験が数日にわたって続いたこともあった。釣ったイトウは実に50匹を数える。
念願のメーター・オーバーの獲物を釣り上げることもできた。1年前に惨敗を喫したチョロート河で小説家は120センチの大イトウを釣り上げ、目標を達成した。夢を成就させた。
その直後、感想を求められた小説家は次のように答えている。
『またわたしは少し生き延びられます。ありがとう。』
『大いなる日は終わりました。円は完全に閉じました。』
(中略)
モンゴル釣行を境に釣師・開高健は活字の上からは実質的には姿を消す。中国新疆ウィグル自治区アルタイ山脈にあるハナス湖に謎の巨大魚(推定体長9~12メートル、体重1トン以上!?)を追い求めた『国境の南』という作品が『オーパ、オーパ!!』に収録されているが、しかし、『国境の南』はスケールの大きな学術調査のようであり、秘境探検のようでもあり、従来の釣行とは趣を異にする。そこには釣師としての姿はほとんどない。
モンゴル釣行以降、われわれはテレビの中で小説家・開高健の姿を見ることが多くなるが、テレビの中の釣師ぶりもモンゴル釣行を映像化した2作品--『開高健のモンゴル大紀行 ~未知の大地に幻の巨大魚を追って』(87年2月16日放送)、『続・開高健のモンゴル大紀行~見た!撃った!釣った!悠久の大草原縦断の旅』(87年9月14日放送)--とそれ以降の番組とではかなり雰囲気が異なる。
2度目のモンゴル釣行をはさんでロケが行われた『キャビア・キャビア・キャビア~謎の古代魚チョウザメを追って』(88年1月2日放送)は、世界三大珍味のひとつキャビアの謎と魅力に迫ったドキュメンタリーで、小説家はキャビアの生みの親であるチョウザメ釣りにも挑んでいるが、内容はあくまでもキャビアを主役にした美味探求であり美味礼賛であり、釣師・開高健は画面の中ではごく控えめだ。
テレビのドキュメンタリー作品としては遺作になった『スコットランド紀行~悠々として急げ』(90年2月7日放送)には元イギリス首相ヒューム卿の敷地内を流れるプライベート・リバー(ツィード川)で慣れぬダブルハンドのフライ竿でアトランティック・サーモンを狙ったり、『釣魚大全』の著者で釣聖ともいわれるアイザック・ウォルトンが愛したダブ川で釣りをする小説家の姿が収められているが、その姿に旅の終焉を感じさせるような哀感が漂っていて、見ていてモノ悲しくなる。
小説家最後の海外取材となったのはカナダのバンクーバー・アイランドだった。目的はスモールマウスバス・フィッシング。
これを皮切りにアマゾンのピーコックバス、フロリダのラージマウスバス、中国のケツギョなど、世界中のバスの仲間を釣り歩き、1冊の本にまとめる予定になっていた。『バスに乗り遅れるな!』というタイトルも決まっていたのだが・・。
旅の終わりの予兆、予感はあった。
「ハナス湖へ行ったときのことですけど、毎日夜の8時になると先生の枕元で弔辞を読まされました。『もし俺が死んだら、君は弔辞を読まなければいけないんだから、今から練習をしておけ』といわれて。ぼくはそれが苦痛で苦痛で・・」(岩切)
「88年はスコットランドを皮切りに香港、中国、カナダへ行くんだけど、途中、香港で『先生、なんでこんなに立て続けに旅をするんですか』と聞いたことがある。そうしたら『もう俺には時間がないんだ』という言い方をしていた。
もっと印象的だったのは、カナダから帰国する際に先生が自分の腕時計を外してガイドのボブ・ジョーンズに手渡したこと。
おかしなことをするなと思って、気になってあとで理由を訊ねたら、『ボブには生きて二度と会えんような気がしたんや』といったよ。死の予感みたいなものが先生の中に絶対にあったと思う」(高橋)
こうした証言を聞くにつけ、小説家が書き残した作品を読み返すにつけ、そしてビデオとして遺っているドキュメンタリー作品を見直すにつけ、ひとつの思いが頭をもたげてくる。
“釣師・開高健の歴史は釧路湿原のイトウにはじまり、モンゴルのイトウに終わった”--という思いだ。確信だ。
そのように考えると、120センチの大イトウを釣り上げた直後に発した小説家の言葉がより一層の重量感を持って胸にずしりと迫ってくる。
『大いなる日は終わりました。円は完全に閉じました。』
小説家・開高健から釣師・開高健への弔辞のようにも思える言葉ではないか。(完)