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長靴を履いた開高健

小説家開高健が書かなかった釣師開高健の姿や言葉などあれこれ

05年10月号「ドン・ルーチョ」

2006-02-19 09:19:30 | 「ラピタ」バックナンバー

 1980年1月。日本を出発してから約半年後。開高隊はペルーの首都リマからパン・ナム・ハイウェイを一路百数十キロほど南下したバロベント近くの海にいた。近くといっても、バロベントから先は道なき砂漠をさらに80㎞近くも走破しなければならないのだが。
 砂漠を西に向かってひた走ると、突然、ある一点で砂の地平線が大海原の水平線にかわる。南極海に端を発するフンボルト海流が北上する豊饒の海が目の前に拡がる。太平洋だ。
 地元リマの釣師でもよほどの狂の字でなければ訪れることのないポイントへと小説家を案内したのは“ドン・ルーチョ”ことルイス・マツフジさん。ペルー生まれ、ペルー育ちの日系3世。父親が黒胡椒栽培で大成功し、その財力にものをいわせて一族郎党で幅広い事業を手がけるマツフジ家の家長であり、ドンである。「ペルーでは超有名。みんなが知っている」(日本ペルー協会)
 ぜひドン・ルーチョの話を聞きたいと思っていろいろ調べているうち、残念ながらドン・ルーチョは心臓病で10年ほど前に亡くなっていることが判明したが、心許ないツテをたどりたどっていくうちにドン・ルーチョのことをよく知る日本人に行き当たり、話を聞くことができた。松久信幸さんだ。
 松久信幸と漢字で記すよりも、ノブ・マツヒサ、あるいは英語で[NOBU MATSUHISA]と表記したほうが通りがいいかもしれない。アメリカの有力専門誌『フード&ワイン』で全米ベスト10シェフの1人に選ばれたこともある名シェフであり、“大統領ですらなかなか予約が取れない人気レストラン”などとマスコミに書き立てられたこともある『NOBU New York City』のオーナー・シェフである(俳優のロバート・デ・ニーロが共同経営者)。アメリカ国内で多店舗化を進める一方、東京(港区南青山6丁目)、ロンドン、ミラノなどワールドワイドな店舗展開も行っているため、ほぼ4~5日単位のスケジュールで世界中を飛び回っている超多忙なシェフでもある。
 そんなノブさんとドン・ルーチョとの出会いは30数年前にさかのぼる。当時ノブさんは新宿2丁目の松栄鮨で修行中の寿司職人であり、ドンは晩秋から春にかけてよく顔を出す季節限定の一風変わった常連客だった。
「ルーチョは心臓が悪くて、寒さが体に応えるものですから、ペルーが冬(5~10月)になると暖かいところを求めて渡り歩くような生活をしていて、それで毎年日本にも来てたんです」(松久)
 ドンは避寒用のマンションを表参道に持ち、長いときは半年近く日本に滞在していた。その間、足繁く通ったのが松栄鮨だった。カウンター越しの付き合いがはじまり、回数を重ねて顔なじみになり、気心も知れてきた72年の夏、ドンがノブさんの耳元で思わぬことをささやいた。
「ペルーで一緒に店をやらないか、と誘われたんです。ぼく自身小さい頃から外国へ行くのが夢だったので、“これだ!”と思い、すぐにペルー行きを決めました」(松久)
 こうして73年春、ドン・ルーチョが51%、ノブさんが49%出資する共同経営の形でリマに松栄鮨という名の日本食レストランが誕生する。ノブさん自身がこの店で働いていたのは3年弱ほどだが、80年に同店を訪れた小説家は『もっと広く!』の中で次のように書いている。
《ドン・ルーチョは誰も知らない影の大仕事を企むかたわら趣味として“松栄鮨”という看板をあげて日本料理店を経営している。ここの料理がリマ市ではいちばんまともなものではあるまいかと思う。にぎり鮨もいいが幕の内弁当もなかなかの勉強ぶりである。》
(以下、略)


05年9月号「ターポン、ワティナンゴ、原稿」

2006-01-22 09:19:21 | 「ラピタ」バックナンバー

 南北両アメリカ大陸縦断釣行記の南米編『もっと広く!』は、《おことわり》から書きはじめられている。メキシコを南米編に入れることに対するおことわりだ。地理的には《“南米編”にメキシコを入れることにはいささか疑いをおぼえる。》と前置きをした上で、小説家は《しかし、スペイン人のコンキスタドール(征服者)上陸以後から現在までの史的体験、宗教、風俗、習慣、言語、その他さまざまな点では、リオ・グランデ以北の北米圏とは完全に異なり、南米諸国の圏に入るのである。》と持論を展開し、その上で《そこで、あくまで便宜的な立場から、南米編の初回に登場してもらうこととなった。》とことわっている。
 南米編に組み込まれたメキシコで担当編集者が交代する。北米担当の鈴木敏さん(故人)がメキシコ・シティーから帰国し、東京からやってきた森啓次郎さん(現『朝日ニュースター』キャスター)が南米担当の編集者として開高隊に合流した。
 成田で開高隊を見送ってから3カ月ぶりにメキシコ・シティーで再会を果たしたその日の夜、森啓さんは小説家にホテルの自室に来るよういわれ、遅くまで話し込んだという。
「開高さんの部屋の冷蔵庫に入っていたビール、ウィスキー、バーボン、テキーラを全部空けて、それだけじゃ足りなくてぼくの部屋の冷蔵庫もすっかりカラにしたのをおぼえてますね。
 開高さんと2人きりの時はいつも仕事の話はいっさいしない。このときも家庭の話とか、(小指を立てながら)こっちの話だとか、そんなことばかりだったと思います」(森)
 メキシコを縦断ルートに入れた目的は3つあった。ターポンを釣ること。メキシコの鯛もどきを釣ってメキシコ風に食べること。そして原稿を書くこと。
 ターポンは最大で体長2メートルにもなる巨魚で、小型ボートくらいならばグイグイ引っ張るほどの剛力で、ヒットすると豪快なジャンプを繰り返す好ファイター。海のルアーマン、フライマン憧れの魚だが、残念なことに1カ月前にシーズンが終わっており、小説家はさながら土俵に上がる前に肩透かしを食らったようなもので、すごすごと引き下がるよりなかった。
 メキシコ風の鯛もどきは名前を“ワティナンゴ”という。小説家がこの魚に注目をしたのは、それがアステカ王朝時代に王への献上魚として重用されていたという事実をどこぞで仕入れたからで、ならば《これはどうあっても一匹、釣ってみなくてはいけない。そして現地風の料理で賞味もしてみなければならない。》と思い立ったしだい。
 ワティナンゴを釣ったという話は『もっと広く!』には出てこないが、トゥスパンという小さな港町で“ワティナンゴ・ア・ラ・ベラクルサーナ”という料理を食べた話は記されている。ワティナンゴに軽く塩と衣をつけて熱い油で揚げ、それにトマトやタマネギ、ピメンタ(とうがらし)などを入れた熱く透明なスープをかけた料理で、小説家は目を細くし、舌を鳴らして「ムイ・ビエン(すばらしい)!」と叫んだそうだ。(以下、略)


05年8月号「“オタワの奇跡”を前に連戦連敗」

2006-01-08 14:16:57 | 「ラピタ」バックナンバー

★キングサーモン(アラスカ/ヌシャガク河)【惜敗】最盛期が過ぎていため不漁。2匹ヒットするも、《二匹とも水上に姿の抜ける横ッ跳びの大跳躍で逃げられてしまった。》(1章)
★スチール・ヘッド(カナダ ブリテッィシュ・コロンビア州/ディーン・キャナル川)【不戦敗】アラスカでの日程が1日ずれてしまったために予約していたホテル、水上飛行機、ガイドが《みんなオジャンになってしまった。》(2章)
★スチール・ヘッド(ワシントン州/デシューツ川)【不戦敗】
数日前に降った大雨のせいで増水、泥濁りがひどく、釣りにならず。《一瞥したとたんにおびただしい疲労が体内を雪崩れ落ちていった。》(3章)
☆ラージマウス・バス(ユタ州/パウエル湖)【辛勝】8月の3日間粘ってイモリの生き餌で釣り上げたバスがたった3匹だけ。サイズも最大で3ポンド級といまいち。《しかし、私は満足だった。》と小説家。(4章)
★ストライパー(マサチューセッツ州/ケープ岬)【完敗】場所も、季節も、潮まわりも、ガイドも、条件はすべて最高だったにもかかわらず、3日間ねばって釣果なし。ゼロ。《ストライパーは、ついに、一匹も、釣れなかった。舐めにもこず、噛みにもこなかった。》(5章)

 7月20日に日本を出発してからほぼ2カ月間の開高健の釣果である。惜敗、不戦敗、不戦敗、辛勝、完敗・・さんざんな結果だ。ケープ岬から転戦したニューヨークではブルー・フィッシュの大漁に恵まれるが、現地の釣り事情に詳しい釣り人にいわせると「ブルーは誰にでも釣れる魚」であり、「何もしなくても釣れる魚」なのだそうで、久々の大漁は多少の気晴らしにはなっただろうが、釣師としての自尊心が回復するまでには至らなかったに違いない。
 さえない釣果を引きずりながら、沈みがちな気持ちを抱えながら、開高隊総勢5人はニューヨークからいったん進路を北にとり、秋の気配が濃くなりはじめたカナダへと向かう。狙うはマスキーだ。
《これはカナダとUSAの一部の河や湖に棲む大魚である。》
《一九一九年にミシガンで捕らえられたマスキーは体長が二メートルをこえ、体重が一一〇ポンド、約五〇キロあったという(略)》
《形状はどうか。ひとくちでいうと、足のないワニである。》
《鈎がグサリと刺さると、マスキーは湖の水を沸騰させて跳躍また跳躍、かつ水面をころげまわり、疾走し、もぐりこみ、ボートめがけて突進する(略)》
 アラスカのキングサーモンに並ぶ、北米編の目玉と位置づけられていた獲物である。

--以下、略。


05年7月号「ニューヨークでの釣果」

2005-12-28 20:45:09 | 「ラピタ」バックナンバー

《おぼろな月明かりの下で大西洋が鳴っている。地ひびきたてて高い波頭が崩れおち、渚のゆるやかな坂を呑みこみ、あたりいちめんに白い泡がひろがる。一波また一波と坂を呑みこみつつじわじわと攻めのぼってくる。さきほど私がたって竿をふっていたところはとっくにかくれてしまった。つぎの波か、そのつぎの波あたりで私は砂からゴム長をひっこぬいてもっと後退しなければなるまい。》
 長靴を履いた開高健ばかりを追いかけていると、小説家・開高健の姿がしだいに後退し、フッと視野から消えてしまうこともままあるが、このような純文学的文章を読むと圧倒的な迫力で小説家・開高健が目の前に迫ってくる。「さすが芥川賞作家」と感心させられる。
 引用したのは『もっと遠く!』の第5章[暗くなるまで待って]の冒頭の文章だ。舞台はケープ・コッド(タラ岬)。ニューヨークから海岸線に沿って車で北上すること約6時間、ピーターパンに登場するクック船長の手鍵のような形で大西洋に大きく突き出した全長約105キロほどの半島の最先端だ。
 日付は79年9月3日。月曜日。時間は大潮のピークをじきに迎えようという夕刻過ぎ。狙いはストライプト・バスである。通称ストライパー。ときに重さ30キロ、体長1メートル50センチを超えるような大物に遭遇することもあるアメリカ東海岸沿岸の主として汽水域に棲息するサカナだ。スポーツフィッシングの対象魚として、東海岸でもっとも人気のある好ファイターである。
 水先案内人をつとめたのはニューヨーク在住の日本人釣り愛好家からなる紐育釣友会の森義則会長。
《会長は森義則氏といい、聖業はホテルのベル・キャプテンであるが、骨の髄からの釣狂で、一年中、冬の酷寒期をのぞいて、毎週欠かさず釣りに出ている。ニューヨークとその近辺の沿岸の海底は岩の一個一個にこの人のつけたナンバー・プレートが揺れているという噂があるくらい。》
 その森会長、最初に話があったときは小説家の水先案内人役などまったくやる気がなかったという。
「ある日、日本交通公社(現JTB)のニューヨーク支店から電話があり、日本の有名な作家がニューヨーク近郊で釣りをしたいといっているので手配やガイドをどうかよろしくお願いします、と。過去この手の依頼が多数あり、ガイド役を引き受けたこともあるのですが、そのたびに後悔してばかりいましたので即座にお断りしました。ガイド役をしている間は自分の釣りが思うにまかせず、大事な釣りシーズンの一部を棒に振ることになるので」(森)
 その翌日、別の知人を介して同じ依頼があった。いわく“相手は著名な芥川賞作家なのだから引き受けなさい”“この話を引き受けたらあなたも有名になれるよ”等々。
「著名な作家といわれても私は名前を知らなかったし、最後の一言にカチンときたので“わたしはすでに十分に有名です”といって電話を切りました。それでこの話は終わりにしたつもりだったのですが・・」(森)
 ところが、それから間もなく『週刊朝日』の編集長から、さらには担当編集者からも連絡があり、南北アメリカ大陸縦断釣り紀行に関する詳細な説明があり、その上で再度、再々度ガイド役を引き受けて欲しいと森さんは頼まれる。
「ていねいな説明を受けて、これは観光がてらの釣りとは異なるものだということを悟り、私もその気になった。
 そんな頃合いを見計らったように、開高さん本人からも手紙が届いた。“わたしは作家の開高健というものです・・”という自己紹介にはじまって、どういう情報が欲しいのかということが事細かに書いてありましたので、私の知っている釣りのほとんど--湖での冬の穴釣りから海のマグロ釣りまでをレポート用紙10枚ほどにまとめ、写真なども添えて開高さんにて送り返しました」(森)
《すると森氏は狂気者に固有のしぶとい緻密さで長文の厚い返事をよこし、魚種、シーズン、場所、餌、仕掛け、むっちりと書き込んだあげく、九月初旬の大潮まわりの時点に来て下さればストライパーでブル・ファイト(闘牛)が全身でたのしめるでしょうとのことであった。》
 以後、小説家と会長との間で1年ほどの間頻繁に手紙のやりとりが繰り返されることになる。
「具体的な行動計画などを順次知らせてくるのですが、それが未だかつて聞いたことのないスケールなので、釣りなどという遊びに挑戦する真剣な態度にただ驚くばかりでした」(森) 以下略


05年6月号「小説家の執念に応えたカメラマンたち」

2005-12-11 08:34:24 | 「ラピタ」バックナンバー
バイトの瞬間、ジャンプの瞬間を撮れ!
 魚がルアーに食らいつくその瞬間、鈎がかりした魚が逃れようとして水面で跳ねたその瞬間、まさにその瞬間を写真におさめることに小説家は執念を燃やした。
 バイトの瞬間は視覚に訴える華麗な形容詞であり、水面でのジャンプは壮烈な副詞であり、それらの写真で自らの文章を飾ることではじめて作品が完璧なものに仕上がる。--小説家は小説家らしいこだわりから、そう考えていたのではないだろうか。
 小説家自身がそのような写真を撮れるはずもないので、その執念はカメラマンに託されることになる。バイトの瞬間が撮りたい一心から、管理釣り場に潜水具を付けたカメラマンを潜らせ、その鼻っ先を狙って小説家がキャスティングを繰り返したこともあったそうだ。そんな話を小説家の釣友・常見忠さんに聞いたことがある。バイトの瞬間は撮れなかったそうだが。 
『フィッシュ・オン』(朝日新聞社刊)のときには、秋元啓一さん(元・朝日新聞社出版局出版写真部長 故人)が水中撮影に挑戦している。日曜大工で水中撮影用の道具--細長い木箱の1カ所にガラス窓を取り付けたもの--を作り、木箱の中にカメラを入れて決定的瞬間を狙った。
 銀山湖(新潟県/福島県)で2尺を超える大イワナに挑んだ『フィッシュ・オン』の最終章に掲載されている《イワナとルアー》というキャプションのついた写真がその成果だ。残念ながらバイトの瞬間ではないが、ルアーをしっかりとくわえ、もはや観念したといった表情で魚体をくねらせているイワナが見事に写っている。
 『オーパ!』の写真を担当した高橋のぼるさんは、初顔合わせの席で小説家に『魚がルアーをくわえてジャンプした瞬間を撮ってほしいんや』といわれて面食らったこと、そして『努力はしますけども約束はできません』と答えたことを今も鮮明に覚えている。
「先生がひょいとルアーを投げるじゃない。30メートルぐらい飛ばす。で、スーッスーッと引いてくる。それをずっとカメラで追う。シャッターボタンに指をのっけといて、ひたすらルアーにピントを合わせ続ける。それを1日中・・」(高橋)
 努力した結果、どんぴしゃのタイミングで「レンズの中で魚が跳ねた」と高橋さん。
 南北両アメリカ大陸縦断の旅に随行した水村孝さん(朝日新聞社出版局写真部/当時)にも小説家はまったく同じ注文を出した。
「魚がルアーに飛びつく瞬間を撮れ。どうしたらその瞬間が撮れるか考えろ。それとジャンプした瞬間は必ず押さえろ。釣りの写真に関してはこのふたつのことをいわれました」(水村)
 魚がジャンプした瞬間の撮影も難題ではあるが、水村さんが
頭を抱えてしまったのは魚がルアーに飛びつく瞬間の写真撮影のほう。当然のことながら水の中へ入っての撮影にならざるを得ないが、実は水村さんはカナヅチなのである。泳げないのだ。
「これは困ったことになったと思って、すぐに潜水教室に通った。シュノーケルをくわえて、足ヒレをつけて、腰に重りをつけて、それで潜る練習をしました。決定的瞬間を撮ろうと思ったら、潜って撮る以外にないですから」(水村)
 1カ月ほども熱心に通うとコーチが「もう大丈夫だから自信をもって潜ってきてください」と太鼓判を押したという。
 ところがギッチョンチョン・・。(以下、略)