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長靴を履いた開高健

小説家開高健が書かなかった釣師開高健の姿や言葉などあれこれ

ラピタ04年12月号『新発見!開高健の取材ノート』

2005-05-15 09:26:16 | 「ラピタ」バックナンバー
(前略)
『オーパ!』の取材--2カ月にもおよぶアマゾン大釣行のときも、小説家は取材用のノートやメモ帳は持っていなかった。ふと立ち止まって何かをメモするようなことは一度もなかった。2ヶ月間、小説家と寝食を共にした開高隊の面々がそう証言する。
 水先案内人として取材に同行したサンパウロ在住の作家、醍醐麻沙夫さんは『ブラジルの三蔵法師』と題したエッセイの中で、小説家の取材方法はかなり風変わりだと書いている。
《取材というと目と耳をアンテナのようにピンと張り出して・・という行動が普通なのでしょうが、彼はむしろ、そういうアンテナを納い込んでしまう感じでした。一種のアメーバが海綿のような不定形な存在になり、一見ボケッとして、あらゆる外界の刺激は全身で受け入れているようでした。メモやノートも一切とりません。》
 ところが、である。開高隊の面々でさえ存在しないと思っていた取材メモが見つかったのである。新発見だ。小説家の創作活動の一端を知る手がかりにもなりうる大発見だといってもいいだろう。
 手帳はポケットサイズで黒いビニール製。8穴のバインダー式。文具店と名のつくところであれば、どこにでも置いてあるようなありふれたものだ。
 表紙をめくると、中表紙の裏面に少し大きめのローマ字で書かれた[KAIKO]の5文字がまず目に飛び込んでくる。
 バインダーに挟まれている用紙は全部で47枚。そのすべてのページが、原稿用紙の上で習字した独特の四角い文字で埋め尽くされている。
 文字に乱れがないこと、内容が整理されていることからして、
これは見たまま感じたままを現場でサササッと書き留めたものでないことは明らか。現場でペンを走らせていれば、当然開高隊のメンバーに目撃されているはずでもあるし。
「現場で書いたのではなく、完全に原稿を書くということを前提にして何日間かのできごとを思い出しながら書いているという、そういうような感じが見受けられますね。われわれがボアチに繰り出している間に、ホテルの部屋で書いていたのかもしれない・・」(『月刊プレイボーイ』の担当編集者として同行した菊池治男さん)
“ボアチ”とは直訳すると「箱」のこと。それがどう転じたのか売春宿、女郎屋という意味でも使われる。アマゾン川を上り下りしながら1週間かそこら釣り三昧、男所帯の船上生活を送ったあとに陸に上がると、元気な開高隊の面々は連れだってボアチへ繰り出すことがしばしばあったという。そのたびに小説家も誘われたが、小説家は「ブタがトイレに寝ていないようなところはボアチとはいえなんだよ、おれの辞書によると」などと意味不明の詭弁(?)を弄して誘いを断り、ホテルの部屋に1人残った。
 きっとそんなときだったのだろう、バッグからこっそり手帳をとりだし、記憶を頼りにメモを取っていたのは。
(後略)
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※茅ヶ崎の開高邸で発見された小説家の取材ノート。「取材メモは一切とらない」と公言していた小説家だったが・・
 


ラピタ04年11月号オーパ!の水先案内人

2005-05-01 08:53:03 | 「ラピタ」バックナンバー
 開高健が茅ヶ崎(神奈川県)に瀟洒なたたずまいの仕事場をつくり、杉並の自宅に妻子(牧羊子、開高道子)を残して単身赴任よろしく一人暮らしをはじめるのは74年の晩秋のこと。家族公認の隠れ家であり、生まれてはじめての一人暮らしだった。もっとも、じきに妻子が茅ヶ崎に押しかけ、住み着くようになり、小説家の一人暮らしはあっけなくピリオドを打つことになるのだが。
 開高邸は現在は開高健記念館(茅ケ崎市東海岸南6-6-64)として一般に公開(金・土・日曜日および祝祭日)されている。一度お運びあれ。
 この開高邸に、76年6月某日、小説家と共にアマゾンを目指すことになった開高隊の面々が勢揃いする。カメラマンの高橋?fさん、編集の菊池治男さん、フリーライターの菊谷匡祐さん、そしてはるばるブラジルから駆けつけた醍醐麻沙夫さんの4人である。『月刊PLAYBOY』の岡田朴編集長もその場にいた。
 全員が顔を揃えてまずは初対面の挨拶--ということになるが、そのときの小説家の思わぬ反応を醍醐さんは今もはっきり覚えている。
「茅ヶ崎での初対面のとき、ほかの人たちにならって開高さんを“先生”と呼んだら、開高さんが顔を真っ赤にして怒った。当時の私は直木賞の候補になったばかりのまだ駆け出しの物書きで、大先輩を“先生”と敬称することにさほどの違和感はなかったのですが、開高さんのほうは釣り仲間として私と付き合うつもりだったようで、それで怒ったんですね。ですから、それ以降は私のほうも釣り仲間として開高さんと接するようにしました」(醍醐)
 簡単な紹介やら挨拶やらが終わると、待ちかねていた小説家が醍醐さんを促し、なかば小説家の取材に答えるようなかたちで醍醐さんが話しはじめた。巨大なブラジル全土の地図を壁に貼って、経験をふんだんに匂わせるおっとりした口調で醍醐さんがアマゾンの釣り事情を解説したことが『オーパ!』の第1章に書かれている。
 学習院大学卒業後「ラテン音楽に肌で触れてみたかった」という理由でブラジルに渡り、数年で帰国するつもりがアッという間に20年近くが過ぎ、その間さまざまな職業に就きながら作家修行を続けてきた醍醐さんならではの語り口と表現力で、アマゾンのあちこちを釣り歩いた豊富な実釣経験を踏まえて、具体的かつ子細な解説が続いた。
 一通り話し終えたところで醍醐さんが「ブラジルは広いから取材期間はどうしても1カ月くらいは欲しい」と遠慮がちにいうと、小説家は「よし2ヶ月とろう」と言下に応じた。それを聞いた瞬間、「スケールの大きな人だな」と驚き、「こういう人ならば案内のしがいがある」と醍醐さんは思ったそうだ。
 打ち合わせが終わると、小説家は開高隊の面々に秘蔵のネズミ酒をふるまった。ネズミの仔を漬け込んだいささかグロテスクな酒だ。高橋?fさんにとっては、醍醐さんの話よりも何よりもこの日最も印象的だったのはこのネズミ酒だったようだ。
「野ネズミの酒を飲まされて、そのあとに瓶から引っ張り出したネズミの仔を食わされた。エーッって思ったけど、前に何でも食えるっていっちゃったもんだから、もうしょうがないじゃない。これ食えばアマゾンへ行けるんだって思ってヤケクソで食べた。他の連中も食べた。それを見て先生は面白がってるわけよ。何がなんだかわかんない夜だったなあ」(高橋)
 一風変わった固めの盃といったところか。固めの鼠盃(チューハイ)・・(以下略)
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※写真は醍醐麻沙夫さんが小説家に宛てた手紙



ラピタ04年10月号「開高隊の面々」

2005-04-24 08:54:47 | 「ラピタ」バックナンバー
 ブラジルから届いた一通の手紙。Sr TAKESHI KAIKO(セニョール・タケシカイコー)と宛名書きされた手紙から、『オーパ!』の物語ははじまる。独楽がまわりはじめる。
 差出人は醍醐麻沙夫。サンパウロの日本語学校の講師で、サンパウロ人文研究所のメンバーであり、前の年の暮れに第45回オール讀物新人賞(74年)を受賞し、《作家の道へ一歩踏み出せそうな状態にいます。》--という人物からの、なかばファンレターのような、なかば挑戦状のような手紙だった。
 現在もサンパウロに住んでいる醍醐さんの許しを得ることができたので、その文面を少し詳しく紹介することにしよう。
《人文研は、主に日系移民に関する社会学的な研究をしている機関です。この人文研は不思議なことに全員釣りキチで、夕方六時を過ぎると、研究はやめて、ウィスキーを出し、釣りの話だけをします。
 この人文研に最近ある異変が起きました。中心的な研究員の斉藤広志博士(略)が今年の初め日本へ講演に行き、開高健著『フィッシュ・オン』買って帰り、全員がそれを廻し読みをし、すっかりイカレてしまいました。
 中でも最長老の河合老(測量技師)などは、会うたびに、開高ナニガシのフィッシュ・オンは・・と目の色を変えてうるさいくらいです。(略)ついに、「我々も開高健の向こうを張って(とは言いませんが、それに近い表現)釣りの本を出そう」ということに話がエスカレートしました。》
《中でもキングサーモンの描写がいいと言いあい、しかし、ブラジルに棲息するドラードはキングサーモンにひけをとらぬ筈だ、と意見一致しました。ドラードはエル・ドラード(黄金郷)のドラードで、つまり金色の魚です。激流にのみ棲息し、十数?sに達し、小魚やスプーンで釣りますが、かかってからの暴れ方は『フィッシュ・オン』のキングにひってきすると思われます。》
《それで七月にパラグアイとの国境のポンタプランまで二十日の釣行を全員ですることにしました。(あなたの文章には、分別ある人から、稚気というか、ファイトを引き出すような挑戦的なところがあるにちがいないようです)
 『フィッシュ・オン』は秋元カメラマンに負う処が大であるということで、カメラマンを募集し、邦字新聞も面白がって書いてくれたりして、ちょっとしたサワギになっています。》
《一度、機会がありましたら、ブラジルに釣りに来られませんか。(略)開高様にとっては河の釣りは、多分、もうブラジルしか、まったくの新しい釣りはないのではないかと思います。》
 この手紙をきっかけに、小説家がアマゾンの釣りについてあれこれ訊ね、それに対して醍醐氏が答えるというかたちでの手紙のやりとりが何度となく続くことになり、ことの成り行き上、開高隊の一員として醍醐氏が現地における水先案内人を務めることになるわけだ。(以下、略)
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※『原生林に猛魚を追う』(醍醐麻沙夫著・講談社刊)


ラピタ04年9月号「オーパ!」発進

2005-04-03 09:30:32 | 「ラピタ」バックナンバー
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《何事であれ、ブラジルでは驚ろいたり感嘆したりするとき、「オーパ!」という。》(『オーパ!』開高健 写真・高橋?f 集英社刊)
 46歳の小説家・開高健(1930年生まれ)を隊長とする開高隊--写真の高橋?f(28歳)、担当編集者・菊池治男(28歳)、小説家とは20年来のつきあいがあり、小説家のお守り役として同行することになったフリー・ジャーナリストの菊谷匡祐(42歳)、サンパウロの日本人学校で日本語の講師をしていた現地水先案内役の醍醐麻沙夫(42歳)--総勢5人が大河アマゾンを訪れたのは77年8月から10月にかけて。全日程65日。全行程1万6000キロ(!)。総予算約800万円(!!)。--思わず「オーパ!」と小さくうなってしまうような日数であり距離であり金額だ。
 小説家自身が『オーパ!』と名付けたアマゾン釣行記は『PLAYBOY日本版』(集英社)の78年2月号から9月号まで計8回連載され、大好評を博す。読者アンケートによる人気ランキングはほぼ毎回1位を占めた。連載をまとめた単行本(79年10月発売)--写真集のような豪華本は2800円という価格にもかかわらず10万部を越す大ヒットを記録した。--結果もまた「オーパ!」である。

 釣師・開高健が大アマゾンを目指した理由はふたつある。体長5メートル、体重200キロにも達するという世界最大の淡水魚ピラルクー--いまだかつて竿とリールで釣り上げられたことがないという巨大魚を釣り上げて、釣りの世界史に自らの名前を刻むこと。
 そしてもう一つ。その黄金色の魚体から黄金郷に由来する華麗な名前を持ち、同時にその獰猛さから“河の虎”の異名を合わせ持つドラドを釣り上げることだ。
 小説家・開高健が大アマゾンを目指した理由はそれとはまた別にあった。アマゾンから帰った翌78年の5月、某社の文化講演会に引っ張り出された小説家は次のような話をしている。
《男も四十七歳ぐらいになると、ボケてスレて面の皮が厚くなり、万事にオドロクということがなくなります。人間、オドロかなくなったら、情念が水枯れしてしまいます。砂漠です。倦怠や虚無があるだけで、毎日、ただゆるやかに少しずつ自殺するような暮らしをケチくさくだらだらチビチビと送り迎えするだけです。(略)これじゃいけないと思ったので、とにかく、もう、ただオドロイてみたいという一心で、それだけの心で、アマゾンへいきました。いま地球上で、大の男が子供のようにオドロけるところといったら、アマゾン河ぐらいしかないのじゃないかしら。》(藪の中の獣と闇』-文藝春秋刊『白昼の白想』収録-より)
 (略)
 オドロイてみたいという一心で1万6000キロもの距離をさまよい、65日間驚きっぱなしだったのが小説家にとってのアマゾン釣行だった。釣りを媒介にして新たな驚きを発見し、驚くことで日々の暮らしの中で干からびたようになっている情念に水を遣り、情念をみずみずしく保つ。40代半ばを過ぎた中年の小説家にとっては、それこそがアマゾン行きの最大の目的だったのである。
 釣りはあくまでもそのための手段という位置づけである。釣師としてはもちろん、小説家としても釣りそのものを楽しんでいる様が伝わってきた『フィッシュ・オン』(朝日新聞社)とは、この点が大きく異なるように感じられる。
 ちなみに「OPA!」は驚いたり感動したりするときに使うポルトガル語の感嘆詞で、英語の「WOW!(ワオッ!)」に相当する。実際の発音は「オーパ!」よりもむしろ「オッパ!」に近い、と高橋?fが教えてくれた。(以下、略)

※写真は当時の『オーパ!』の雑誌広告



ラピタ04年8月号『フィッシュ。オン外伝』

2005-03-20 07:23:57 | 「ラピタ」バックナンバー
rq釣師・開高健のファンにとって銀山湖(奥只見湖)は『フィッシュ・オン』(朝日新聞社刊)の舞台としてあまりに有名だが、小説家・開高健のファンにとっての銀山湖はむしろ『夏の闇』(新潮社刊)の構想を練った山間の湖という印象のほうが強いかもしれない。
 70年の一夏(6~8月)を、小説家は下界の世俗から隔絶した銀山平(新潟県北魚沼郡湯之谷村)で過ごした。電気もガスも水道もない。電話もない。テレビも冷蔵庫も洗濯機もない。郵便はもちろん電報さえも遅れて届く。当時の銀山平はまさに陸の孤島状態だった。小説家はそれが気に入った。小説の構想を練るには、原稿を書くには、うってつけだった。
「鬱状態に持っていかないと小説が書けない人だった」 
 と、坂本忠雄氏(35年生まれ)は述懐する。新潮社に入社して2年目(60年)に開高健の担当になり、『夏の闇』の担当編集者でもあった人物だ。原稿の督促が厳しかったのか、小説家に“カツアゲの坂本”とあだ名された辣腕である。
「どこかに籠もって、人との関係をいっさい断ち切って、そうやって原稿に集中しないと書けない人でしたね。人がいたら絶対に書けない。そういう意味では銀山湖は条件にぴったりだった」
 文章から浮かび上がってくる饒舌さ。写真から見て取れる陽気さや人なつこさ。それとはまったく違う小説家の顔だ。
「小説を書いているときの開高さんは、他のことをしているときとは全然違う。鬱病患者みたいな感じで、ものもいわずにじっとしている。その集中力はすごかったですよ」
 坂本氏も銀山湖へは何度か足を運んだ。もちろん、原稿の督励、督促のためだ。
「でも、山籠もりしている間は彼は1字も書けなかった。ランプのもとで一生懸命やっていたみたいだけど、書けなかった。彼はいってましたよ。『ノンフィクションをやりすぎたな』って。描写が狂ってる、なまっているともいってた。たとえば目の前にある瓶を書くときに、ノンフィクションばかりやっていると『一つしか書けないんだ。これではあかのんや』と。小説を書くときは想像力を自由に働かせていろいろな書き方を考えなければいけないんだけど『それができないんや』といってましたね」
 このとき小説家の頭のなかには書きたいテーマが二つあった。《二つとも霧のなかに全身をかくしているが顔だけはこちらを向いている。》(フィッシュ・オン)
 そのひとつが、『新潮』の71年10月号に全400枚が一挙掲載された純文学書下ろし作品『夏の闇』である(もうひとつは不明)。パリで10年ぶりに再開した「私」と「女」が、「私」が滞在していたパリの学生街の旅館に籠もり、「女」が客員研究員として勤務していたドイツの大学の職員用アパートに身を潜め、部屋の中にいる間は全裸で過ごそうと取り決めをし、ひたすら交わり、眠り、食べるだけの日々を描いた作品である。
 これは、小説家が頭のなかだけで創作したフィクションではない。実際のモデルと実体験をもとにした私小説だと考えられている。ある意味で赤裸々なノンフィクションとも受け取れる作品なのである。それだからこそ小説家は事実をいかにフィクション化するかに腐心し、苦慮したのではないのだろうか。(以下、略)