長靴を履いた開高健

小説家開高健が書かなかった釣師開高健の姿や言葉などあれこれ

東儀秀樹さん(予告)

2006-04-24 20:57:58 | Lapita Interview

 ハーレー・ダビッドソンのロゴが背中に大きくあしらわれた革のジャケット。細身のジーンズ。先のとがったウエスタン・ブーツ。日頃テレビで拝見する姿とは別人のようないでたちで東儀秀樹さんはあらわれた。
 でも、態度、物腰はあくまで優雅で穏やかでテレビで見る印象そのまま。育ちの良さというか、人間としての品格のよさみたいなものを感じさせられる。
 話題がオートバイのことに移ったとき、わたしが高校の頃スズキのハスラー50で通学していたというと、東儀さんは「ハスラー50」という言葉にパッと反応し、熱くまくし立てた。
「ハスラーは僕も大好きでした。当時の50ccってタンクとエンジンの間にどうしても隙間ができて格好が悪くなっちゃうのを、ハスラーはすごくうまくまとまっていて格好良かったし、町乗りもモトクロスっぽい乗り方もできる両刀遣いで、僕はあこがれていましたよ。友達が乗っていたハスラーを借りて、多摩川の河川敷でめちゃくちゃ乗り回しましたよ」
 東儀さんとの距離がいっきに縮まった気がした。(滝田)

 東儀秀樹さんの「趣味論」はLapita6月号(5月6日発売)をご覧ください。
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東儀秀樹さん+滝田誠一郎

■東儀秀樹さんのプロフィール
1959年10月東京生まれ。高校卒業後、宮内庁楽部に入る。96年デビューアルバム『東儀秀樹』で脚光を浴び、00年に発表した『雅楽』以後は毎年のようにゴールドディスク大賞受賞している。天秤座。B型。

■取材の中に登場した東儀さんの愛用品・秘蔵品リスト
【ギター】エレキギター、アコースティックギター合わせて30本ほど
【時計】フランク・ミュラー(『パーペチュアルカレンダー』、『マスターバンカー』、『ヴェガス』、『ロングアイランド』、『クレイジーアワーズ』)をはじめ、100個ほど所有
【オートバイ】ハーレー・ダビッドソンの『ローライダー』、スズキの『カタナ』(GSX1100S)、ヤマハXJ400D
【クルマ】フェラーリ360スパイダー、ポルシェ・ターボ996。ACコブラ(1954年製)
【カメラ】ライカM6、マキナ、EOS20D他


ラピタ06年2月号『モンゴルのイトウ(前編)

2006-04-23 09:05:43 | 「ラピタ」バックナンバー

 釣り好きから釣師へ(もしくは釣りキチへ)--小説家・開高健にとってそのターニング・フィッシュとなったのは釧路湿原で釣り上げたイトウである。68年初夏。小説家が37歳の時のことだ。
 年々数が減り、絶滅の危機にさえ瀕していた釧路湿原のイトウは“幻の魚”といわれ、天才、魚聖の異名を持つ名立たる釣り自慢でさえノーヒット・ノーフィッシュの一敗地にまみれ、うなだれて湿原をあとにするのが常だった。その幻の魚を小説家は初挑戦で、たった1日の釣行で、見事2匹釣り上げた。75センチと60センチ。この釣果に小説家は完全無欠の満足と極上至福の喜びを味わい、意気揚々と湿原をあとにした。
 が、その栄光は長くは続かなかった。湿原での思い出はすぐにヒビ割れ、色あせたものになってしまう。1カ月ほどのちに訪れたドイツでぶらっと立ち寄った釣具屋に、2メートル近くありそうな巨大なイトウの写真が飾られているのを見てしまったからだ。“とたんにカーッと頭に血が上ってしもうた”という小説家の言葉が残っている。
 以来、小説家にとってイトウは栄光と挫折と羨望とに彩られた特別な魚になった。

 小説家がイトウに再挑戦するのは実にそれから18年後の1986年のこと。小説家独特の表現を借りるならば、橋の下をたくさんの水が流れたあとのことである。場所はモンゴル。狙うはメーター・オーバーの大物。 そのきっかけを作り、2度のモンゴル釣行を実現させた立役者が読売広告社の岩切靖治社長である。
「開高先生がイトウを釣りたがっている」--あるとき人づてに聞いたこの一言に岩切さんが「これはいける!」とばかりに飛びついたところから話が動きはじめるのである。
 当時、営業の課長だった岩切さんは大口クライアントの1社としてサントリーを担当しており、サントリーをスポンサーにしたテレビの特番--アマゾン河や黄河源流のドキュメンタリー番組をつくったりしていた。折しも「次は何をやろうか?」と考えていた岩切さんの耳に飛び込んできたのが「開高先生が・・」の一言だった。
「開高先生とサントリーの佐治敬三社長(当時)が親しい間柄であることは有名でしたから、先生を引っ張り出すことができればサントリーをスポンサーにして面白い特番が作れそうだと反射的に思った」(岩切)
 さっそく調べてみると中国の黒龍江(ロシア名:アムール川)でイトウが釣れるらしいということがわかったが、詳細は一切不明。それでも臆することなく茅ヶ崎の開高邸に直談判に行ってしまうところが、いかにも岩切さんらしいところ。
「ぼくは開高先生のことも何も知らなかった。本も読んだことがなかった。だから最初先生に会ったときは『オーパ!』や『オーパ、オーパ!!』の写真ばかり褒めたわけです。文章は読んでいないから、“写真が素晴らしい”って、そればっかり。さすがに先生もイライラしてましたけど、怒りはしなかった」(岩切)
 そんな前段があって、いよいよ本題に入っていくのだが、これまた話は小説家をイラ立たせるようなものだった。
開「君は俺にイトウを釣りに行けというけど。どこへ行くんだ」
岩「先生、中国ですよ。中国にいるんですよ」
開「中国のどこだ」
岩「黒龍江です」
開「黒龍江って君、何キロあるか分かってるか? 2700キロあるんだぞ。黒竜江のどこへ行くつもりなんだ」
岩「先生、行けばわかります」
開「行けばわかりますじゃ、行かない。釣ったヤツをつれてこい」
 この数ヶ月後、八方手を尽くしてようやく入手したイトウの写真をもって、岩切さんは喜び勇んで開高邸を再訪する。
岩「先生、やっぱり中国にイトウはいました。写真を見つけましたよ」
開「君、これがイトウか?」
岩「先生、これがイトウですよ。こんな大きいイトウはなかなかない」
開「これは君、イトウじゃなくてチョウザメだよ」
岩「・・・」(以下省略)