日常と考えるヒント < By Taki Katayama >

< 論及、述懐、日常/旅/グルメ >

メデアについて思うこと

2015-01-25 | 論及
夫々感じ方は異なるので、どれが正解か言えないが、私はどうも今のメデアの在り方に疑問を持っている。と言うのも、今回、イスラム国が二人の日本人を拘束し誘拐画像をインターネットに流したが、この報道を巡り、各放送局は、あれやこれや問題を勝手に分析し、コメンテーターを連れて来ては、細かく憶測情報をコメントさせている。

そもそもメデアが流す情報、コメンテーターの流す情報は、どの様に認識され、吟味され出されているのだろうか。夫々が流す情報は、主観的な認識のもとに、考える対象を語っている。デカルトは、「われ考えるゆえに我あり」と誰しも主観的な思考が出来るし、その考えることが人間理性であり、主観の中に不確かさを含まない観念(=真理、普遍性)を一致させることが出来ると言っている。この認識の基礎となる考え方を基にカントは、人間の認識の限界を定め、理性(=考え抜く力)が、ある一線を超えると矛盾や不毛な議論を生み出すと理性批判を行っている。報道、コメンテーターの話の中に真理はあるのだろうが、それを見分けるのは、容易ではない。同じような報道を何度も繰り返し、報道機関、コメンテーターは、自分の考える世界を述べ強要している感がある。メデアの役割は、認識した事実を述べるに止め、あたかも自分の認識が100%正しい様な振る舞いは慎むべきではないかと思われる。その意味では、メデア以上に情報を集め、考えられる範囲での事態の把握を行いつつ最大限の努力をしている政府に任せておくべきでは無いかと思う。

今回の問題は、人質になった人の生命にも係る問題であり、明かせない微妙な情報もあろうので、我先に知ろうと動き回り、更にそれを憶測で報道することは慎まなければならない筈だ。メデアは、一体何を求めているのであろうか。真実の報道か、人質解放か、問題の解決か、目立つことか、視聴率か、スポンサーを喜ばすことか、私には良く分からない。

先日、維新の党の江田憲司代表の言葉が日経新聞に掲載されていた。「安倍首相も大変だと思うが頑張って欲しい」。日頃は、距離を置いている首相に対し、異例のエールを送っていた。

他の国では、メデアの質問に対するコメントはしているが、人質の安全にも係る問題でもあり、慎重な対応をしている。実際にトルコでは、今回の問題も、それ程、報道されていないと聞く。危機管理は、教科書の無い世界であり、解決には、対応者の資質が問われるが、彼らは不休不眠で対応している筈である。メデアも問題を解決したいなら、情報合戦、事態の勝手な分析をすることなく、事実関係を伝えるに止め、対応している政府に任せておくのが寛容と考える。今回の問題で、どうもメデアの騒ぎ振りが気になっている。


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