くない鑑

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間違った怨念の矛先

2007年05月08日 | くない観
先日,偶々なのですが、時代劇専門チャンネルにて放送中の「人形劇三国志」を観ました。
久しぶりに見たそれは中学の頃,再放送でやっていたのですが大流行をして、三国志の世界へと誘った懐かしい番組でもあったので、ついつい?!見入ってました。
しかし...

その日は、関羽が呉軍の計略の前に荊州を失い麦城にて最期を遂げる
非業の最期を遂げる関羽将軍の無念を思う反面,その志を打ち砕いたであろう白髪髭の呉将は一体誰なのか?!疑問になりました。

私が見始めたのは、人質となった荊州領民の開放を条件に関羽将軍が投降する場面。
しかしその白髪髭の呉将は、その約束を反故にして領民を目の前で殺害,更には関羽将軍と随行の蜀将をも殺害してしまうのです。
その余りの非道ぶりに、この呉将は潘璋か馬忠だと思ったのですが、関羽将軍が断末魔に「お主だけは許さぬ!」と言った折に出た呉将の名を聞いて衝撃を受けました。
この白髪髭の呉将こそが、この荊州攻略に立役者たる呉下の阿蒙こと孱陵公呂蒙(字:子明)だったのです。

正直,まさか?!と思いました。。。

司会の紳介竜介も「呂蒙はひどいやっちゃな!」などと言っていましたが、ちょっと待て!!
如何に関羽将軍の敵役を立てたいといっても、呂蒙将軍はそんな非道な人物ではありませんから!残念!!
確かに,蜀漢の荊州陥落と関羽将軍の最期は、呂蒙将軍の謀が功績。
しかし...
私は、この話を途中から見たので最初の様子,即ち、人形劇三国志が荊州陥落をどのように描いたかは解らないのですが、関羽将軍の最期を見て推して知れます...。
そもそも関羽将軍が荊州を失ったのは自業自得,北伐に気を取られすぎて驕りが生じ、呉や同僚の蜀将との協調を疎かにした失策の為。それを...。

呂蒙将軍は、人形劇三国志が描く人物とは真逆に、勇猛果敢であるとともに軍略の道に明るく、優れた企画計略を立て、一国を背負って立つ器量を備持った傑物。
荊州攻略に際しては、占領した領民を慰撫し、荊州に居た関羽やその配下諸士の家族を(策とは言え)手厚く遇し、更には、同郷の旗本が軍令を犯した折には、(涙を呑んで)これを斬刑に処して軍と荊州領民の人心を掌握したのです。それなのに...。

調べて見ると、当時でもこの描き方に批判があったようですが、判官贔屓もここに極まり・・・と、言った所でしょうか?!

どちらかというと孫呉贔屓の私にとっては、もっともっとその地位と評価が上がることを願います...。

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2 コメント

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同意! (破天間 武茶)
2007-05-18 02:16:57
わしも、このシーン覚えてます。
呉スキーなので、くない殿と同意見でございまする。
蜀びいきが極端すぎる物語よねぇ。。
羅貫中の、「三国志演義」でさえも呂蒙はそんな
悪逆非道に描かれてないのに。。

荊州を失ったのは、関羽のミスであったはず。
にも関わらず、びほう、ふしじん(変換できない)
の両名は、関羽を裏切ったものとして、ご当地の関帝廟での
関羽の銅像の下に、鎖でつながれてる像があり、
訪れた人々は、その両名につばを吐き捨てるとか…

極端な判官贔屓に、まちがった歴史観、
恨みは千年経っても忘れぬという儒教体質は怖いねぇ…
親呉派決起!いざ...... (記主くない)
2007-05-19 11:15:19
▽武茶殿
ご同意有難し!
あれを見た時はもう?びっくりしましたよ。
多少の親蜀派でもある私でもひきました。
ゆえに、『三国志』呉書呂蒙伝を読み直して、その知勇兼備で仁徳厚い将軍であることを再認識しました。

改めて、歴史は公平中立な視点が必要だ…と感じました。

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