くない鑑

命を惜しむなっ!名こそ惜しめっ!!前へぇ、前へーーーぇっ!!!

ひの新選組まつり・・㊤迷路

2005年05月08日 | 観祭記
毎年5月上旬の週末、新選組所縁の地,東京西部の日野に於いて行われる“ひの新選組まつり”。
所縁の地だけに、もうかなり歴史のあるもの・・なのかと思えば、未だ8回目のこの祭を、今年もまた観に行きました。
これに先立ち、不夜城評定の間にて紋次郎。殿より今年も観覧差配を仰せつかり、皆様方の拙き取り纏めをさせていただきました。
今回は不夜城評定の間にて公募を行った結果、紋次郎。殿と私と上杉殿の3人で、観て参りました。

京王高幡不動駅改札前に9時半集合にしてしまったので、京葉を横断する私にとっては結構...予め乗換案内で調べておいたので、一応計画的に家を出ましたが、乗り継ぎがスムーズに行ったので、高幡不動には予定より10分早く,9:20に着きました。
高幡不動駅唯一の改札口前,路線バス降車場前は、ボランティアかおじいさんが1人,案内係として立っていました。私は、その隣であとのお二方をお待ちしていました。
そんな中まず現れたのは謎の武士、もとい上杉殿でした。
その身なりは、羽織袴に素足に草鞋,しかも陣笠まで備えた完璧なもの!また、そこには上杉家の御紋,竹に飛び雀が備えてありましたが、これが一番気になりました。。。欲しいって...
これにはほとほと恐れ入りました。。。以後、この日限定で上杉殿は代官様として御呼び申し上げました<m(_ _)m>

その後、待つこと5分ほどして現れたのは紗霧殿でした。
今年も土方家の菩提寺,石田寺にある土方歳三の墓守をすべく来られ、予定では昼前にお会いすることになっていたのですが、、、ここでお会いするとは予想外。
上杉殿と居たので、この場にいることがよ~く分かっていただいたようで、軽くご挨拶。
その後、待ち合わせをしておたれたモノレールの高幡不動駅へ向われました。
あと残るは紋次郎。殿だけなのですが、、、実は殿より集合時刻の10分前に、メールにて遅参の連絡を受けておりました。その報によると「南武線への乗換を間違えて逆方向に行ってしまった」...とのことで、集合より15分遅れてご到着されました。
無事全員うち揃い、まずは行軍の出発地,高幡不動へ向いました。
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ひの新選組まつり・・㊥似非隊士が行く

2005年05月08日 | 観祭記
高幡不動尊における出発式は既に9時半に行われており、着いた頃には次の行程,50分から境内土方歳三立像前に一同集合しているところでした。
今回は、マコ殿ときちざが隊士として加わり、それぞれ2番組岡田五郎と十番組大内鎗之助のお役目頂いておりました。
マコ殿は背が高いの、すぐ見つけることが出来ました。
背の比較的低い私たちにはありがたいことです。
そしてもう1人,きちざを探しに出たのですが、、、所属組と役名を聞いていなければ、判らなかった・・・ってくらい、(ちと)感じが変わってました。
なにせ、本人と会うのは去年のこのまつり以来ですから。。。

歳三立像前での一連の行事も済み、勝鬨を挙げた後、高幡不動尊金剛寺を後にしました。
紋次郎。殿は、今年も昨年引き続いて和装に“誠法被”を身に纏い、帯同する甲冑衆内の知人と歓談で離れていたお代官様も合流し、後詰の十番組の最後尾にきちざがいたのを勿怪の幸いとばかりに、ずっとこれに帯同していました。
一番後ろに付いた上杉殿は、当にお代官様かお目付に扮した関係者かと思うくらい溶け込んでいたので、これはまた佐倉の再来か...と感じるくらいでした。

行軍は、山門を潜り、警察官の信号機操作と整理の元,規律正しく青信号で横断、参道を抜けて一先ず駅前のロータリーを出、そこを突っ切らずに右手に折れて、縁を通ってその裏手を進みました。
この間、ロータリーでは殺陣衆が“激戦”を繰り広げていましたが見逃し--; その後に一旦隊から離れ、ロータリーにて一行を待ち伏せていました。
一隊は、京王駅とモノレール駅との中間部から京王ストアーの前の通りに出て、ロータリーを横断して再び高幡不動尊へ向う・・・のですが、紋次郎。殿は果敢にも、1人だけ色違いのダンダラ法被できちざに帯同して、何も咎められる事無く、当たり前のようにロータリーを横断して行きました。。。

“新選組”は高幡不動にて休息後、バスにて移動する事になっていたので、暫し歓談の後、ここで一旦別れ、我等は紗霧殿がいる石田寺へ、モノレールにて移動しました。
この時初めて立像より奥へ入りました。

石田寺には11時前に到着。
今までにはあった事の無い、多くの人に驚きつつ、そこを回避して土方歳三の墓へ行くと、紗霧殿がしっかりと墓守をしておられました。
この場にて(不謹慎にも)歓談をしていると、住職の法要に続いて老けた感じの“土方歳三”が現れ、献花をし、合唱をして行きました。・・・人だかりは、これを目当てにしていたのでしょう。。。
これを偶然にも見届けた後、厚くなった雲を見て雨を心配しながら、近くの土方歳三資料館へ移動しました。この後、日野市役所にて昼餉中、紗霧殿の効力宜しく、ポツポツと雨が降ってきました。いや、直ぐに止みましたけど。
モノレールから見た時には並んでいる人が少なかった同館も、11時半頃には結構な人だかりになっていましたが、我等の目的は展示物に非、ここにいるとあるお方なのです。
それは、、、“弐万円の山”という女性。詳しくはコチラをご覧頂いて...今年は出会って3年目、更なる値下がりを期待していたのですが、案の定、お友達の横槍も有って弐千五百円にまで暴落していました。これは...(以下自粛)
再びの再開を約し、拡充した館内には目もくれずにここを後にし、たまたま停まっていたタクシーに乗って日野市役所まで移動しました。

去年は雨の中、ここから程近いメイン会場だった万願寺まで土砂降りの中歩き、一昨年は同じところまで同じ道程を歩いて移動しました。
去年、左馬之助殿ご夫妻がとてもげんなりだったのが印象的でした。。。
一昨年は一時間ほど掛けた道程が、タクシーだと10分程,900円でした。
それとを比べて見ると、なんだか物悲しかったです。。。

行軍の終点,日野市役所にて軒を連ねていた屋台でビールやもろこし,牛すじ煮込みなどで大満足してまったりと休息後、再び新選組に出会うべく、一路日野駅方向へ向いました。
行軍の一隊とは、その途中で遭遇し、まずマコ殿を確認後、きちざが変わらず最後尾に居ることを確認してから合流しました。
福岡から来た昨年度の“沖田総司”とお近付になったりして、再び日野市役所の裏手に到着し、暫し待機後、会場をぐるりと周った公園の中でまた暫く待機していました。

この時、我等が居た時よりも数倍の人だかりが、十重二十重と為していて、一体何事か・・と思ったら、今回のゲスト,山本耕史を一目見ようと群がった人だかりでした。
これを見て、私も果敢に飛び込もうかと試みたのですが、余りの人の多さに居場所さえ特定できず、断念しました。。。が、最後に漸く居場所を突き止め接近を試みたのですが、スピーカーから声と、最後に豆粒ほどの大きさで本人を生で見ました。なんだか悲しかった...
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ひの新選組まつり・・㊦これが弱点

2005年05月08日 | 観祭記
時刻は15時過ぎ。
隊士一同は、山本耕史トークショーを見るべく市民ホールへ吸い込まれてゆき、残された我々は、新撰組尽くしの少年に出会って記念撮影を求められたりしたのですが、宴を始めるまでには時間が早過ぎるので、日野本陣を見学すべく、徒歩にて移動しました。
今年、祭が速く終わったのはきっとゲストの所為・・・なんでしょうね。
なんとなくあっけない終わり方で、ちと残念でした。。。


途中、高台の木々の多い公園で小休止したのですが、ここにはどういう謂れか“日露戦争忠魂碑”がありました。

この途中、てっきりはなっから参加だと思ってた碧雲斎の若と連絡が付き、日野本陣で合流。一緒に中を観る・・・つもりだったのですが、資金不足で入館料すら払えず外で待つという若に、係りの方が有り難くも無料で「どうぞ」と仰ってくださったので、そのご好意に甘えて入館することが出来ました。多分、部活帰りの制服姿がそれを許したのでしょう...。

中は、昨年訪れたときよりも展示スペースが広くなり、講談師に扮したカエルが“新選組”紹介ビデオを流していたり、庭まで降りることが出来ていました。
また、蛍光灯から行灯の灯りを感じる白熱球になったりと、趣向を凝らした改築が為されていました。
そんな中で存分に休憩し、存分に楽しんでから宴の場所を確保すべく、立川へ出ました。

宴の場所は予め「居酒屋新撰組」と決めていて、紗霧殿からも場所などをお聞きして向っていたのですが、行けども行けども見当たらずにちと不安になっていたところに、たまたまここのバイトでティッシュ配りをしていた山本未来似の女性に出会って、惹かれてそこまで店まで案内してもらいました。
未だ閑散とした店内の掘り炬燵式座敷に通されて、まず4人だけでちびちびと、場つなぎ的にゼロ次会を行っていました。
その後、宴会から合流の如月雪魔ポン殿が18時頃、新選組隊士であったマコ殿は18時半、最後にきちざが19時頃に到着しました。

いつもながら、宴会は大いに盛り上がっており、その勢いは我々だけには留まらず、ここへ導いてきた店員をも巻き込んで、この子にお代官様の陣笠をかぶり、殿のダンダラ法被と番傘を備えて写真を撮ったりしていました。
当の本人も大感激で「来年は応募して隊士として参加する」って言ってました。これはこれは...

大盛り上がりの中、宴会は終電の時間が気になる22時ごろまで、足掛け最長5時間盛り上がっていました。

休日のこの時間ということもあってか、立川から自宅最寄駅まで全部各駅停車だったのがちとしんどかったですが、翌日はなんとか普通に起きて、居眠りする事無く仕事していました。

また来年...いけるかな?!
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佐倉時代まつり (正体や如何に?!)

2005年05月01日 | 観祭記
今年で7回目を迎えたこの祭。
昨年は、勇将,左馬之助殿が参陣し、また謙信公祭で“御屋形様”を務めた克殿と驚嘆の清正鎧を着甲した虎之助殿との出会いも有って大変楽しめ大満足だったのですが、今年もまた左馬之助殿,克殿,虎之助殿が馳せ参じ、更には自前甲冑を手に入れたマコ殿も着甲始めとして佐倉を選び、此度武蔵の外れから^^;馳せ参じました。

マコ殿とは京成勝田台駅南口にて10時頃待ち合わせて、私の車で、陣所である旧堀田邸佐倉厚生園)へ向いました。
あと一歩で陣所...のところの登坂で、政宗甲冑の兵と黄金に輝く黒田長政甲冑の兵に遭遇。これは、紛れも無く左馬之助殿と・・・虎之助殿でした。
左馬之助殿の着装はもう見慣れたものでしたが、虎之助殿のそれは実に見事で威圧感があり、また今年も感嘆してしまいました。。。けど、着始めたばかりなのに、既にきらりと額から汗を視認したときには、頭が下がる思いです...。

マコ殿を陣所前に降ろし、ここから少し離れた印旛支庁駐車場に車を停めてから再び陣所へ。
時刻は既に11時頃だったので、着替所である体育館をのぞいて見ると、あちらこちらで身支度が行われていました。が、その中に1人、見慣れた方が甲冑を着装しているのを、私は見逃しませんでした。そのお方とは、誰あろう,上杉殿です。
確か・・・石和で佐倉参陣の有無をお尋ねしたとき、「米沢の上杉祭が控えているので苦しい」...と仰っていたのですが、聞けばこの日は「見学に来ただけ」とのこと...って、どっからどう見ても、参加者以外の何者でも無い!かと思うほど、他の参陣者にも劣らない装いでしたけど、、、。

準備完了の上杉殿と庭園に出てみると、そこは参加者でごった返していました。
昨年に引き続き、今年も参陣はしていませんが、昨夏手に入れたデジカメにて参陣されている方々の専属カメラマンの如く撮影しまくっていました。そんな折、艶やかな姫装束の御二人が、自分のケータイにその姿を撮影したいのに出来ない...と途方に暮れた様子をみかけたので、私が「お撮りしましょう。」とお声掛けしてそれぞれのケータイを預かって撮影しました。・・が、この時、この御二人は単なる一般参加者だと思っていたのですが、実はこの2人,大変なお方だったのです。それは...
我が街佐倉出身の著名人といえば、ついこの間までは真っ先に“長嶋茂雄”と出てくるところですが、いまは...“小出義雄”と出てくるのでは。
五輪メダリストを育てたアスリート達のカリスマ的“師”は、我が街佐倉出身で、地元県立佐倉高校にて教鞭をとり、ここの地をこよなく愛し、社会人チームの監督になってもここを拠点。
いまは独立し、佐倉アスリート倶楽部(佐倉AC)の代表である師が、今年はゲストとして祭に初参加し、“殿様”役に就いておられました。まっ、見た目は髭と恰幅が良い所為か、川合伸旺に負けず劣らず悪代官!って感じでしたが。
そんな小出殿様が、佐倉ACからお供を2人(選手)引き連れて来ていました。
そのお2人とは...第77回関東陸上競技選手権大会,1500M優勝の大場美穂選手と、平成15年日本ジュニア陸上,800M優勝者である鈴木紗穂選手・・・って、さっき私がケータイで撮って差し上げたお2人だったのです。道理で...多くの人が集まり、写真をせがまれていましたから。でも、とてもきれいで艶やかでした。え?!特にどちらがって...(以下自粛
その後、左馬之助殿や虎之助殿,克殿と小出殿・鈴木,大場両選手とを挟んで写真を撮ったり、またお2人のケータイを預かって撮影をしたりしました。
ご両名とも、先の恩を覚えておられました...感動。けど、サインを貰い損ねた!


これらの最中...
陣所前に降ろしたマコ殿が、自前甲冑を着装して登場。
先に述べたとおり、石和前に手に入れた甲冑の着甲始めはこの佐倉でしたが、それはまた見事なもの!黒基調に紺の縅、前立は利剣,格好よかった。左馬之助殿からの「赤を入れてみては」というアドバイスなども受けていたようで、今後の発展と活躍に注視です。
また、此度はこの佐倉に現在都内にて研修中で、手作り甲冑の山内兵馬殿,すれ違いばかりでお話は出来ませんでしたが、遠方越前から真下昌景殿も馳せ駆けつけて居られました。ありがたいことで...。

昼過ぎに一同会し、小出殿様,御付の姫子御二方以下諸役関係者紹介後、“佐倉藩鉄砲隊”の号砲一過、いよいよ旧堀田邸を出立しました。
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佐倉時代まつり ((いざ!出立))

2005年05月01日 | 観祭記
行列は祭旗を先頭に、小出殿様は馬にて行軍,その後ろに“見通”,堀田侯と姫君,鈴木姫と大場姫と侍女衆,今年のテーマ「佐倉の先覚者」にちなんだ堀田正睦侯や順天堂大学の前身,佐倉順天堂創始者の佐藤泰然などに帝国陸軍が続き、そして大将役,大鎧を着装した克殿を先頭に鎧武者たちが旧堀田邸正門より出でて来ました。
克殿の次には、歴戦の兵,左馬之助殿と虎之助殿,その次は・・・?!自前甲冑を着装して“見学”を目論んでいた上杉殿、ツバメの前立を備えて登場です!やはり行列に加わりましたか...その次には、山内殿が赤の手作り甲冑にて、その後ろには紺縅に利剣前立のマコ殿が、その次には赤の甲冑衆が続いて正門より出立いたしました。
ちなみに、、、この次には佐倉藩鉄砲隊,姫衆,“近藤局長率いる新選組とその宿敵、朝廷軍が錦旗を翻して行軍し、更には監視役の?!公家衆,説法目的の?!虚無僧,手作り甲冑衆,七福神様、それにまた艶やかで見惚れてしまう踊子衆や鳶衆が続いて行きました。先頭から最後まで、結構な長さです。
私は、小出殿様のご出陣から鉄砲隊出立まで見届けてから甲冑衆の元へ行き、以後記録方として追従していました。
行軍途中、後方の新選組と官軍が“激突”と、翌週に控えた「ひの新選組祭」の宣伝を局長自ら行ったりして観客を沸かせていましたが、私が追従した甲冑武者衆も大将役・克殿のここだけの話、カミカミ(笑)の号令の下、抜刀して勝鬨を上げては等しく観客を沸かせていましたが、それでは飽き足らずか、左馬之助殿が沿道の人に襲い掛かったり、記念撮影に気軽に応じて更に沸かせていました。
更に進軍し、疎らだった蘭学通りの見物人も十重二十重となり、進軍もまま成らなくなったところで、これらを蹴散らすべく克殿の指揮の下,備えの大砲2門を街中にて撃ち放ち、祭の盛り上がりを更にアシストしていました。
市立佐倉図書館市立美術館前から、沿道に集まった観客の為にまま成らなくなった進軍も、なんとか折り返し地・新町交差点から再び元来た道を戻り、特設会場である市立美術館駐車場へ入場。
ここで、戦国期から続く佐倉堀田家秘伝の武術,立見流一門や佐倉藩鉄砲隊の演武、新選組と官軍との激戦で有名な“鳥羽伏見の戦い”を行ったりして、大いに盛り上がり、最後のほろ酔い(?!)小出殿様から御言葉と三三七拍子をもって祭を閉めました。
今年は、去年より気候も穏やかで天気も持ち堪え、最後のデジカメの電池切れさえなければ、大変楽しく大収穫の祭でした。

此度も馳せ参じられて大将役を務められた克殿や勇将左馬之助殿,虎之助殿,上杉殿,山内殿,真下殿、そして着甲始めだったマコ殿へは、この場を借りましてお疲れ様でした。また機会あれば、来年も。
ちなみに、この後左馬之助殿と上杉殿、山内殿とは羽州米沢上杉まつりにて、マコ殿とは日野の新選組祭にてそれぞれお会いしいたしました。またすれ違いでお話が出来なかった真下殿は、観客25万人!と滝沢“義経”を動員した平泉へ、克殿は下関の源平合戦(平知盛役)に参陣すべく、それぞれ向かわれました。

皆様方が次に一同に会されるのは、やはり今夏の上越でしょうか。
その折は、私も参陣いたす(予定)ので宜しくお願いいたします。

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佐倉時代まつり (((その余韻)))

2005年05月01日 | 観祭記
祭終了後は一同バラバラで旧堀田邸に戻り、門前や邸内で記念撮影に興じた後に散会しました。
この後、来た道とは違って邸裏手の斜面より駐車場へ、左馬之助殿と向かい、昼食摂らずにいたので休息。
武装を解いたマコ殿や克殿、飛入り参加の上杉殿を乗せて、マコ殿を乗せてきただけで大会関係者を装い駐車した印旛支庁を後にして、一路船橋駅へ向かいました。
日曜の夕方ということもあってか、船橋に近づく毎に交通量が多くなり、京葉道,千葉街道では見事に渋滞に嵌ってしまいましたが、何とか迂回路を使って脱出し、まずはマコ殿と上杉殿を船橋駅までお送りいたしました。
その道中、1時間ほどでしたが、とても濃く面白い話が出来ました。

克殿はこの後、東葛のご自宅近くまでお送りすべく、ナビをセットして向かいましたが、交通量増に伴うか、中々目的地へ進まず、何せ不慣れな道、しかも夜だったので迂回路も分からずにイライラ(ストレス)が募り、途中気分が悪くなる始末。。。
渋滞も、なんとか鎌ケ谷を抜けてから解消されてスムーズに進み、克殿を何とか無事にお送り申し上げることできました。
ここから家までは、国道16号線を南下するだけなのですが、一応ナビを自宅までセットし帰路につきました。
途中渋滞で、遅々として進まなかった鬱憤からか、16号ではそれなりに速度を上げて、ナビの当初の到着予想時間を10分以上上回る、30分程度にて家に着きました。
よく走るこの道で、この時間は、、、我がなら「粗い運転...かな。」とちと反省しました。。。
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