郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

関ケ原前夜 黒田官兵衛と長政の動き①

2020-05-10 09:21:54 | 城跡巡り
【閲覧数】6,145(2013.114.4~2019.10.31)



九州の関ヶ原  ~如水九州制覇をめざす~ 
 

関ヶ原前夜
 
 慶長3年(1598)8月天下人豊臣秀吉が没した。次期政権をめぐって、徳川家康を中心とする東軍と石田三成を中心とした西軍に分かれ決戦の動きが活発化していた。
 慶長4年(1599)1月如水と息子長政は朝鮮より引き上げたあと、京都伏見にいた。その後、如水は長政と別れて豊前中津城に戻った。長政は、6月上杉討伐の家康軍に参加した。
 
※黒田官兵衛は、朝鮮の出兵での二度の無断帰国を秀吉に叱責され、剃髪して「如水円清」と号した。よって、九州での動きは黒田官兵衛孝高の表記を如水に統一します。
 


如水の九州制圧の戦い
 
 中津城のにいた如水に、兵乱勃発の一報が入った。天下が乱れることを早くから予測していた如水はかねてよりの作戦を実行した。それは九州のほとんどの諸大名が西軍につくなか、その主力のいない留守城を一掃することだった。

 慶長5年(1,600)9月9日如水はにわかに備蓄の米と銭を放出して浪人などの多くの兵を集め軍備を整えると、豊前を南下し豊後の西軍の諸城を次々と攻略していった。
 



▲黒田軍(先発隊と主力部隊)の経路と石垣原(いしがきばる)
 

 
中津城からの黒田軍の行軍ルート
 
 高森城 東軍  城主黒田利高は如水の弟。兄より1万石分与され城主となった。

 豊後高田城 西軍から東軍へ 城主竹中重利は竹中半兵衛重治とは従兄弟。家臣を西軍に派遣していたが、如水に説得され東軍についた。

 富来(とみく)城 西軍 元は大友氏家臣富来氏の城であったが、大友氏の没落で垣見氏の居城となる。垣見家純の家臣垣見理右衛門がよく守ったが、説得により開城した。

 安岐(あき)城 西軍 元は大友氏の一族田原氏の居城であった。熊谷直盛(石田三成の妹婿)は朝鮮出兵で失敗し一旦所領を失っていたが関ヶ原の戦いの時、旧領安岐に復帰し、叔父の熊谷外記を城代として守らせた。10日間籠城するも、開城した。

 木付城(杵築城) 東軍 元は木付氏の居城。島津氏の大軍による攻撃も耐えた。大友氏の失態で自刃。そのあと2代城主がかわり、慶長4年(1599年)家康の推挙により丹後宮津城主細川忠興の所領(飛地)となり、重臣の松井康之・有吉立行を城代として置く。木付(きつき)の地名は江戸中期に杵築と改称された。
 
     
 
大友義統(よしむね)の軍と激突
 
 黒田軍の行く手に立ちはだかったのが、大友義統だった。義統は名門大友宗麟の息子で朝鮮の出兵の失敗(敵前逃亡)で秀吉に豊後6万石を改易され、流浪の身であったが、秀吉の死後毛利の後押しもあり西軍につき、旧臣を集めて豊後に侵攻したのだ。そして細川氏の家老松井、有吉が守る木付(杵築)城を攻めたて追い詰めたが、如水軍が応援に駆けつけたため、引き上げて別府湾近くの立石村に本陣を張った。
 
 
石垣原の戦い  豊後国速見 郡石垣原(大分県別府市) 

九州の関ヶ原 ~黒田・細川連合軍と大友軍が対峙~
 

別府の開発前の石垣原一帯
▲昭和14年(1939)の航空写真(国土交通省)

上部の丸い黒い部分が実相寺山、中央に横断する白い線が境川。その実相寺山と境川の間で戦闘があった。※右下の楕円形は競馬場(現在総合運動場)
 




▲合戦図部分 元禄7年(1694年) 国立国会図書館蔵
 ※東(右)は別府湾
 


 かくして慶長5年(1,600)9月13日如水軍と細川軍の連合軍は実相寺山と角殿山(かくどのやま)に布陣した。別府湾を望む石垣原(別名鶴見原)の南に大友軍、北に黒田・細川連合軍が本陣を置き両者相対峙した。あたりは湯煙の立ち込める広い荒地であった。この場所で九州の関ヶ原ともいわれる一大決戦が白昼から始まった。
 
 はじめ黒田軍は久野次左衛門・曾我部五右衛門の武将が討たれ劣勢であったが、黒田軍の井上之房と野村右衛門が吉弘統幸(よしひろむねゆき)と宗像鎮続(むなかたしげつぐ)を討ち大勢を決した。大友義統は両翼の要の大将を失ったため、黒田軍に投降した。義統は中津城を経て江戸に送られ、家康により出羽秋田に幽閉された。
 
  如水は石垣原の戦いで勝利を収めるや、再び国東半島の安岐城、富来城を攻撃、毛利高政の居城玖珠(くす)郡角牟礼(つのむれ)城、日田郡隈(くま)城と次々と攻略し、さらに筑後の久留米城をも開城させた、
  東軍の熊本城主加藤清正は、小西行長の宇土城を開城させたあと、如水軍とともに立花宗茂の柳川城を取り巻き攻略。これでいよいよ九州の最後の敵が薩摩の島津氏のみとなった。
 
 慶長5年11月12日島津攻めを開始しようとしたやさきに、家康より停止命令が届き、それぞれ本国に引き上げ、東軍の九州の戦は終わった。関ヶ原の戦いから既に2ヶ月を経ていた。
 
 
        
   ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
 
 

如水の挙兵に思う
 

 そもそも如水はなぜ挙兵という独自の行動を起こしたのか。
豊後への怒涛の動きは、関ヶ原の動きと呼応したものだったが、大友氏の旧領回復の動きと時を同じくし、石垣原の戦いで大友氏を倒したあとは、肥後の加藤清正と連合して、島津氏を討ち取れば九州全土が手中にできるあと一歩に迫っていた。
 その如水の九州西軍掃滅の行動は家康にどう評価されたのだろう。

 
如水の行動は評価されなかった!?
 
 関ヶ原の戦いがあまりにも早く決着したために、如水の計画が狂った。先見性に長けた如水も天下分け目の関ヶ原の戦いが東軍家康の圧勝となることは予測していなかった。皮肉にも息子長政が関ヶ原の勝利に大きく貢献したことも、如水のスケジュールに狂いを与えたといえなくはない。しかし息子長政は戦後の論考行賞で高く評価され52万3千石(12万石から40万石加増)の所領を与えられた。

 同じ九州で東軍につき如水と連携をとった熊本城主加藤清正は、周辺の西軍の城を押さえ、関ヶ原の恩賞で肥後52万石(25万石から27万石加増)を得た。清正が関ヶ原の戦いに参加しなかったのは、家康の指示で、肥後と筑前は切り取り次第の約束があった。しかし如水の行動は家康に許されてはいたものの九州豊後・筑前等の制圧の功績は評価外となったと考えられる。
 

九州で有終の美を飾ろうとした!?
 
 関ヶ原の戦いの2年前の慶長3年(1598)9月中津の如水へ懇意にしていた毛利輝元の家老※吉川広家から秀吉逝去の知らせがあった。その返書に「上様に対する悪い評判があり、このようなときには戦が起きるでしょう。すぐにではないとしても、その時にそなえ覚悟をめされてください」とさらに慶長5年10月広家に宛てた手紙※に「関ヶ原の戦いがもう1か月も続いていれば、中国地方にも攻め込んで、華々しい戦いをするつもりであったが、家康勝利が早々と確定したため何もできなかった。」とある。もうひとつ如水が関ヶ原の戦いの結果を知らない9月16日(関ヶ原合戦は9月15日)に家康の側近藤堂高虎に書状を送り如水と加藤清正が自力で切り取った西軍領を拝領できるよう家康に取り成しを依頼している。 

 以上のことからしても、九州制圧、さらに中国制圧への思いは、家康からの最大の評価を得るためともいえるが、その前に戦国武将としての人生最後の華々しい一戦で有終の美を飾ろうとしたと言えないだろうか。
 

戦いに明け暮れた人生に幕
 
 関ヶ原の戦いの4年後の慶長9年(1604)3月戦いに明け暮れた如水は京都伏見で静かに人生の幕を降ろした。享年59歳。自らの死期も予言したとおりとなったという。
 



 ▲関ヶ原の戦いの前の勢力図と関係諸城


 
参考 「日本城郭大系」「県史 大分県の歴史」「新説九州の関ヶ原」「角川日本地名辞典」他
 
 
 
追記 2014.11.8
 

 如水円清自筆書状から見えてきたもの
 

 黒田如水円清が慶長5年(1600)10月4日吉川広家に出した書状(返書)がある。
この個条書きした五つめに「関ヶ原の戦いがもう1か月も続いていれば、中国地方にも攻め込んで、華々しい戦いをするつもりであった」とあり、この一文が、官兵衛が内心天下取りの野望を抱いていたという俗説の根拠になったようだ。注目すべきは、その次六つめには、九州の諸城を落としていったことは逐次家康に報告し、支持を受けていたことを表していることがわかった。

 つまり如水の九州の挙動は単独の行動、事後承諾ではなかったといいえる。関ヶ原の恩賞に対して家康の判断基準は黒田家に対するものとすれば、如水に対する評価がなかったとはいえないのではとの思いに到った。如水の九州の行動特に毛利の後押しによる大友義統を撃退したのはむしろ、総合判断にプラスになったのかも知れない。
 


 
▲ 如水円清自筆書状 山口・吉川資料館蔵



【関連】
周防 岩国城をゆく

➡関ケ原前夜 黒田官兵衛と長政の動き①

城郭一覧アドレ

石見 津和野城をゆく

2020-05-10 06:48:33 | 名城をゆく
(2019.3.26~201910.31)
  



    かねてより楽しみにしていた西の小京都津和野にやってきた。津和野は山口との県境近くにあり、山口中心部からバイパスと山陰道の9号線で約1時間ほどで行ける。峠から津和野城と町並みが見え、その姿は兵庫県朝来市の竹田城跡とよく似ていると思った。
 


 
 
▲津和野城跡の全景(東の峠から)   (国指定史跡)
          



▲ズーム
 

 
▲太鼓丸城門に向かって 
  

           

▲太鼓丸の石垣
 



▲太鼓丸の南端から二の丸の南方面
 




▲人質郭跡と青野山




 リフトを使わず歩いて探索をする。津和野城の最上部太鼓丸の広い高台からの展望がすばらしく、北東に秀峰青野山、眼下に津和野川沿いの城下が見通しできる。
 
 

▲太鼓丸からの大パノラマ 





津和野城跡のこと  島根県鹿足(かのあし)郡津和野町後田


    津和野城跡は津和野町の西の城山山脈の南端標高367m(比高200m)の山上に築かれている。
鎌倉幕府は2度の元軍の来襲(元寇)により、九州及び中国・四国の沿岸防御のため、吉見頼行を西石見に派遣させたと伝わっている。

 弘安5年(1282)能登より入部した頼行は石見国吉賀(よしか)郡の地頭となり、勢力を拡張し、益田氏と石見国を二分する国人に成長した。
 永仁3年(1295)~正中元年(1324)の間、頼行・頼直父子は津和野に一本松城(後の三本松城)を築き、西麓の喜時雨(きじゅう)を大手口とし居館を置いた。

    吉見政頼が在城のとき、大内氏の家臣※陶晴賢(すえはるかた)と益田藤兼(ますだ ふじかね)と争っている。そのとき城の防備として竪堀などが多く築造されたようである。戦いの結果は政頼が5ヶ月間よく城を守りぬき、和議を結んでいる。この後吉見氏は毛利氏(元就・隆元)に仕えたが、益田氏との所領紛争は続いている。関ヶ原の戦いの後、萩に移り所領も与えられたが主君毛利氏に不穏な動きを見せたため所領を没収され逼塞(ひっそく)した。

※陶晴賢:天文20年(1551)大内義隆の家臣で、主君をクーデターで倒し実権を掌握した。陶氏は三本松城攻撃中の隙をつかれ、毛利氏に安芸・備後の諸城が侵されることになった。この後弘治元年(1555)晴賢は毛利元就と厳島の決戦で大敗している。
 参考:『日本城郭大系』『角川地名辞典』他 


 

▲津和野城図 (江戸中期~後期) 国立国会図書館蔵



 慶長6年(1601)関ヶ原の戦いで東軍で功績をあげた坂崎直盛(元宇喜多姓)が入城し、城下町の建設、城郭の大改修を行なっている。このとき大手口を喜時雨から東山麓の津和野村側に切替えている。

 元和3年(1617)因幡鹿野より亀井政矩(まさのり) が入部し、亀井氏は殿町にあった居館を城の麓に移し、藩邸として整備した。また外堀をひき今に残る城下町の原型を築いた。亀井家は11代にわたって幕末までつとめ廃藩に至った。津和野城は明治7年に民間に払い下げられ惜しまれながら解体されたという。
 


 
 
▲リフト乗り場の上部の登山口   ▲途中リフトの下を抜ける 



 
▲出丸(織部丸)  (ここまで歩いて25分) 
    



▲出丸の石垣 
                 


 
▲本丸に向かう石段                                                                                ▲左の長い石塁に圧倒される                                                



  
▲天守台跡から西(馬立・台所跡)を望む 
 


▲天守台跡から西御門跡を見下ろす
 


 
▲大手登山口の案内板が右端にある                           ▲大手登山口 
 




雑 感

 津和野城域は中世からの砦等を含めるとかなり広範囲になる。砦や竪堀・堀切が尾根筋から枝状に数多く残っている。さらに喜時雨の旧大手口も時間の制約上、見ることができなかったのが残念だった。

 城下に養老館が残っている。これは天明6年(1785)に建てられた藩校で闇斎学・山崎闇斎(1619-1682)を学んだ山口剛斎(1734-1801)が招かれている。以後養老館で明治始めまでに多くの人材を輩出している。山崎闇斎の教えが幕末の尊王攘夷思想に大きな影響を与えたことがわかった。


 昭和51年(1976)の航空写真を見ると町の南にあるみごとな棚田が目を見張った。そのいきさつが津和野藩の概要でわかった。藩は財政強化ため新田開発や産業開発をすすめ、山林・原野を開拓し畑や新田を増やしたときのものだ。その推進者が家老多胡主水(もんど)(真武、真益、真陰)の3兄弟で、主水の名にちなんで「主水畑」と呼ばれている。


 ▼津和野町中座の棚田の変遷 昭和51年の航空写真(国土交通省)と現代            by Google Earth


※棚田は江戸時代に新田開発として山林・原野に造られた。現在ほとんどが圃場整備されている。

・青野山の北山麓にある大井谷 の棚田が日本の棚田百選に選ばれている。



 

【関連】
・因幡鹿野城


但馬 宮本高城跡

2020-05-09 10:36:21 | 城跡巡り
【閲覧数】1,321(2016.6.30~2019.10.31)


                                   
 
宮本城砦群の中心的役割のあったと考えられる宮本高城跡を紹介します。
 



▲大屋町南部の俯瞰    by Google Earth


 

▲宮本城砦群図 上部が宮本高城

 


宮本高城跡  養父市大屋町宮本字高取・ヨットチ
 
 宮本集落北部、宮本川の右岸の丘陵尾根及び頂部に位置する。標高310m、比高190m地点に主郭(約9m×25m)があり、背後に二重の堀切・竪堀を有する。さらに主郭から300m程上部の山頂部に自然地形に近い削平地があり、南側の尾根筋に2筋の大規模な竪堀(約5m×34~37m)が築かれている。

 城主は不明である。この宮本高城跡の南部には尾根筋が3つに分かれ各々の先端部に城跡が残されている。西から東にかけて高取城、城ケ腰城と御井神社がある。御井神社の本殿の上部には横堀(幅3.5m、深さ0.5m)を有した直径約30mの円形の遺構が残されている。御井神社は天文15年(1546)4月8日、北東2kmの御祓山(773.1m)の中腹から現在地へ遷されたとある(伝承では、天文以前より移転されていたとも)。いずれにしても神社一帯が城域であった可能性が高い。

 大屋庄の南部、播磨(一宮町)と但馬の国境に通じる明延方面の街道と宮本川上流で養父の建屋方面の街道を押さえていたと考えられる。   ※参考:「大屋町史」
  


大屋の城攻め ~安積盛兼軍忠状から~
 
 播磨守護赤松則祐(赤松円心三男、赤松惣領家2代)の配下であった安積盛兼が大屋に攻め入り主君赤松則祐より軍忠状を受けた記録がある。
 これによると南北朝時代の文和3年(1354)に宍粟郡一宮町を地盤とする安積盛兼が、赤松南朝方の石堂頼房方の湯浅等と戦い大屋庄の城を攻め、在家を焼き払ったとある。

 この大屋の城が宮本地区にある城砦群ではないかと考えられている。その理由はこの城が最も国境に近く、大屋庄の南玄関口を守る攻守に富んだ城郭群であるからである。
 

 
▲安積盛兼軍忠案  「兵庫県史 資料編第三巻」
 
 

 

アクセス
 
 宮本高城跡は宮本城砦群中の最も高い位置にあります。これまでに高取城、城ケ腰城そして、今回の宮本高城と紹介してきましたが、実はこの順番で登城はしていません。

 宮本の御井(みい)神社に立ち寄った時に神社の上の曲輪跡を探って、城砦の位置関係を知ったのが最初で、日を改めて残りの城ケ腰城、宮本高城、高取城の三城を一度に探索しました。

 宮本高城へは御井神社のすぐ上にある曲輪跡からも行けるのですが、同じ場所を避けて城ケ腰城の背後から登城しました。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 

 
城ケ腰跡の背後の尾根筋を登っていくと上部に二段の曲輪跡が見え始める。
 



 
▲城ケ腰城跡の背後の尾根
  
 

 
▲最初の曲輪跡                            



▲堀切
 
 

最初の曲輪の先にはもう一つの堀切がある。その上が主郭である。
 
 


▲主郭の手前                      



▲主郭       
 
 

主郭の背後の堀切につづく尾根筋を登ること約20分。途中にかなりの傾斜地に大規模な二筋の竪堀を見つける
  
 

 
▲主郭後方の堀切                      




▲大きな二筋の竪堀
 
 

 さらに登っていくと平たん地が現れる。その上が丘陵山頂の曲輪跡だ。自然地形に近い楕円形の曲輪跡だ。展望は聞かないが、東につづく尾根から南の山並みが見える。
 

 
▲最初の曲輪跡                              ▲自然地形に近い曲輪跡
 


 
▲山頂から東にのびる尾根                         ▲その尾根から南を望む
 
 
 
御井神社と曲輪跡
 




▲中央山頂に曲輪跡がある
 
 

 
▲参道入り口の鳥居                                   ▲本殿
  


▲本殿前の境内の右から登る                             ▲円形状の曲輪に帯曲輪跡がある
  

  
▲上部には石が並んでいる(祭壇の跡か)                        ▲尾根上部の堀切        
 
 
 

 
雑 感
 
 宮本城砦群を全体を観ると、宮本高城が3城の背後の指令塔であって山麓の二つの主要街道を押さえていたように思う。

 ただ、一つ気になることがある。それは宮本高城の100m上方の二筋の大規模な竪堀である。ふつう竪堀は横の移動を阻止するためだが、北西方向はその必要がなさそうな勾配があるにもかかわらずである。これは北西上部からの侵入を警戒したことによるのだろう。
 
 今回の収穫は、南北朝期に播磨宍粟一宮の安積氏が但馬大屋へ攻め入った史料が残されていることがわかったこと。また、大屋庄・三方庄内に数多くの城跡が残されたのは、但馬内部でも南朝方、北朝方に分かれ敵味方と争ったことによるものと考えられるのである。




城郭一覧アドレス  




豊後 岡城をゆく

2020-05-09 09:15:45 | 名城をゆく
(2019.3.30~2019.10.31)
 



 大分の中津市から岡城跡のある竹田(たけた)市に向かった。大分自動車道を走り、100km余りの道のりで2時間程かかった。竹田市は周辺が1,000m級の山々に囲まれた盆地にある。やたら岩穴のようなトンネルが多くて、誰が名づけたかレンコン町との異名がある。

 この竹田市は住みたい田舎の全国ランキング第3位(2014年)だとか。その理由は岡城跡と城下の古い町並みを歩いて知ることになった。
 
 

 

▲三の丸の高石垣   (国史跡)  

 

  
▲三の丸の高石垣  東方面から  
      


▲東に伸びる石垣
 



▲くじゅう連山  城跡から北東部を望む




 
▲豊後と岡城跡の位置

                        

 
▲市内には短いトンネルが多い




岡城跡のこと  大分県竹田市大字竹田字岡

 岡城は大野川の支流稲葉川と白滝川が合流する間の台地(325m、比高95m)に築かれた。

 伝承では、文治元年(1185年)に緒方惟栄(これよし)が源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したことが始まりであるという。

  元徳3年(1331)大友氏の支族志賀貞朝(さだとも)が志賀城(朝地町)からこの城に移り、城を拡張している。この頃の岡城は現在の搦手の下原(しもばる)門が大手で、山麓の挟田(はさだ)・十川(そうがわ)の村落が城下町であった。

 天正14年(1586)12月嶋津義弘が大軍を率いて大友氏の豊後に攻め入った。大友方の諸城が次々と落とされてゆくなか、志賀親次(ちかつぐ)は岡城への再三の攻撃をよく食い止め、撃退した。翌年天正15年1月3日志賀氏はその功績により秀吉から感状を受けている。

 しかし、文禄2年(1593)の朝鮮の役で失敗を犯した主君大友義統(よしむね)が領地を没収されたため、志賀親次はやむなく城を去った。
 
 このあと岡城には文禄3年(1594)播磨三木城から中川秀成(ひでしげ)が入り、大規模な改修を開始した。志賀氏時代の大手門を搦手とし、西方に大手門を設けた。城下町は志賀氏時代の挟田・十川に加えて西方に竹田町が整備された。
 




▲岡城古城絵図 江戸中-後期(国会図書館蔵) 
 




 ▲豊後岡城全景 古写真明治初年 



        
▲豊後国岡城之図 案内板より



 阿蘇の溶岩台地の上に築かれたため、台風や地震、火事などの被害を多く受け、明和8年(1771)には本丸、西ノ丸など城の大半を焼く大火が起きている。

 明治維新後、廃城令に従って明治4年(1871年)から翌年にかけて城内の建造物は全て破却され、残されたものは高く積み上げられた石垣のみとなった。
 
 「荒城の月」の作曲者として知られる瀧廉太郎(1879~1903) は少年期を竹田で過ごしており、この岡城にて曲のイメージを得たといわれている。
 


 
    
 ▲大手道の石垣               
 
 
▲上部が丸く加工された石塀             ▲上から振り返ると相当の勾配



 
▲大手門跡を上から見る  
 



▲平成11年模擬復元大手門(現在撤去、説明板より)
 


  
▲広い石階段の上には西の丸御殿跡がある 
 



▲西の丸御殿の東には家老屋敷が続く             
 


 
▲貫木御門跡   
 

▲この見事な高石垣は、桜の時期は絵になるだろう  
 
 
 
▲太鼓櫓跡      
 



▲下原門跡(搦手)


岡城案内マップ







雑 感

岡城跡の印象
 
  岡城跡は事前に地図や写真で想像はしていたものの、いざ大手道から石段を進むと上部が丸く加工された石塀が延び、その先に見上げるほどの高石垣に圧倒された。撮影スポットの三の丸の高石垣を見つけ、その場所に立って初めて岡城跡にやってきたことを実感した。

                                                 

▲この場所は絶景



 この城跡は中世の山城から近世の城に造り変えられているのだが、意外にも眼下に城下が見えない。

 俗世間を離れた城は、悠久の連峰に囲まれ、朝夕の光と月夜そして四季折々の木々の彩りが織りなす別世界となって、歴代の城主はそれを楽しんだことだろう。

中川家の家紋図柄のこと
 


 竹田市立歴史資料館に入ると中川家の家宝が多く展示されていた。武具等に描かれている家紋を初めて見たとき、変わっているなと思っていた。あとで中川秀成を調べるうちに、秀成の父清秀とキリシタン大名の高山右近とは従兄弟であり、秀成も若くして洗礼を受けていたことを知った。中川家のいくつかの家紋の中に中川久留子(クルス)というのがあって、図柄に十字架をモチーフにしていることがわかった。(下の系図参照)



※参考「日本城郭大系」、「角川日本地名大辞典」、「戦国 武家家伝」他


◆城下の町並み

▲竹田創成館  武家屋敷の入口付近    
 



▲武家屋敷 (殿町)

 

 
▲町屋   
                    
 

   
▲滝廉太郎の像(二の丸) ▲滝廉太郎記念館 滝廉太郎はこの旧家で12才から14才まで過ごした。
 

 
 
竹田市カイド たけた城下町散歩  (案内板より)




【関連】
播磨 三木城跡

但馬 城ケ腰城跡

2020-05-08 09:55:06 | 城跡巡り
【閲覧数】1,857 (2016.6.23~2011.10.31)




宮本城砦群の中どころにある城ケ腰跡を紹介します。



 

 ▲宮本城砦群 大屋町史より
 
 




城ケ腰城跡  養父市大屋町宮本字城ケ腰 
 

 城ケ腰城跡は宮本川右岸に沿って北から南に張り出した尾根先端部(標高230m、比高40m)に位置する。城域は幅約50m長さ約150mあり、尾根筋上に築かれた単郭式の小規模な城跡である。

 主郭は幅約9m、長さ約47mあり、両端に堀切を持つが、最初の堀切は幅13m、深さ6~7mと深く、背後のものは幅7.3m、深さ4m。東側と背後に3つの竪堀を備えており尾根筋の守りと東側面の防備を固めていることがわかる。

 城主は不明。この城は南北朝期に築かれ戦国期に補強・改修されたと考えられている。この城の役割は宮本川上流の建屋につづく街道を押さえていたと考えられる。高取城とは谷を隔てて並びにあり、互いに連携をとりあっていたにちがいない。城ケ腰城と高取城の背後には宮本高城が控えている。
 
 


 
  アクセス
 
 
 



 宮本公民館から宮坂橋を渡って御井神社に向かうと神社の参道入口に鳥居がある。その対面の石垣の横の道が腰ケ城跡の登城口になる。
 


   
▲登城口                         ▲上からの写真                   
 
 


坂を上ると小さな青色のお堂がある。そのお堂の手前のやや急な杉林を登っていく。
 
 

 
 ▲よく見るとお堂(札所)                           ▲お堂手前の杉林に這い登る
 


 
 ▲上部                                 ▲最初の曲輪跡
 
 

 少し登るとこんもりとした曲輪跡に至る。そこからなだらかな尾根筋を50mほど歩くと堀切が現れる。かなりの深さだ。
 
 

 
 ▲先に堀切が見える                            ▲堀切
 


その堀切の上部が主郭である。
 
   
  
▲主郭から南西を見る                            ▲尾根が奥に延びる
 
 

奥行きのある主郭の背後にも堀切がある。
 



 
▲主郭背後の堀切(上部から)                          ▲堀切(堀切底から)     




▲主郭の背後 尾根がつづく
 
 


雑 感
 
 この城の比高はわずか40m。尾根の先端にたどり着けばあとは尾根を進むだけ。長くなだらかな尾根筋上に築かれた山城なので、堀切がなければ城跡だとまず気が付かないだろう。
 あとから思い起こそうとしても、木々が生い茂り薄暗くただ細い尾根の距離を感じただけで堀切以外は印象が薄かった。

 この城ケ腰城と並びの高取城は尾根先端の低い城、そのためこの2城を統括・補完する城「宮本高城」が背後に陣取っていることを後に知ることになる。

 
次回は、宮本城砦群のもっとも高い位置にある宮本高城を紹介します。

 
※参考:大屋町史


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