郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

但馬 宮本高城跡

2020-05-09 10:36:21 | 城跡巡り
【閲覧数】1,321(2016.6.30~2019.10.31)


                                   
 
宮本城砦群の中心的役割のあったと考えられる宮本高城跡を紹介します。
 



▲大屋町南部の俯瞰    by Google Earth


 

▲宮本城砦群図 上部が宮本高城

 


宮本高城跡  養父市大屋町宮本字高取・ヨットチ
 
 宮本集落北部、宮本川の右岸の丘陵尾根及び頂部に位置する。標高310m、比高190m地点に主郭(約9m×25m)があり、背後に二重の堀切・竪堀を有する。さらに主郭から300m程上部の山頂部に自然地形に近い削平地があり、南側の尾根筋に2筋の大規模な竪堀(約5m×34~37m)が築かれている。

 城主は不明である。この宮本高城跡の南部には尾根筋が3つに分かれ各々の先端部に城跡が残されている。西から東にかけて高取城、城ケ腰城と御井神社がある。御井神社の本殿の上部には横堀(幅3.5m、深さ0.5m)を有した直径約30mの円形の遺構が残されている。御井神社は天文15年(1546)4月8日、北東2kmの御祓山(773.1m)の中腹から現在地へ遷されたとある(伝承では、天文以前より移転されていたとも)。いずれにしても神社一帯が城域であった可能性が高い。

 大屋庄の南部、播磨(一宮町)と但馬の国境に通じる明延方面の街道と宮本川上流で養父の建屋方面の街道を押さえていたと考えられる。   ※参考:「大屋町史」
  


大屋の城攻め ~安積盛兼軍忠状から~
 
 播磨守護赤松則祐(赤松円心三男、赤松惣領家2代)の配下であった安積盛兼が大屋に攻め入り主君赤松則祐より軍忠状を受けた記録がある。
 これによると南北朝時代の文和3年(1354)に宍粟郡一宮町を地盤とする安積盛兼が、赤松南朝方の石堂頼房方の湯浅等と戦い大屋庄の城を攻め、在家を焼き払ったとある。

 この大屋の城が宮本地区にある城砦群ではないかと考えられている。その理由はこの城が最も国境に近く、大屋庄の南玄関口を守る攻守に富んだ城郭群であるからである。
 

 
▲安積盛兼軍忠案  「兵庫県史 資料編第三巻」
 
 

 

アクセス
 
 宮本高城跡は宮本城砦群中の最も高い位置にあります。これまでに高取城、城ケ腰城そして、今回の宮本高城と紹介してきましたが、実はこの順番で登城はしていません。

 宮本の御井(みい)神社に立ち寄った時に神社の上の曲輪跡を探って、城砦の位置関係を知ったのが最初で、日を改めて残りの城ケ腰城、宮本高城、高取城の三城を一度に探索しました。

 宮本高城へは御井神社のすぐ上にある曲輪跡からも行けるのですが、同じ場所を避けて城ケ腰城の背後から登城しました。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 

 
城ケ腰跡の背後の尾根筋を登っていくと上部に二段の曲輪跡が見え始める。
 



 
▲城ケ腰城跡の背後の尾根
  
 

 
▲最初の曲輪跡                            



▲堀切
 
 

最初の曲輪の先にはもう一つの堀切がある。その上が主郭である。
 
 


▲主郭の手前                      



▲主郭       
 
 

主郭の背後の堀切につづく尾根筋を登ること約20分。途中にかなりの傾斜地に大規模な二筋の竪堀を見つける
  
 

 
▲主郭後方の堀切                      




▲大きな二筋の竪堀
 
 

 さらに登っていくと平たん地が現れる。その上が丘陵山頂の曲輪跡だ。自然地形に近い楕円形の曲輪跡だ。展望は聞かないが、東につづく尾根から南の山並みが見える。
 

 
▲最初の曲輪跡                              ▲自然地形に近い曲輪跡
 


 
▲山頂から東にのびる尾根                         ▲その尾根から南を望む
 
 
 
御井神社と曲輪跡
 




▲中央山頂に曲輪跡がある
 
 

 
▲参道入り口の鳥居                                   ▲本殿
  


▲本殿前の境内の右から登る                             ▲円形状の曲輪に帯曲輪跡がある
  

  
▲上部には石が並んでいる(祭壇の跡か)                        ▲尾根上部の堀切        
 
 
 

 
雑 感
 
 宮本城砦群を全体を観ると、宮本高城が3城の背後の指令塔であって山麓の二つの主要街道を押さえていたように思う。

 ただ、一つ気になることがある。それは宮本高城の100m上方の二筋の大規模な竪堀である。ふつう竪堀は横の移動を阻止するためだが、北西方向はその必要がなさそうな勾配があるにもかかわらずである。これは北西上部からの侵入を警戒したことによるのだろう。
 
 今回の収穫は、南北朝期に播磨宍粟一宮の安積氏が但馬大屋へ攻め入った史料が残されていることがわかったこと。また、大屋庄・三方庄内に数多くの城跡が残されたのは、但馬内部でも南朝方、北朝方に分かれ敵味方と争ったことによるものと考えられるのである。




城郭一覧アドレス  




豊後 岡城をゆく

2020-05-09 09:15:45 | 名城をゆく
(2019.3.30~2019.10.31)
 



 大分の中津市から岡城跡のある竹田(たけた)市に向かった。大分自動車道を走り、100km余りの道のりで2時間程かかった。竹田市は周辺が1,000m級の山々に囲まれた盆地にある。やたら岩穴のようなトンネルが多くて、誰が名づけたかレンコン町との異名がある。

 この竹田市は住みたい田舎の全国ランキング第3位(2014年)だとか。その理由は岡城跡と城下の古い町並みを歩いて知ることになった。
 
 

 

▲三の丸の高石垣   (国史跡)  

 

  
▲三の丸の高石垣  東方面から  
      


▲東に伸びる石垣
 



▲くじゅう連山  城跡から北東部を望む




 
▲豊後と岡城跡の位置

                        

 
▲市内には短いトンネルが多い




岡城跡のこと  大分県竹田市大字竹田字岡

 岡城は大野川の支流稲葉川と白滝川が合流する間の台地(325m、比高95m)に築かれた。

 伝承では、文治元年(1185年)に緒方惟栄(これよし)が源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したことが始まりであるという。

  元徳3年(1331)大友氏の支族志賀貞朝(さだとも)が志賀城(朝地町)からこの城に移り、城を拡張している。この頃の岡城は現在の搦手の下原(しもばる)門が大手で、山麓の挟田(はさだ)・十川(そうがわ)の村落が城下町であった。

 天正14年(1586)12月嶋津義弘が大軍を率いて大友氏の豊後に攻め入った。大友方の諸城が次々と落とされてゆくなか、志賀親次(ちかつぐ)は岡城への再三の攻撃をよく食い止め、撃退した。翌年天正15年1月3日志賀氏はその功績により秀吉から感状を受けている。

 しかし、文禄2年(1593)の朝鮮の役で失敗を犯した主君大友義統(よしむね)が領地を没収されたため、志賀親次はやむなく城を去った。
 
 このあと岡城には文禄3年(1594)播磨三木城から中川秀成(ひでしげ)が入り、大規模な改修を開始した。志賀氏時代の大手門を搦手とし、西方に大手門を設けた。城下町は志賀氏時代の挟田・十川に加えて西方に竹田町が整備された。
 




▲岡城古城絵図 江戸中-後期(国会図書館蔵) 
 




 ▲豊後岡城全景 古写真明治初年 



        
▲豊後国岡城之図 案内板より



 阿蘇の溶岩台地の上に築かれたため、台風や地震、火事などの被害を多く受け、明和8年(1771)には本丸、西ノ丸など城の大半を焼く大火が起きている。

 明治維新後、廃城令に従って明治4年(1871年)から翌年にかけて城内の建造物は全て破却され、残されたものは高く積み上げられた石垣のみとなった。
 
 「荒城の月」の作曲者として知られる瀧廉太郎(1879~1903) は少年期を竹田で過ごしており、この岡城にて曲のイメージを得たといわれている。
 


 
    
 ▲大手道の石垣               
 
 
▲上部が丸く加工された石塀             ▲上から振り返ると相当の勾配



 
▲大手門跡を上から見る  
 



▲平成11年模擬復元大手門(現在撤去、説明板より)
 


  
▲広い石階段の上には西の丸御殿跡がある 
 



▲西の丸御殿の東には家老屋敷が続く             
 


 
▲貫木御門跡   
 

▲この見事な高石垣は、桜の時期は絵になるだろう  
 
 
 
▲太鼓櫓跡      
 



▲下原門跡(搦手)


岡城案内マップ







雑 感

岡城跡の印象
 
  岡城跡は事前に地図や写真で想像はしていたものの、いざ大手道から石段を進むと上部が丸く加工された石塀が延び、その先に見上げるほどの高石垣に圧倒された。撮影スポットの三の丸の高石垣を見つけ、その場所に立って初めて岡城跡にやってきたことを実感した。

                                                 

▲この場所は絶景



 この城跡は中世の山城から近世の城に造り変えられているのだが、意外にも眼下に城下が見えない。

 俗世間を離れた城は、悠久の連峰に囲まれ、朝夕の光と月夜そして四季折々の木々の彩りが織りなす別世界となって、歴代の城主はそれを楽しんだことだろう。

中川家の家紋図柄のこと
 


 竹田市立歴史資料館に入ると中川家の家宝が多く展示されていた。武具等に描かれている家紋を初めて見たとき、変わっているなと思っていた。あとで中川秀成を調べるうちに、秀成の父清秀とキリシタン大名の高山右近とは従兄弟であり、秀成も若くして洗礼を受けていたことを知った。中川家のいくつかの家紋の中に中川久留子(クルス)というのがあって、図柄に十字架をモチーフにしていることがわかった。(下の系図参照)



※参考「日本城郭大系」、「角川日本地名大辞典」、「戦国 武家家伝」他


◆城下の町並み

▲竹田創成館  武家屋敷の入口付近    
 



▲武家屋敷 (殿町)

 

 
▲町屋   
                    
 

   
▲滝廉太郎の像(二の丸) ▲滝廉太郎記念館 滝廉太郎はこの旧家で12才から14才まで過ごした。
 

 
 
竹田市カイド たけた城下町散歩  (案内板より)




【関連】
播磨 三木城跡