郷土の歴史と古城巡り

石見 津和野城をゆく

(2019.3.26~201910.31)
  



    かねてより楽しみにしていた西の小京都津和野にやってきた。津和野は山口との県境近くにあり、山口中心部からバイパスと山陰道の9号線で約1時間ほどで行ける。峠から津和野城と町並みが見え、その姿は兵庫県朝来市の竹田城跡とよく似ていると思った。
 


 
 
▲津和野城跡の全景(東の峠から)   (国指定史跡)
          



▲ズーム
 

 
▲太鼓丸城門に向かって 
  

           

▲太鼓丸の石垣
 



▲太鼓丸の南端から二の丸の南方面
 




▲人質郭跡と青野山




 リフトを使わず歩いて探索をする。津和野城の最上部太鼓丸の広い高台からの展望がすばらしく、北東に秀峰青野山、眼下に津和野川沿いの城下が見通しできる。
 
 

▲太鼓丸からの大パノラマ 





津和野城跡のこと  島根県鹿足(かのあし)郡津和野町後田


    津和野城跡は津和野町の西の城山山脈の南端標高367m(比高200m)の山上に築かれている。
鎌倉幕府は2度の元軍の来襲(元寇)により、九州及び中国・四国の沿岸防御のため、吉見頼行を西石見に派遣させたと伝わっている。

 弘安5年(1282)能登より入部した頼行は石見国吉賀(よしか)郡の地頭となり、勢力を拡張し、益田氏と石見国を二分する国人に成長した。
 永仁3年(1295)~正中元年(1324)の間、頼行・頼直父子は津和野に一本松城(後の三本松城)を築き、西麓の喜時雨(きじゅう)を大手口とし居館を置いた。

    吉見政頼が在城のとき、大内氏の家臣※陶晴賢(すえはるかた)と益田藤兼(ますだ ふじかね)と争っている。そのとき城の防備として竪堀などが多く築造されたようである。戦いの結果は政頼が5ヶ月間よく城を守りぬき、和議を結んでいる。この後吉見氏は毛利氏(元就・隆元)に仕えたが、益田氏との所領紛争は続いている。関ヶ原の戦いの後、萩に移り所領も与えられたが主君毛利氏に不穏な動きを見せたため所領を没収され逼塞(ひっそく)した。

※陶晴賢:天文20年(1551)大内義隆の家臣で、主君をクーデターで倒し実権を掌握した。陶氏は三本松城攻撃中の隙をつかれ、毛利氏に安芸・備後の諸城が侵されることになった。この後弘治元年(1555)晴賢は毛利元就と厳島の決戦で大敗している。
 参考:『日本城郭大系』『角川地名辞典』他 


 

▲津和野城図 (江戸中期~後期) 国立国会図書館蔵



 慶長6年(1601)関ヶ原の戦いで東軍で功績をあげた坂崎直盛(元宇喜多姓)が入城し、城下町の建設、城郭の大改修を行なっている。このとき大手口を喜時雨から東山麓の津和野村側に切替えている。

 元和3年(1617)因幡鹿野より亀井政矩(まさのり) が入部し、亀井氏は殿町にあった居館を城の麓に移し、藩邸として整備した。また外堀をひき今に残る城下町の原型を築いた。亀井家は11代にわたって幕末までつとめ廃藩に至った。津和野城は明治7年に民間に払い下げられ惜しまれながら解体されたという。
 


 
 
▲リフト乗り場の上部の登山口   ▲途中リフトの下を抜ける 



 
▲出丸(織部丸)  (ここまで歩いて25分) 
    



▲出丸の石垣 
                 


 
▲本丸に向かう石段                                                                                ▲左の長い石塁に圧倒される                                                



  
▲天守台跡から西(馬立・台所跡)を望む 
 


▲天守台跡から西御門跡を見下ろす
 


 
▲大手登山口の案内板が右端にある                           ▲大手登山口 
 




雑 感

 津和野城域は中世からの砦等を含めるとかなり広範囲になる。砦や竪堀・堀切が尾根筋から枝状に数多く残っている。さらに喜時雨の旧大手口も時間の制約上、見ることができなかったのが残念だった。

 城下に養老館が残っている。これは天明6年(1785)に建てられた藩校で闇斎学・山崎闇斎(1619-1682)を学んだ山口剛斎(1734-1801)が招かれている。以後養老館で明治始めまでに多くの人材を輩出している。山崎闇斎の教えが幕末の尊王攘夷思想に大きな影響を与えたことがわかった。


 昭和51年(1976)の航空写真を見ると町の南にあるみごとな棚田が目を見張った。そのいきさつが津和野藩の概要でわかった。藩は財政強化ため新田開発や産業開発をすすめ、山林・原野を開拓し畑や新田を増やしたときのものだ。その推進者が家老多胡主水(もんど)(真武、真益、真陰)の3兄弟で、主水の名にちなんで「主水畑」と呼ばれている。


 ▼津和野町中座の棚田の変遷 昭和51年の航空写真(国土交通省)と現代            by Google Earth


※棚田は江戸時代に新田開発として山林・原野に造られた。現在ほとんどが圃場整備されている。

・青野山の北山麓にある大井谷 の棚田が日本の棚田百選に選ばれている。



 

【関連】
・因幡鹿野城

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