郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

三石城跡と船坂峠

2020-05-12 16:01:08 | 城跡巡り
【閲覧数】5,325 (2016.2.13~2019.10.31)                                  

 


 三石城跡を大手道ルートで登城したいと思いつつも、数年経ち、今回やっと大手道からの登城で展望のよい見張り所や大きな井戸跡等を見ることができた。山ろくに延びる西国街道の数キロ東には船坂峠があり、そこにも立ち寄ってみた。
 
 
 


 ▲三石城跡の全景(南東から)
 
 


三石城大手道からの登城
 

 大手道から登るほどに広がる眼下は気持ちがよく、時より山ろくを走る電車の音に目をやる。ここ備前三石城は人工林が少なく、自然林が比較的低木なのでそれぞれの見張り所からの展望がよい。そのため築城当時の見張りの感覚で見ることができる。
 大手道の半ば、山肌に露出した岩場あたりは急斜面となる。第一見張り所から城山を見上げたとき林の中に石垣を見ることができた。

 谷筋を登り切ったところに大手門跡が待ち構えていた。三石城の最も味わい深い場所である。
 
 


 
 アクセス


▲城山マップ 



城下町筋に案内板がある。登り口はこの奥にある。階段を登る途中の民家に、三石城跡の説明書の栞(しおり)が用意されていた。




 

 
               

▲「三石城の栞 編集西川晃男氏」 より                 
 
 
 

途中右手奥に宝篋印塔が目に付いた。三石城の武将のものだろうか。
 


 


 
上部には第一見張り所まで右700mとある。左に第二見張り所がある。



 
  
 

 


第二見張り所に城址の説明板がある。ここからの展望は南一円に広がっている。
 
 
 

 










さらに登っていくと、岩場の狭い道がある。。
 


  
 


 
その近くに、「息つぎ井戸」という岩の縁に小さな水たまりがある。その先に「千貫井戸」の案内板がある。
 


 
▲これが「息継ぎの井戸」?

 

千貫井戸は横長2m、幅1m程あり今でも水をたたえている。篭城には貴重な水の手である。
 

 

▲千貫井戸



大手道から左に進むと、第一見張り所に到着。結構広い削平地になっている。ここからの眺めはいい。
 



 
 ▲第一見張り所 
 



 ▲第一見張り所からのパノラマ展望
 


元に戻ろうと振り返ると、山頂の木々の間に石垣を発見。前回見落としていた石垣だった。



 
▲第一見張り所から山頂を望む                   ▲木々の間に石垣が見えた(望遠)
 




▲三の丸下にある石垣 
 


次に間道本丸跡への案内に進み、谷筋に沿って上っていくと大手門跡だ。左側の石垣の隙間が目立ち何らかの処置が必要に思う。こういった大手門は近世の平山城・平城の城造りの原型になった貴重な戦国期城跡だ。 




 
 
 


 ▲大手門跡
 

 
 
 
船坂峠に立寄る


 
  
▲国道2号線 上郡町から                     ▲旧道 勾配9% 境には車止めがある
 
 


 三石城の南麓を走る西国街道(山陽道)の北東約2kmには船坂峠という西国街道随一の難所がある。この峠は備前国と播磨国の国境にあり、現在の行政区割りでいうと、岡山県と兵庫県の県境、ひいては近畿地方と中国地方の境目になる。 江戸期には関所があり、この国境をへだてて備前と播磨の生活・文化や言葉(方言)の違いが見られるという。

 

 
▲県界                 ▲播磨国・備前国境
  


 船坂峠のことは「太平記」に児島高徳が隠岐遷幸の途にある後醍醐天皇を救い出そうとしてこの峠で待ち伏せしていたこと、赤松円心の鎌倉幕府打倒の挙兵に赤松貞則が鎌倉加担の西国武将の上洛をくい止めたこと、足利尊氏が九州落ちに際し、尾張氏頼がこの地に留まったこと等が記されている。


 

 ▲船坂山義挙之趾
 
 
 
■ 羽柴秀吉の中国大返し 



▲中国大返しのルート図(イメージ)


中国大返しのルート

 中国大返しとは、天正10年(1582)6月2日本能寺の変(織田信長が明智光秀により襲撃をうけ、自害した事件)の一報を受け、羽柴秀吉(兵3万)は備中高松城攻めの最中であったが、すばやく毛利と和議を結び、明智光秀討伐を急いだ。記録では京都山崎までの約180kmをわずか8日間で行軍を果たしている。その速さは当時の行軍としてはありえない記録的なものであった。

 その中国大返しの開始日時、ルートは不明な点も多いいが、経路は山陽道で野殿(岡山市北区)を経由して、姫路に至るルートが定説となっている。

 このルート上には吉備と播磨の国境に船坂峠という難所がある。『太平記』には、「山陽第一の難処」とある。秀吉軍2万以上の兵がこの狭く急坂のある船坂峠を抜けるのには、蟻の行列のような遅遅の歩みが予想される。

 その記録的な行軍を成し遂げることができたのには、なんらかの工夫があったのではないかということで海路も利用した説もある。数多い足軽の行軍を早めるため、兵站(へいたん)部隊が武器(銃・刀・槍)弾薬・食料等の輸送に海路を利用した可能性が指摘されるのである。その海上ルートは牛窓から坂越、片上津から赤穂岬が考えられるという。
 
 思うに、牛窓港は船の数が多いいが少し南に距離がある。片上津については山陽道に近接し、古くからの備前焼の搬出港で、当時この周辺は織田方の宇喜多氏の支配下になっており、船の早期手配が可能であっただろうし、ここで重い武器を外して船で運べば、雨で抜かるんだ急坂の峠でもさほど支障もなく通過できると考えられて、実効性がありそうだ。


帰路につく秀吉の返書

 6月5日付(本能寺の変4日後)秀吉より摂津茨木の中川清秀への返書が残されている。それによると、

 書状を野殿で読む、これより沼城まで行く予定。京都に下った者の話では、上様(信長)と殿様(信忠)は無事に難を切り抜け、近江膳所(大津市)に逃げられている。福富平左衛門の働きはめでたい。自分も早く帰城する。(大意)
と記している。

帰るコースにある野殿と沼城の具体的な地名を記していること。そのあとの内容は明智光秀に最も近い中川清秀に対して信長が生きているという偽情報を知らせ動揺しないように私が帰るまで待てと巧みな心象操作をしているのである。こんな非常時においても秀吉の人たらしの人心掌握の手腕が発揮されている。
 
参考:『日本地名大辞典』、『戦乱の日本史2』、「ウィキペディア 本能寺の変」



 
雑 感
 
 今回は、三石城の築城当時の見張りの視線を感じることができたのと第一見張り所から茂みの中の石垣が見えたことが印象に残っている。後日、地図マップを見ていると、大手道の入口は町筋からではなく、西の尾根筋先端からではないかと感じている。
 
 江戸時代には船坂峠には関所があり、山陽道の備前側には三石、播磨側には上郡町有年(うね)に宿場があったという。この船坂峠の道が今どのようになっているかについて近くには来たもののこれがその道だといういものを未だ見ていないのが心残りとなっている。






【関連】
三石城跡 
沼城(亀山城)跡

城郭一覧アドレ

丹波 福知山城をゆく

2020-05-12 10:38:27 | 名城をゆく
(2019.3.24~2019.10.31)


 
 
 今回は丹波の福知山城です。あいにく福知山市は曇り空だったが、城は整然と整備されていて、すぐに登城することができた。復元天守からは、市内が一望できる。丹波の歴史に思いを馳せるのには最適な場所となった。
 
 丹波国は明治に京都府と兵庫県に分けられ、西部が氷上郡(丹波市)と多紀郡(丹波篠山市)が兵庫県に編入され、北・東・南部は京都府側に編入された。京都側の丹波にはあまり足を踏み入れたことがなく、その歴史を探るいい機会となった。



 




 





▲周辺城郭位置図




福知山城のこと         京都府福知山市字内記
 
 

 福知山盆地の中央、西から東に延びる丘陵の先端にあって展望がきき、周囲は急な断崖となり、山麓には由良川と土師川(はじがわ)が天然の堀となって堅城を成していた。城の建っている丘陵は横山と呼ばれ、天文年間(1532~1555)丹波国天田郡で勢力を伸ばしていた横山・塩見氏の居城横山城があった。

 永禄8年(1565)横山・塩見氏は丹波黒井城主赤井(荻野)直正によって滅ぼされたと伝わる。一説に明智光秀の丹波攻めのときに滅ぼされたという。
 
 天正7年(1579)織田信長の命を受けた明智光秀は八上城(城主波多野秀治)、黒井城(城主萩野直正)を落とし、丹波を平定した。

 明智光秀は、横山城を福智山城と改名し城代に藤木権兵衛と三宅弥平次(明智秀満)を置き城の大改築をした。光秀は、天正10年(1582)本能寺の変で信長を討ったものの、山崎の戦いで秀吉に破れ、敗走中に落武者狩りにより殺された。
 
 その後、羽柴秀吉は丹波を羽柴秀勝(織田信長の四男)を亀山城主として福知山城も預けた。そうして城代として杉原家次が入る。家次病没のあと、小野木重勝(おのぎしげかつ)が城主となる。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、小野木重勝は西軍につき、東軍の細川忠興の田辺城(舞鶴市)を攻めた。城主の細川忠興は関東出陣中で、忠興の父幽斎留守を守っていたがよく防戦し和議を結び城を開城した。関ヶ原の戦いの決着後、細川忠興はただちに田辺城に向かい陥落させた。

 後有馬豊氏が六万石で入り、城郭や城下町の完成をみている。遺構の輪郭はほぼ有馬氏のときのものと考えられている。


 
 



▲城図(国立国会図書館蔵)に大手口から天守への通路書込み
 本丸までは、北側の大手門からいくつもの城門をくぐる必要がある。
 
 


 明治4年(1871)福知山城は廃城となり、建物は払い下げられ、二ノ丸は埋め立てられた。二ノ丸の建物が明治20年(1887)に取り払われ、建物の一部や瓦が寺院や民家に使用された。ただ、本丸に続いていた二ノ丸のあった台地がすべて削り取られた。二ノ丸の登城路付近にあった銅門(あかがねもん)番所が大正5年(1916)に天守台に移築された。昭和61年(1986)に大天守、続櫓、子天守が復元された。そのときに、銅門番所が本丸に再移築された。

 本来本丸・二ノ丸・伯耆丸・内記丸と連郭式城郭で繋がっていたのだが、本丸と二ノ丸以外にも伯耆丸と内記丸の間がJR福知山線の建設に伴い分断されたため、すべてが独立丘陵になっている。

 



アクセス
 
 
南のアーチの橋を渡り、天守に延びる登城路を歩けばすぐだ。


 
              ▲新たに作られた登城路 
 


 天守台の石垣は大小のあまり加工されていない自然石とともに多くの石仏、石塔、五輪塔などが転用されている。隙間が目立ちこれでよく崩れないかと心配になるが、これは野面積みで水はけがよくしっかりしているという。
 
 


▲石仏・石塔等が利用された石垣
 


 天守の東側に大きな井戸がある。深さ50mもあり海抜43mなので海より7m深く掘っており、今だに水をたたえている。
 

 

▲豊盤(とよいわ)の井
 


丹波北部にある福知山城の大天守からの展望は福知山(由良)盆地の隅々まで見える。  
 
 
 
▲北西 二ノ丸越しに由良川(音無川)が見える ▲北部
 


 
▲南西部 中央JR福知山線                         ▲西部
 



▲東部 由良川は綾部市に至る




航空写真で見る福知山城周辺の移り変わり 
 

▲昭和23年の航空写真 (国土交通省)   



▲現在 by Google Earth
 
 

  昭和23年(1948)には、川まで伸びていた丘陵は寸断されている。南にはJR福知山線が敷かれ、南に広がっていた田園がほとんどなくなっているのがわかる。

  この土地は盆地の最低湿地であって、由良川と土師川の合流地点に当たるため氾濫に悩まされてきた。
 
 


雑 感
 
  城の位置を西から東に延びる丘陵の先端と書いたが、現在は丘陵の途中が寸断されその表現は的確ではなく、最初に「かつては」との但し書きを入れるべきかもしれない。都市開発の波が、古き遺跡を飲み込んでいく中で、消えてゆく歴史的文化遺産の再生を願った人たちの思いが天守、続櫓、小天守の復元に繋がったのだろう。失ったものも大きいが、残されたものがそれを補っているようだ。

 天守台の石垣を初めて見たとき、埋め込まれた石仏や石塔の多さに驚いた。これらは近郊の寺院などから利用しているという。
 転用については、当時、信長が安土城大手の石段に埋め込んでいる。また、信長家臣の荒木村重も有岡城の天守の石垣に使っている。

この地域は、石材の調達が難しい土地柄であり、築城を急ぐあまりなりふり構わず利用したのか、それとも何らかの意図があってのことなのか、難解である。