▲新庄山城の全景 上道公園から
▲宇喜多氏関連の城跡の位置図 by Google Earth
▲新庄山城と沼城(亀山城)との位置 明治後期の地図 1/50,000
▲関係諸城の位置 北方からの鳥瞰 by Google Earth
新庄山城跡(奈良部山城) 岡山市東区竹原
新庄山の北峯頂上(標高127m、比高117m)にある。数段の曲輪と堀切が残され、主郭には石鉄神社が建てられている。城主は中山信正の家臣新庄助之進が居城したと伝える。当城は、天文初年(1532)頃亀山城の築城に合わせて造られたものではないかとされ、東西に走る山陽道と東麓に流れる砂川流域を押さえるため支城と考えられる。
この新庄山城に移ったのは、砥石城の戦いの功労として与えられたとされている。天文末年(1555)頃、砥石城の城主で宇喜多直家の同族でもある宇喜多大和守が浦上宗景の兄政宗に味方をしていたため、浦上宗景が乙子城主宇喜多直家に砥石城を攻撃させ、激しい戦いの後、弘治元2年(1556)頃砥石城を陥落させ大和守を滅ぼしている。(『馬場家記』(森俊弘氏「岡山藩士馬場家の関連伝承について」) こうして新庄山城に移り、尼子や政宗の残党の備えとしている。
浦上兄弟の対立と備前の覇権争い
天文20年(1551)尼子晴久の再度の備前侵攻を巡って浦上兄弟(政宗と宗景)の対立により、備前内で国衆を巻き込み両者の覇権争いが10年以上繰り広げられた。
その後、永禄2~5年(1559~62))主君の命により直家は甥の亀山城主中山信正を謀殺し城を奪い亀山城に移った。
(播磨浦上事、如御存知、兄弟不和に候つるか、・・・就夫渦中之者、一両人生害さセ候由候「大友宗麟書状」『田村文書』)
※中山信正:亀山城(沼城)城主。天文初年(1532)頃に築城。はじめ金川城(岡山市北区御津金川 )の松田氏に従っていたが、その後浦上宗景に従う。娘が宇喜多直家の正室。
▲浦上兄弟の対立と宇喜多直家の関連図
アクセス
城山の北側山麓には三徳園(岡山県立青少年農林文化センター )があるので、そこを訪ねていくのがわかりやすい。三徳園の手前に上道公園があり、城山に近づくと小さな橋がある場所が登城口になる。
そこから頂上まで登城時間は約30分ほど。
▲上道公園より橋を渡る ▲近くに案内板があり、鳥居から登城する
▲ハイキングコースの案内板
▲岩場の道を登る ▲4月中旬の頃 ツツジが満開
▲頂上が見え始めた ▲やや平坦になる
▲次の急坂 ▲主郭近くで岩群が待ち受けている
▲頂上にある鉄石神社
▲神社の後ろの石塚
▲主郭からの眺望(北東部)
▲城の尾根筋の堀切があったと思われる場所 遊歩道のために岩が壊されたか?
▲展望台の休息所
▲城山の背後 展望台から
▲城の北東部
雑 感
実感としては、新庄山城の遺構が明確ではない。井戸も見当たらないし、監視が目的の砦そのものであり、あまり手を加えていない印象が残っている。
一族家臣らの屋敷跡が山麓にあっただろう。そして屋敷から山頂の主郭につづく大手道はどこなのか気になる。
宇喜多氏は数年後に甥の中川信正を殺害して、亀山城(沼城)に移ることになる。中川信正とはどんな人物だったのか、さらに中川氏の前の主君松田氏について知りたいと思っている。松田氏といえば、備前西部を領し、赤松氏や浦上氏に対抗した備中の雄。まずは、松田氏の金山城跡を機会あれば見て見たいと思っている。
備前内にもたくさんの城跡が残っている。そこで繰り広げられた戦国武将の足跡を辿っていくのが面白くなっている。
参考:「砥石城 落穂ひろい ふーむ氏 web」、『角川地名辞典』、他
【関連】
沼城
砥石城
乙子城
天神山城
城郭一覧アドレス