郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

但馬 小代 城山城跡

2020-05-04 09:48:14 | 城跡巡り
【閲覧数】1,543(2017.8.12~2019.10.31)                                   
 
 
 
 養父市大屋町の諸城の探索によって、羽柴秀長の家臣藤堂高虎を苦しめた小代一揆の本拠地小代 城山城(じょうやまじょう)をいつかは見てみたいと思っていた。しかし城跡は但馬北西部の山岳の谷合にあるという。事前の下調べで、城跡は「ふるさと歴史公園」として整備され、城山頂上付近まで車で行けると知り、雪解けの桜の咲く4月中旬、いくつもの山越え谷越えの道を進んでいった。
 

 
 
 ▲矢田川東岸より
 




小代  城山城跡のこと   美方郡香美町小代区 
 

 小代区の中心部の矢田川と久須部川の合流地点の山上の標高396.7m(比高120m)にある。

 城の縄張りは主郭(東西約11m、南北22m)を中心に、四方に延びる尾根筋上に連郭式砦(曲輪)をもち、個々の曲輪跡は小さいものの、城域は東西510m、南北500mの規模をもつ。山麓の「字段の平」に城主居館があったと考えられている。

 城主は朝倉氏・八木氏・田公(たきみ)氏と伝わる。田公氏は天正五年(1577)羽柴秀吉の第一回但馬侵攻のとき、城山城を捨て因幡に逃走したという。
  小代一揆勢はこの城を本拠とし、藤堂高虎が攻め寄せたが撃退した(小代合戦)という伝承がある。
 


 
▲イメージ図 説明板より
 



▲小代 城山城図(一部着色加える) 説明板より
 


▲城山城周辺図 ( P:駐車場、赤丸:四方の砦)
 

 
▲城山方面からの小代を見る 
 

 
小代合戦
 
 小代合戦そのものを記録した一次史料はなく、地域伝承と藤堂家の年譜録と実録の記録が残るものの、その実態がはっきりしていない。
 
 地元伝承として、「七美郡誌稿」地元八木玄蕃著(明治時代)には、藤堂高虎率いる120騎が小代谷に攻め入り谷中の寺々を焼き払い古城山(城山城)を攻め寄せたが、太田垣、広井、小代大膳等は抗戦し、二方郡栃谷城の塩谷勢(50騎)の挟み撃ちになり、高虎勢は壊滅し、高虎はただ一騎で広井坂(一二峠)、天滝を越えて敗走した。
 余勢を駆って、一揆勢30人は大屋に攻め入り、横行に要害を構えて攻撃し、これに対し藤堂勢は、蔵垣・筏・栃尾館で抗戦し、勝利を収めた。

 その後、秀吉勢(堀尾吉晴ら)は七美郡に入り、「射添強盗」(いそうがんどう)を平定した。  ※射添は村岡町内にある地名
 
 藤堂高虎家に残る記録として、『公室年譜録』には、天正5年秀長の但馬攻めのとき、小代大膳・上月何某ら92名が抵抗した。秀長は藤堂高虎に鉄砲数艇をもたせ、小代勢掃討を命じた。小代勢が大屋に侵攻し栃尾館を包囲したが、藤堂勢が応戦し、一揆の大将富安丹後・瓜原新左衛門等を打ち取り、小代勢は退散する。その後小代の砦を攻略した。しかし小代勢は分散しながらも勢力を保持し、秀吉来但の時、謀略により高須(村岡町)で召捕り極刑に処した。
 
 もう一つ、『高山公実録』(藤堂高虎一代記 幕末編纂)に、藤堂高虎と小代一揆勢の攻防は天正8年~9年(1580~81)の2年間戦った。一揆勢は小代だけではなく宇津賀(兎塚)(村岡町)からも押寄せた。小代勢は「上月某・小代大膳などと申す者一類九十二人」、「横行と申す山中に一揆共山籠いたし、要害を構、小屋掛け居り申す」、「天滝を越え横行山へ突出て、蔵垣において数度御合戦」等の記述あり。・秀吉の来但の記録:播磨から明延を越え大屋に入り、栃尾加賀守屋敷に立ち寄り、栃尾氏に判物(大屋の内川の支配権)を与えた。さらに秀吉は栃尾屋敷から小代に直行し一揆勢を捕縛し高須で獄門磔刑に処した。と公室年譜録よりやや詳しく記述されている。『大屋町史』
 
 地元伝承と高虎家の記録とは時期や内容は一致しない点がある。地元伝承では攻め寄せた藤堂軍を撃退し、大屋まで追い込んでいるのに対し、藤堂家の記録では小代での敗退は触れられず、大屋に攻め入った小代勢を撃退させ、その後小代を攻略したという。

 いずれにせよ根強い小代勢の一掃は天正9年(1581)の因幡・鳥取城攻めの前の秀吉本隊の出動までまたなければならなかった。
 
 
 
▲但馬・因幡の主な城配置図
 
 


アクセス
 

 養父市大屋を抜け国道9号線から村岡区萩山の一二(ほい)峠を越えて小代に入った。
 小代の谷筋に入り、「ふれあい温泉おじろん」を目指す。おじろんから久須部川沿いに進むと城への案内板あるので、左折し登って行くと歴史公園がすぐである
 

 
 
 

 
▲久須部川                    ▲整備された城山への道 
 

 
▲駐車場 トイレあり         ▲城図と詳しい説明 
 

 説明板のある部分は南砦にあたり、ここから北の尾根筋上に歩道が設けられ、主郭につづく。途中堀切があるが歩きやすいよう小さな橋が設けられている。
 

 
▲歩道が整備されている        ▲堀切に敷かれた小さな橋 
 

最後の階段を登ると、主郭にいたる。城山をイメージした木の櫓が造られている。
 
 
 
 
 
東西南北の各砦の案内板がありわかりやすい。主郭の西側には数段の曲輪があり、さらに進むと西砦に至る
 
 
 
▲北・西砦案内板       ▲主郭の西側の1番目の曲輪跡 上部から


   
▲主郭の西側の2番目の曲輪跡
 

東砦へは急勾配だが、階段が敷かれているので楽に降りられる。
 

   
▲東砦案内板             ▲尾根筋に階段が敷かれている
 


▲東砦
   
               
 

 

雑 感
 
 城跡は公園化され、歩道が整備され櫓が建てられここが中世・戦国期の城跡であることを多くの人に見てもらいたい、知ってもらいたいという地元の人たちの思いが伝わってくる。
 
  東西南北に砦を配した堅牢な城山城。最も守りの重点においたのは北砦だろう。その北砦から山麓に降りたかったが時間の都合上できなかった。次回行く機会があれば、北砦と山麓の居館跡地などを探索したいと思っている。
 
 秀吉にとって小代の一揆勢の存在は毛利との因幡鳥取合戦の前にうるさい存在だったようで、配下の者に指示を出し、最終的に自ら鎮圧に出陣している。因幡・鳥取城合戦には山陰の海路と但馬内陸部の因幡に通じる街道を押さえる必要があり、すなわち但馬から因幡若桜鬼ケ城にいたる氷ノ山越えの歩行・兵站ルート確保には小代勢の排除が最優先だったと考えられる。

  その小代・村岡を拠り所とした小代一揆勢は強盗(がんどう)と呼ばれていたが、捕縛した一類への獄門磔という厳しい処罰は秀吉の怒りに触れたものだったようだ。

 『高山公実録』に秀吉が但馬大屋の栃尾屋敷に出向くのに、播磨宍粟郡一宮町富土野経由で明延から大屋に入ったとあるのは興味深い。



【関連】
・但馬 蔵垣城跡
・但馬 大杉城跡
・但馬 加保城跡
・但馬 田和城跡

◆城郭一覧アドレス

備後 福山城をゆく 

2020-05-04 09:03:03 | 名城をゆく
(2019.3.26~2019.10.31) 

 



 福山城跡に訪れて築城の歴史と規模などを知り、かつて西国の備後に築かれた大規模な城であったことを知る。

 明治以降、城を取り囲んでいた内堀・外堀はすべて埋められ、今ではJR福山駅が城域二の丸の南を東西に走り、侍屋敷跡にはビルが立ち並んでいる。

 それでも、小高い丘稜にそびえる復元天守に立てば、この場所が福山の繁栄を生み出した中心地であったことが理解できた。



 










福山城跡のこと      広島県福山市丸の内一丁目


 関ヶ原の合戦後の慶長6年(1601)福島正則が備後・安芸の領主として広島に入ったが、城改修の無届け等を問われ改易・転封されると、元和5年(1619)、水野勝成(かつなり)が大和郡山6万石から4万石加増され備後10万1千石で入封し、福山城を築いた。水野勝成は譜代大名として、西国の毛利・小早川等の外様大名を監視するために幕府より送り込まれた。築城には幕府の多大な援助を受け、野上村の常興寺山(丸の内)の丘稜に城郭、その麓に城下町を建設した。その城の名を久松城、城下を福山と改称した。



※歴代の藩主は、水野氏5代、松平氏1代、阿部氏10代と続き、廃藩置県に至っている。 


 当時一国一城令により、元和8年(1622)に解体された京都伏見城から御殿・松の丸東櫓・月見櫓・筋鉄御門・大手門等を徳川秀忠が移築している。

 明治6年(1873)に廃城となり、民間に払い下げられたが、天守閣・伏見櫓・筋鉄御門などは取り壊されずに残され、国宝に指定されていた。しかし、昭和20年(1945)8月空襲により、天守閣と御湯殿を焼失した。
 昭和41年(1966)の市制50周年事業として天守閣と御湯殿、月見櫓等が復原された。

※参考:『日本城郭体系』、『角川日本地名辞典』、他




 
▲外堀の位置(推定)     
 


▲備後国福山城図 江戸中期~後期(国立国会図書館蔵)




▲JR福山駅が二の丸の南を走る

 

     
▲伏見櫓                        
  


  
▲二の丸の石垣 
  
        


▲二の丸の狭間 
 

 

▲筋鉄(すじがね)御門       
 


▲伏見鐘櫓
 

 
▲伏見湯殿跡 (復元)


 

▲この家紋は水野家のものか     


▲一部の石垣に矢穴(鉄のくさびを打ち込む穴)の跡





 
▲古写真 消失前の天守閣  
     

▲本丸西側周辺の石垣
 

        

▲天守から北方面


 
▲天守から西方面


                            
 雑 感 

 この福山の城づくりには幕府が威信をかけ、多額の財源と京都の大工の派遣そして、伏見城の廃城に伴う解体・移築を行っている。伏見城の遺構は、江戸城(現在の皇居)や大阪城にあるが、確実に伏見城の遺構といえるのはこの城のものだけで、非常に貴重なものだという。さらにその建築には近くの神辺(かんなべ)城からも移築されたともいわれている。

 それでも何か物足りなさを感じる。それは堀が埋められた裸の城であるからだ。無い物ねだりになるが、堀の有無で城の存在感がずいぶん違ってくる。

 当時常興寺からは福山湾が望め、周辺一帯は葦原(あしはら)が広がっていたという。福山湾に向かって城下の拡大と干拓が推し進められていった。

 その福山湾には鞆の浦がある。古くからの港町で、海上交通の寄港として朝鮮通信使も訪れている。万葉の代より愛でられた風光明媚な地である。そこに毛利・足利ゆらいの鞆城跡がある。