郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

関ケ原前夜 黒田官兵衛と長政の動き①

2020-05-10 09:21:54 | 城跡巡り
【閲覧数】6,145(2013.114.4~2019.10.31)



九州の関ヶ原  ~如水九州制覇をめざす~ 
 

関ヶ原前夜
 
 慶長3年(1598)8月天下人豊臣秀吉が没した。次期政権をめぐって、徳川家康を中心とする東軍と石田三成を中心とした西軍に分かれ決戦の動きが活発化していた。
 慶長4年(1599)1月如水と息子長政は朝鮮より引き上げたあと、京都伏見にいた。その後、如水は長政と別れて豊前中津城に戻った。長政は、6月上杉討伐の家康軍に参加した。
 
※黒田官兵衛は、朝鮮の出兵での二度の無断帰国を秀吉に叱責され、剃髪して「如水円清」と号した。よって、九州での動きは黒田官兵衛孝高の表記を如水に統一します。
 


如水の九州制圧の戦い
 
 中津城のにいた如水に、兵乱勃発の一報が入った。天下が乱れることを早くから予測していた如水はかねてよりの作戦を実行した。それは九州のほとんどの諸大名が西軍につくなか、その主力のいない留守城を一掃することだった。

 慶長5年(1,600)9月9日如水はにわかに備蓄の米と銭を放出して浪人などの多くの兵を集め軍備を整えると、豊前を南下し豊後の西軍の諸城を次々と攻略していった。
 



▲黒田軍(先発隊と主力部隊)の経路と石垣原(いしがきばる)
 

 
中津城からの黒田軍の行軍ルート
 
 高森城 東軍  城主黒田利高は如水の弟。兄より1万石分与され城主となった。

 豊後高田城 西軍から東軍へ 城主竹中重利は竹中半兵衛重治とは従兄弟。家臣を西軍に派遣していたが、如水に説得され東軍についた。

 富来(とみく)城 西軍 元は大友氏家臣富来氏の城であったが、大友氏の没落で垣見氏の居城となる。垣見家純の家臣垣見理右衛門がよく守ったが、説得により開城した。

 安岐(あき)城 西軍 元は大友氏の一族田原氏の居城であった。熊谷直盛(石田三成の妹婿)は朝鮮出兵で失敗し一旦所領を失っていたが関ヶ原の戦いの時、旧領安岐に復帰し、叔父の熊谷外記を城代として守らせた。10日間籠城するも、開城した。

 木付城(杵築城) 東軍 元は木付氏の居城。島津氏の大軍による攻撃も耐えた。大友氏の失態で自刃。そのあと2代城主がかわり、慶長4年(1599年)家康の推挙により丹後宮津城主細川忠興の所領(飛地)となり、重臣の松井康之・有吉立行を城代として置く。木付(きつき)の地名は江戸中期に杵築と改称された。
 
     
 
大友義統(よしむね)の軍と激突
 
 黒田軍の行く手に立ちはだかったのが、大友義統だった。義統は名門大友宗麟の息子で朝鮮の出兵の失敗(敵前逃亡)で秀吉に豊後6万石を改易され、流浪の身であったが、秀吉の死後毛利の後押しもあり西軍につき、旧臣を集めて豊後に侵攻したのだ。そして細川氏の家老松井、有吉が守る木付(杵築)城を攻めたて追い詰めたが、如水軍が応援に駆けつけたため、引き上げて別府湾近くの立石村に本陣を張った。
 
 
石垣原の戦い  豊後国速見 郡石垣原(大分県別府市) 

九州の関ヶ原 ~黒田・細川連合軍と大友軍が対峙~
 

別府の開発前の石垣原一帯
▲昭和14年(1939)の航空写真(国土交通省)

上部の丸い黒い部分が実相寺山、中央に横断する白い線が境川。その実相寺山と境川の間で戦闘があった。※右下の楕円形は競馬場(現在総合運動場)
 




▲合戦図部分 元禄7年(1694年) 国立国会図書館蔵
 ※東(右)は別府湾
 


 かくして慶長5年(1,600)9月13日如水軍と細川軍の連合軍は実相寺山と角殿山(かくどのやま)に布陣した。別府湾を望む石垣原(別名鶴見原)の南に大友軍、北に黒田・細川連合軍が本陣を置き両者相対峙した。あたりは湯煙の立ち込める広い荒地であった。この場所で九州の関ヶ原ともいわれる一大決戦が白昼から始まった。
 
 はじめ黒田軍は久野次左衛門・曾我部五右衛門の武将が討たれ劣勢であったが、黒田軍の井上之房と野村右衛門が吉弘統幸(よしひろむねゆき)と宗像鎮続(むなかたしげつぐ)を討ち大勢を決した。大友義統は両翼の要の大将を失ったため、黒田軍に投降した。義統は中津城を経て江戸に送られ、家康により出羽秋田に幽閉された。
 
  如水は石垣原の戦いで勝利を収めるや、再び国東半島の安岐城、富来城を攻撃、毛利高政の居城玖珠(くす)郡角牟礼(つのむれ)城、日田郡隈(くま)城と次々と攻略し、さらに筑後の久留米城をも開城させた、
  東軍の熊本城主加藤清正は、小西行長の宇土城を開城させたあと、如水軍とともに立花宗茂の柳川城を取り巻き攻略。これでいよいよ九州の最後の敵が薩摩の島津氏のみとなった。
 
 慶長5年11月12日島津攻めを開始しようとしたやさきに、家康より停止命令が届き、それぞれ本国に引き上げ、東軍の九州の戦は終わった。関ヶ原の戦いから既に2ヶ月を経ていた。
 
 
        
   ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
 
 

如水の挙兵に思う
 

 そもそも如水はなぜ挙兵という独自の行動を起こしたのか。
豊後への怒涛の動きは、関ヶ原の動きと呼応したものだったが、大友氏の旧領回復の動きと時を同じくし、石垣原の戦いで大友氏を倒したあとは、肥後の加藤清正と連合して、島津氏を討ち取れば九州全土が手中にできるあと一歩に迫っていた。
 その如水の九州西軍掃滅の行動は家康にどう評価されたのだろう。

 
如水の行動は評価されなかった!?
 
 関ヶ原の戦いがあまりにも早く決着したために、如水の計画が狂った。先見性に長けた如水も天下分け目の関ヶ原の戦いが東軍家康の圧勝となることは予測していなかった。皮肉にも息子長政が関ヶ原の勝利に大きく貢献したことも、如水のスケジュールに狂いを与えたといえなくはない。しかし息子長政は戦後の論考行賞で高く評価され52万3千石(12万石から40万石加増)の所領を与えられた。

 同じ九州で東軍につき如水と連携をとった熊本城主加藤清正は、周辺の西軍の城を押さえ、関ヶ原の恩賞で肥後52万石(25万石から27万石加増)を得た。清正が関ヶ原の戦いに参加しなかったのは、家康の指示で、肥後と筑前は切り取り次第の約束があった。しかし如水の行動は家康に許されてはいたものの九州豊後・筑前等の制圧の功績は評価外となったと考えられる。
 

九州で有終の美を飾ろうとした!?
 
 関ヶ原の戦いの2年前の慶長3年(1598)9月中津の如水へ懇意にしていた毛利輝元の家老※吉川広家から秀吉逝去の知らせがあった。その返書に「上様に対する悪い評判があり、このようなときには戦が起きるでしょう。すぐにではないとしても、その時にそなえ覚悟をめされてください」とさらに慶長5年10月広家に宛てた手紙※に「関ヶ原の戦いがもう1か月も続いていれば、中国地方にも攻め込んで、華々しい戦いをするつもりであったが、家康勝利が早々と確定したため何もできなかった。」とある。もうひとつ如水が関ヶ原の戦いの結果を知らない9月16日(関ヶ原合戦は9月15日)に家康の側近藤堂高虎に書状を送り如水と加藤清正が自力で切り取った西軍領を拝領できるよう家康に取り成しを依頼している。 

 以上のことからしても、九州制圧、さらに中国制圧への思いは、家康からの最大の評価を得るためともいえるが、その前に戦国武将としての人生最後の華々しい一戦で有終の美を飾ろうとしたと言えないだろうか。
 

戦いに明け暮れた人生に幕
 
 関ヶ原の戦いの4年後の慶長9年(1604)3月戦いに明け暮れた如水は京都伏見で静かに人生の幕を降ろした。享年59歳。自らの死期も予言したとおりとなったという。
 



 ▲関ヶ原の戦いの前の勢力図と関係諸城


 
参考 「日本城郭大系」「県史 大分県の歴史」「新説九州の関ヶ原」「角川日本地名辞典」他
 
 
 
追記 2014.11.8
 

 如水円清自筆書状から見えてきたもの
 

 黒田如水円清が慶長5年(1600)10月4日吉川広家に出した書状(返書)がある。
この個条書きした五つめに「関ヶ原の戦いがもう1か月も続いていれば、中国地方にも攻め込んで、華々しい戦いをするつもりであった」とあり、この一文が、官兵衛が内心天下取りの野望を抱いていたという俗説の根拠になったようだ。注目すべきは、その次六つめには、九州の諸城を落としていったことは逐次家康に報告し、支持を受けていたことを表していることがわかった。

 つまり如水の九州の挙動は単独の行動、事後承諾ではなかったといいえる。関ヶ原の恩賞に対して家康の判断基準は黒田家に対するものとすれば、如水に対する評価がなかったとはいえないのではとの思いに到った。如水の九州の行動特に毛利の後押しによる大友義統を撃退したのはむしろ、総合判断にプラスになったのかも知れない。
 


 
▲ 如水円清自筆書状 山口・吉川資料館蔵



【関連】
周防 岩国城をゆく

➡関ケ原前夜 黒田官兵衛と長政の動き①

城郭一覧アドレ

石見 津和野城をゆく

2020-05-10 06:48:33 | 名城をゆく
(2019.3.26~201910.31)
  



    かねてより楽しみにしていた西の小京都津和野にやってきた。津和野は山口との県境近くにあり、山口中心部からバイパスと山陰道の9号線で約1時間ほどで行ける。峠から津和野城と町並みが見え、その姿は兵庫県朝来市の竹田城跡とよく似ていると思った。
 


 
 
▲津和野城跡の全景(東の峠から)   (国指定史跡)
          



▲ズーム
 

 
▲太鼓丸城門に向かって 
  

           

▲太鼓丸の石垣
 



▲太鼓丸の南端から二の丸の南方面
 




▲人質郭跡と青野山




 リフトを使わず歩いて探索をする。津和野城の最上部太鼓丸の広い高台からの展望がすばらしく、北東に秀峰青野山、眼下に津和野川沿いの城下が見通しできる。
 
 

▲太鼓丸からの大パノラマ 





津和野城跡のこと  島根県鹿足(かのあし)郡津和野町後田


    津和野城跡は津和野町の西の城山山脈の南端標高367m(比高200m)の山上に築かれている。
鎌倉幕府は2度の元軍の来襲(元寇)により、九州及び中国・四国の沿岸防御のため、吉見頼行を西石見に派遣させたと伝わっている。

 弘安5年(1282)能登より入部した頼行は石見国吉賀(よしか)郡の地頭となり、勢力を拡張し、益田氏と石見国を二分する国人に成長した。
 永仁3年(1295)~正中元年(1324)の間、頼行・頼直父子は津和野に一本松城(後の三本松城)を築き、西麓の喜時雨(きじゅう)を大手口とし居館を置いた。

    吉見政頼が在城のとき、大内氏の家臣※陶晴賢(すえはるかた)と益田藤兼(ますだ ふじかね)と争っている。そのとき城の防備として竪堀などが多く築造されたようである。戦いの結果は政頼が5ヶ月間よく城を守りぬき、和議を結んでいる。この後吉見氏は毛利氏(元就・隆元)に仕えたが、益田氏との所領紛争は続いている。関ヶ原の戦いの後、萩に移り所領も与えられたが主君毛利氏に不穏な動きを見せたため所領を没収され逼塞(ひっそく)した。

※陶晴賢:天文20年(1551)大内義隆の家臣で、主君をクーデターで倒し実権を掌握した。陶氏は三本松城攻撃中の隙をつかれ、毛利氏に安芸・備後の諸城が侵されることになった。この後弘治元年(1555)晴賢は毛利元就と厳島の決戦で大敗している。
 参考:『日本城郭大系』『角川地名辞典』他 


 

▲津和野城図 (江戸中期~後期) 国立国会図書館蔵



 慶長6年(1601)関ヶ原の戦いで東軍で功績をあげた坂崎直盛(元宇喜多姓)が入城し、城下町の建設、城郭の大改修を行なっている。このとき大手口を喜時雨から東山麓の津和野村側に切替えている。

 元和3年(1617)因幡鹿野より亀井政矩(まさのり) が入部し、亀井氏は殿町にあった居館を城の麓に移し、藩邸として整備した。また外堀をひき今に残る城下町の原型を築いた。亀井家は11代にわたって幕末までつとめ廃藩に至った。津和野城は明治7年に民間に払い下げられ惜しまれながら解体されたという。
 


 
 
▲リフト乗り場の上部の登山口   ▲途中リフトの下を抜ける 



 
▲出丸(織部丸)  (ここまで歩いて25分) 
    



▲出丸の石垣 
                 


 
▲本丸に向かう石段                                                                                ▲左の長い石塁に圧倒される                                                



  
▲天守台跡から西(馬立・台所跡)を望む 
 


▲天守台跡から西御門跡を見下ろす
 


 
▲大手登山口の案内板が右端にある                           ▲大手登山口 
 




雑 感

 津和野城域は中世からの砦等を含めるとかなり広範囲になる。砦や竪堀・堀切が尾根筋から枝状に数多く残っている。さらに喜時雨の旧大手口も時間の制約上、見ることができなかったのが残念だった。

 城下に養老館が残っている。これは天明6年(1785)に建てられた藩校で闇斎学・山崎闇斎(1619-1682)を学んだ山口剛斎(1734-1801)が招かれている。以後養老館で明治始めまでに多くの人材を輩出している。山崎闇斎の教えが幕末の尊王攘夷思想に大きな影響を与えたことがわかった。


 昭和51年(1976)の航空写真を見ると町の南にあるみごとな棚田が目を見張った。そのいきさつが津和野藩の概要でわかった。藩は財政強化ため新田開発や産業開発をすすめ、山林・原野を開拓し畑や新田を増やしたときのものだ。その推進者が家老多胡主水(もんど)(真武、真益、真陰)の3兄弟で、主水の名にちなんで「主水畑」と呼ばれている。


 ▼津和野町中座の棚田の変遷 昭和51年の航空写真(国土交通省)と現代            by Google Earth


※棚田は江戸時代に新田開発として山林・原野に造られた。現在ほとんどが圃場整備されている。

・青野山の北山麓にある大井谷 の棚田が日本の棚田百選に選ばれている。



 

【関連】
・因幡鹿野城