郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

丹後 田辺城をゆく

2020-05-13 12:08:44 | 名城をゆく

~ 細川の古今伝授の田辺城 ~



▲城門 二階が資料館




▲模擬二層櫓
 



▲本丸内 左城門・正面櫓
  



▲天守台 この上には天守は建てられなかったという
 



▲本丸北側の石垣                  
 



▲明倫小学校正門(田辺藩の藩校の面影を残す)




 舞鶴引揚記念館を見るために舞鶴市に訪れたとき、街中で、大手通という地名標識を見かけ後日調べて見ると、そこが城跡であることを知った。そのことがあり、今度は城跡巡りにやってきた。
 今は舞鶴若狭自動車道が開通して、中国自動車道の吉川ジャンクションから丹後の舞鶴や若狭方面へのアクセスが容易になり、播磨と丹波・丹後が身近になっている。



 





田辺城のこと  京都府舞鶴市南田辺 
 

 舞鶴湾(西港)の南岸の平野部にある。田辺城は、別名舞鶴(ぶがく)城ともいう。城郭が鶴が舞う姿からそう呼ばれていたという。

 戦国時代に織田信長の命により丹後の一色義道を滅ぼした細川藤孝(幽斎)が丹後一国を得て、最初宮津城を本拠としたが、天正8年(1580)より加佐郡八田村に3年かけ城を築き,城名を田辺城と名付けた。

 東西に伊佐津川と高野川に挟まれ、南東は深い沼地で西北には舞鶴湾を臨む要害の城であった。
 
 
 
▲細川藤孝の築城当時の田辺城図 (丹後郷土資料集より)
(大手が南にあり、京口ともいい京都方面に続く。)
 


 細川忠興が関ヶ原の戦功により豊前小倉(33万9,000石)へ移ったあと、信濃飯田から京極氏が入部し、大掛かりな城郭の拡張をした。京極氏が但馬豊岡に移封したあと、京都所司代であった牧野氏が入封し、城郭の再普請をし西側に町割りが行われ商人・職人を招き入れ城下町が形成された。牧野氏は幕末まで藩主を勤めた。


 





▲田辺城古城絵図 国立国会図書館蔵 
※牧野氏時代の城図 大手は西に変わっている
 


 現在城跡は舞鶴公園として整備され、模擬の二層櫓「彰古館」が昭和15年(1540)に復興され、城門は平成4年(1992)に建設された。本丸を取り巻いていた水堀はすべて埋められたが、城下の町割りなどはよく残っている。
 
 


▲舞鶴湾古写真 (日本史蹟大系より)
 
 
 ▲昭和23年(1948)航空写真 (国土交通省) 


▲現在  by Google Earth



田辺城の攻防戦(関ヶ原の前哨戦)

 

 
 細川藤孝(幽斎)が入国して20年後の慶長5年(1600)徳川家康が会津上杉討伐に出かけた隙をみて石田三成が会津に向かった豊臣大名の妻子を大阪城に人質をとることにより家康との仲を裂き、味方につける方策をとった。その動きを知った黒田長政や加藤清正らの妻は大阪の屋敷を脱出してことなきをえたが、忠興の大阪屋敷にいた妻ラシャ夫人※は、人質となることを拒否したため、石田方の兵に囲まれ自害した。 
 ※遡ること18年、天正10年(1582年)6月、明智光秀が本能寺で織田信長を討ったため、珠(ガラシャ)を丹後国の味土野(京丹後市弥栄町)に隔離・幽閉されたとも云われている。

 三成は人質作戦を半ば中止するも、細川忠興が徳川につくことが明らかになったため、福知山城主の石田三成は小野木重勝を中心とした近隣の諸大名に出陣を命じ。約1万5千もの大軍が丹後細川の拠城に向かった。そのころ細川忠興は徳川の会津攻めに加わり、その留守を父の幽斎 (藤孝)が守っていた。宮津城にいた藤孝は三成方の攻撃を知って本拠の宮津と支城を燃やし、籠城を覚悟で堅城な田辺城を選び、わずか500ほどの兵で立て籠もった。大軍に取り囲まれ当初激しい攻撃が繰り返されたが、堀の橋板を外すなど抵抗し、よく持ちこたえ、そのあとこう着状態が続き、50日程たったころ、朝廷側が細川幽斎(藤孝)の死で「古今伝授」の伝道が絶える事を憂慮し、後陽成天皇の勅命により双方兵を引く条件として開城を促し、幽斎はこれを受け入れた。城を明け渡した幽斎は丹波亀山城主前田茂勝に預けられた。




田辺と舞鶴の地名由来

    加佐郡古代の郷 刊本では田辺は田造と表記されている


 
 田辺という地名は、平安期に加佐郡10郷の一つ田辺郷からきている。江戸時代城下町は田辺町と呼ばれた。その田辺が舞鶴と呼ばれるようになったのは、明治2年(1869)版籍奉還の際、明治政府の命により田辺藩が舞鶴藩に改称された。それは紀伊国(和歌山県)の田辺藩と区別するためであった。舞鶴藩は2年後の廃藩置県で藩名は消えることになったが、舞鶴町は、現在舞鶴市となり、田辺の地名は舞鶴市の大字として北田辺、南田辺として継承されている
 



雑 感
 

 田辺城の絵図をみると、堀を厳重にめぐらした縄張りでさぞ名城であったと思われる。しかし明治以降堀が埋められ、天守台と本丸の一部の石垣のみがかろうじて残されたという。そのあと昭和と平成に模擬櫓、城門が整備されている。
『丹後田辺府志』(江戸時代)の中に田辺城の城門(北門・西門)の2枚が細かに描かれているのがわかった。


 
 
▲城西門 侍と職人・商人等が自由に行き来している




▲城北門 船着場、城下への橋が描かれている。
 


 これが古城図のどの部分を描いたものかをみてみると、ほぼ見当がつき、失われた幻の城が確かに存在していたことを感じ取ることができた。
 




 
 しかし、城図の初期のものや最終のものを見てみると、復興された隅櫓の形状や位置は理解できるのだが、本丸に入る立派な城門については、ありえない位置(埋められた堀の上)に建てられており、それは町づくりの拠点のための創作建築物とわかり、復元という観点からいえば少し違和感を覚えた。

参考:『日本城郭体系』、『角川日本地名辞典』



三石城跡と船坂峠

2020-05-12 16:01:08 | 城跡巡り
【閲覧数】5,325 (2016.2.13~2019.10.31)                                  

 


 三石城跡を大手道ルートで登城したいと思いつつも、数年経ち、今回やっと大手道からの登城で展望のよい見張り所や大きな井戸跡等を見ることができた。山ろくに延びる西国街道の数キロ東には船坂峠があり、そこにも立ち寄ってみた。
 
 
 


 ▲三石城跡の全景(南東から)
 
 


三石城大手道からの登城
 

 大手道から登るほどに広がる眼下は気持ちがよく、時より山ろくを走る電車の音に目をやる。ここ備前三石城は人工林が少なく、自然林が比較的低木なのでそれぞれの見張り所からの展望がよい。そのため築城当時の見張りの感覚で見ることができる。
 大手道の半ば、山肌に露出した岩場あたりは急斜面となる。第一見張り所から城山を見上げたとき林の中に石垣を見ることができた。

 谷筋を登り切ったところに大手門跡が待ち構えていた。三石城の最も味わい深い場所である。
 
 


 
 アクセス


▲城山マップ 



城下町筋に案内板がある。登り口はこの奥にある。階段を登る途中の民家に、三石城跡の説明書の栞(しおり)が用意されていた。




 

 
               

▲「三石城の栞 編集西川晃男氏」 より                 
 
 
 

途中右手奥に宝篋印塔が目に付いた。三石城の武将のものだろうか。
 


 


 
上部には第一見張り所まで右700mとある。左に第二見張り所がある。



 
  
 

 


第二見張り所に城址の説明板がある。ここからの展望は南一円に広がっている。
 
 
 

 










さらに登っていくと、岩場の狭い道がある。。
 


  
 


 
その近くに、「息つぎ井戸」という岩の縁に小さな水たまりがある。その先に「千貫井戸」の案内板がある。
 


 
▲これが「息継ぎの井戸」?

 

千貫井戸は横長2m、幅1m程あり今でも水をたたえている。篭城には貴重な水の手である。
 

 

▲千貫井戸



大手道から左に進むと、第一見張り所に到着。結構広い削平地になっている。ここからの眺めはいい。
 



 
 ▲第一見張り所 
 



 ▲第一見張り所からのパノラマ展望
 


元に戻ろうと振り返ると、山頂の木々の間に石垣を発見。前回見落としていた石垣だった。



 
▲第一見張り所から山頂を望む                   ▲木々の間に石垣が見えた(望遠)
 




▲三の丸下にある石垣 
 


次に間道本丸跡への案内に進み、谷筋に沿って上っていくと大手門跡だ。左側の石垣の隙間が目立ち何らかの処置が必要に思う。こういった大手門は近世の平山城・平城の城造りの原型になった貴重な戦国期城跡だ。 




 
 
 


 ▲大手門跡
 

 
 
 
船坂峠に立寄る


 
  
▲国道2号線 上郡町から                     ▲旧道 勾配9% 境には車止めがある
 
 


 三石城の南麓を走る西国街道(山陽道)の北東約2kmには船坂峠という西国街道随一の難所がある。この峠は備前国と播磨国の国境にあり、現在の行政区割りでいうと、岡山県と兵庫県の県境、ひいては近畿地方と中国地方の境目になる。 江戸期には関所があり、この国境をへだてて備前と播磨の生活・文化や言葉(方言)の違いが見られるという。

 

 
▲県界                 ▲播磨国・備前国境
  


 船坂峠のことは「太平記」に児島高徳が隠岐遷幸の途にある後醍醐天皇を救い出そうとしてこの峠で待ち伏せしていたこと、赤松円心の鎌倉幕府打倒の挙兵に赤松貞則が鎌倉加担の西国武将の上洛をくい止めたこと、足利尊氏が九州落ちに際し、尾張氏頼がこの地に留まったこと等が記されている。


 

 ▲船坂山義挙之趾
 
 
 
■ 羽柴秀吉の中国大返し 



▲中国大返しのルート図(イメージ)


中国大返しのルート

 中国大返しとは、天正10年(1582)6月2日本能寺の変(織田信長が明智光秀により襲撃をうけ、自害した事件)の一報を受け、羽柴秀吉(兵3万)は備中高松城攻めの最中であったが、すばやく毛利と和議を結び、明智光秀討伐を急いだ。記録では京都山崎までの約180kmをわずか8日間で行軍を果たしている。その速さは当時の行軍としてはありえない記録的なものであった。

 その中国大返しの開始日時、ルートは不明な点も多いいが、経路は山陽道で野殿(岡山市北区)を経由して、姫路に至るルートが定説となっている。

 このルート上には吉備と播磨の国境に船坂峠という難所がある。『太平記』には、「山陽第一の難処」とある。秀吉軍2万以上の兵がこの狭く急坂のある船坂峠を抜けるのには、蟻の行列のような遅遅の歩みが予想される。

 その記録的な行軍を成し遂げることができたのには、なんらかの工夫があったのではないかということで海路も利用した説もある。数多い足軽の行軍を早めるため、兵站(へいたん)部隊が武器(銃・刀・槍)弾薬・食料等の輸送に海路を利用した可能性が指摘されるのである。その海上ルートは牛窓から坂越、片上津から赤穂岬が考えられるという。
 
 思うに、牛窓港は船の数が多いいが少し南に距離がある。片上津については山陽道に近接し、古くからの備前焼の搬出港で、当時この周辺は織田方の宇喜多氏の支配下になっており、船の早期手配が可能であっただろうし、ここで重い武器を外して船で運べば、雨で抜かるんだ急坂の峠でもさほど支障もなく通過できると考えられて、実効性がありそうだ。


帰路につく秀吉の返書

 6月5日付(本能寺の変4日後)秀吉より摂津茨木の中川清秀への返書が残されている。それによると、

 書状を野殿で読む、これより沼城まで行く予定。京都に下った者の話では、上様(信長)と殿様(信忠)は無事に難を切り抜け、近江膳所(大津市)に逃げられている。福富平左衛門の働きはめでたい。自分も早く帰城する。(大意)
と記している。

帰るコースにある野殿と沼城の具体的な地名を記していること。そのあとの内容は明智光秀に最も近い中川清秀に対して信長が生きているという偽情報を知らせ動揺しないように私が帰るまで待てと巧みな心象操作をしているのである。こんな非常時においても秀吉の人たらしの人心掌握の手腕が発揮されている。
 
参考:『日本地名大辞典』、『戦乱の日本史2』、「ウィキペディア 本能寺の変」



 
雑 感
 
 今回は、三石城の築城当時の見張りの視線を感じることができたのと第一見張り所から茂みの中の石垣が見えたことが印象に残っている。後日、地図マップを見ていると、大手道の入口は町筋からではなく、西の尾根筋先端からではないかと感じている。
 
 江戸時代には船坂峠には関所があり、山陽道の備前側には三石、播磨側には上郡町有年(うね)に宿場があったという。この船坂峠の道が今どのようになっているかについて近くには来たもののこれがその道だといういものを未だ見ていないのが心残りとなっている。






【関連】
三石城跡 
沼城(亀山城)跡

城郭一覧アドレ

丹波 福知山城をゆく

2020-05-12 10:38:27 | 名城をゆく
(2019.3.24~2019.10.31)


 
 
 今回は丹波の福知山城です。あいにく福知山市は曇り空だったが、城は整然と整備されていて、すぐに登城することができた。復元天守からは、市内が一望できる。丹波の歴史に思いを馳せるのには最適な場所となった。
 
 丹波国は明治に京都府と兵庫県に分けられ、西部が氷上郡(丹波市)と多紀郡(丹波篠山市)が兵庫県に編入され、北・東・南部は京都府側に編入された。京都側の丹波にはあまり足を踏み入れたことがなく、その歴史を探るいい機会となった。



 




 





▲周辺城郭位置図




福知山城のこと         京都府福知山市字内記
 
 

 福知山盆地の中央、西から東に延びる丘陵の先端にあって展望がきき、周囲は急な断崖となり、山麓には由良川と土師川(はじがわ)が天然の堀となって堅城を成していた。城の建っている丘陵は横山と呼ばれ、天文年間(1532~1555)丹波国天田郡で勢力を伸ばしていた横山・塩見氏の居城横山城があった。

 永禄8年(1565)横山・塩見氏は丹波黒井城主赤井(荻野)直正によって滅ぼされたと伝わる。一説に明智光秀の丹波攻めのときに滅ぼされたという。
 
 天正7年(1579)織田信長の命を受けた明智光秀は八上城(城主波多野秀治)、黒井城(城主萩野直正)を落とし、丹波を平定した。

 明智光秀は、横山城を福智山城と改名し城代に藤木権兵衛と三宅弥平次(明智秀満)を置き城の大改築をした。光秀は、天正10年(1582)本能寺の変で信長を討ったものの、山崎の戦いで秀吉に破れ、敗走中に落武者狩りにより殺された。
 
 その後、羽柴秀吉は丹波を羽柴秀勝(織田信長の四男)を亀山城主として福知山城も預けた。そうして城代として杉原家次が入る。家次病没のあと、小野木重勝(おのぎしげかつ)が城主となる。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、小野木重勝は西軍につき、東軍の細川忠興の田辺城(舞鶴市)を攻めた。城主の細川忠興は関東出陣中で、忠興の父幽斎留守を守っていたがよく防戦し和議を結び城を開城した。関ヶ原の戦いの決着後、細川忠興はただちに田辺城に向かい陥落させた。

 後有馬豊氏が六万石で入り、城郭や城下町の完成をみている。遺構の輪郭はほぼ有馬氏のときのものと考えられている。


 
 



▲城図(国立国会図書館蔵)に大手口から天守への通路書込み
 本丸までは、北側の大手門からいくつもの城門をくぐる必要がある。
 
 


 明治4年(1871)福知山城は廃城となり、建物は払い下げられ、二ノ丸は埋め立てられた。二ノ丸の建物が明治20年(1887)に取り払われ、建物の一部や瓦が寺院や民家に使用された。ただ、本丸に続いていた二ノ丸のあった台地がすべて削り取られた。二ノ丸の登城路付近にあった銅門(あかがねもん)番所が大正5年(1916)に天守台に移築された。昭和61年(1986)に大天守、続櫓、子天守が復元された。そのときに、銅門番所が本丸に再移築された。

 本来本丸・二ノ丸・伯耆丸・内記丸と連郭式城郭で繋がっていたのだが、本丸と二ノ丸以外にも伯耆丸と内記丸の間がJR福知山線の建設に伴い分断されたため、すべてが独立丘陵になっている。

 



アクセス
 
 
南のアーチの橋を渡り、天守に延びる登城路を歩けばすぐだ。


 
              ▲新たに作られた登城路 
 


 天守台の石垣は大小のあまり加工されていない自然石とともに多くの石仏、石塔、五輪塔などが転用されている。隙間が目立ちこれでよく崩れないかと心配になるが、これは野面積みで水はけがよくしっかりしているという。
 
 


▲石仏・石塔等が利用された石垣
 


 天守の東側に大きな井戸がある。深さ50mもあり海抜43mなので海より7m深く掘っており、今だに水をたたえている。
 

 

▲豊盤(とよいわ)の井
 


丹波北部にある福知山城の大天守からの展望は福知山(由良)盆地の隅々まで見える。  
 
 
 
▲北西 二ノ丸越しに由良川(音無川)が見える ▲北部
 


 
▲南西部 中央JR福知山線                         ▲西部
 



▲東部 由良川は綾部市に至る




航空写真で見る福知山城周辺の移り変わり 
 

▲昭和23年の航空写真 (国土交通省)   



▲現在 by Google Earth
 
 

  昭和23年(1948)には、川まで伸びていた丘陵は寸断されている。南にはJR福知山線が敷かれ、南に広がっていた田園がほとんどなくなっているのがわかる。

  この土地は盆地の最低湿地であって、由良川と土師川の合流地点に当たるため氾濫に悩まされてきた。
 
 


雑 感
 
  城の位置を西から東に延びる丘陵の先端と書いたが、現在は丘陵の途中が寸断されその表現は的確ではなく、最初に「かつては」との但し書きを入れるべきかもしれない。都市開発の波が、古き遺跡を飲み込んでいく中で、消えてゆく歴史的文化遺産の再生を願った人たちの思いが天守、続櫓、小天守の復元に繋がったのだろう。失ったものも大きいが、残されたものがそれを補っているようだ。

 天守台の石垣を初めて見たとき、埋め込まれた石仏や石塔の多さに驚いた。これらは近郊の寺院などから利用しているという。
 転用については、当時、信長が安土城大手の石段に埋め込んでいる。また、信長家臣の荒木村重も有岡城の天守の石垣に使っている。

この地域は、石材の調達が難しい土地柄であり、築城を急ぐあまりなりふり構わず利用したのか、それとも何らかの意図があってのことなのか、難解である。
 
 





関ケ原前夜 黒田官兵衛と長政の動き②

2020-05-11 10:52:41 | 城跡巡り
【閲覧数】1,635(2014.10.10~2019.10.31)                                   
              
 

 関ヶ原古戦場に地元郷土研究会主催の旅行で訪れた。予定より30分早く着いたので、ボランティアガイドさんの勧めで歴史民俗資料館の北向うにある黒田長政の陣跡に行くことになった。

  山すそでバスを降り、そこから山手を望むと陣旗がたなびいていた。関ヶ原の地形を見てみたいという個人的な思いがあったので、予定外の動きにワクワクしながら上っていった。

  見通しがよい陣跡からは、工場や建築物のため当時の風景とは違うが、戦場の広さと周辺の地形がわかり、南正面には小早川秀秋が陣をしいた松尾山も見ることが出来た。


 
 
 




  関ヶ原は、北は伊吹山系、南は鈴鹿山系にはさまれた南北2km、東西4kmほどの狭い地域である。古代より東西交通の要衝の地であった。伊吹山の影響を受け、日本海型の気候が見られ、冬季は北西の方角から伊吹おろしと降雪に見舞われる。




▲彦根市の佐和山城跡からみた伊吹山



 
 
 
 
 
天下分け目の関ヶ原の戦い
 
  慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とした西軍がここ美濃不破郡関ヶ原において激突した。それは全国の大名が二つに分かれ雌雄を決する天下の分け目の戦いであった。
 
 

関ヶ原の戦いまでの黒田如水の動き
 
  関ヶ原決戦が近ずくなか、九州豊前の黒田如水は豊後の主力のいない西軍の城を次々と落としていた。慶長5年8月28日如水は元の領国の奪回を狙った大友義統(よしむね)が豊後に上陸したことを知り、急きょそれを追った。豊後国速見郡(別府市)の石垣原で黒田・細川連合軍と大友軍の死闘が繰り広げられた。それは関ヶ原の戦いの2日前の9月13日であった。
 

 
黒田長政 丸山(岡山)に陣をしく
 
 長政の陣は西軍の本陣石田隊の近くの丸山に陣をしいていた。その場所は東軍の陣の中で最も高い位置にあり、味方の陣地も見通せる格好の場所で、烽火(のろし)場が置かれた。
 


 
▲南に松尾山が見える 丸山烽火場より             




▲松尾山のズーム  小早川秀秋の陣跡が残る



▲黒田長政の陣跡からのlパノラマ(北から南方面)
 



 この丸山の陣には、竹中重門(しげかど)がいた。二人は奇しくも黒田と竹中の二(両)兵衛の息子であった。二人は、長政(松寿丸)が重門(吉助)の父竹中半兵衛に匿われていたときに、関ヶ原の北東の菩提山城(垂井町岩手)に8ヶ月ほど過ごした幼なじみであった。実に20年ぶりの再会であったという。

  長政は地元であり関ヶ原の地理に詳しい重門と組み、西軍石田隊を守る屈強の島左近清興に勇猛果敢に立ち向かい追い詰める働きをし、さらに西軍の小早川秀秋や吉川広家など諸将の寝返り工作、いわゆる調略が功を奏し、戦いはわずか1日で決着した。
 
 


▲ 陣形図 (東部の布陣は省略)  昭和22年の航空写真(国土交通省)上に作図 
 
 


  戦後の論功行賞では、長政は関ヶ原で一番の働きと評価され筑前名島(後の福岡)で52万3千石を受領した。ちなみに竹中重門については、最初は西軍に組みしていたが、途中東軍に寝返えっている。関ヶ原では伊吹山中に逃げ込んだ西軍の小西行長を捕縛するなどの手柄を立て、美濃岩出山6千石を安堵され、以後幕府旗本として仕えた。

 

 関ヶ原戦陣図屏風(部分) 石田三成隊を攻撃する黒田長政隊 

 
福岡市博物館蔵
                
 


 昭和22年 大日本紡績関ヶ原工場 航空写真(国土交通省) 




 昭和22年の航空図を見ると何やら大工場のような建物が見える。ボランティアガイドさんがこの地に昭和の時代ユニチカの工場があり、女工3、500名が働き活気に満ちていたことを話されていたので、これがユニチカなら時代が合わないが・・・何だろう? と調べてみると、ユニチカの前身の大日本紡績関ヶ原工場(大正13年・1924年創業)であることがわかった。
 
 この関ヶ原町には関ヶ原の戦い、壬申の乱など歴史の転換期の貴重な遺跡・遺産が残されている。明治以降の日本の基幹産業の一つ紡績で栄えるも、ユニチカが80年代の紡績不況で去ったあと大規模な土地の再利用が町の課題として残されていることも知った。

 

 
 
 


雑 感 
  
 長政の高台の陣跡から小早川のいた松尾山や東軍・西軍の陣地を見て、おおよその地形・陣配置がわかった。次回ここへ来る機会があれば、その松尾山に登りたいと思っている。小早川が東・西両軍の陣と兵力が見て取れる格好の場所に陣をしき、いつ寝返りを決意したのか、それは陣をしく前からなのか、それとも戦況を見てからなのかを想像してみたいからである。また小早川の動きに呼応した脇坂・朽木等の陣跡も見てみたいと思っている。


関ケ原布陣図について

 関ケ原の東軍・西軍の布陣や戦いの状況などがどこまでわかり、わかっていないのか気がかりで、新しい見解や発見に興味をもっている。

 現在知られている関ケ原の戦いや布陣図は、江戸時代成立の二次史料に基づき、その文献に、『黒田家譜』、『石田軍記』、『関ヶ原軍記大成』、『大垣藩地方雑記』等があるが、互いの記述は一致していないというのである。
 私たちが、よく目にする布陣図についは、明治26年(1893年)旧陸軍参謀本部によって刊行された『日本戦史』関ヶ原の役(附表・附図)に掲載されたものがベースとなっている。これは何を根拠に作成され、あるいは創作されたのかはっきりしないのでその信憑性がおぼつかない。
 ただ、これらを基に記述された著書や映画などによって、何ら疑問もなく信じられてきたこの戦いが、最近では一次史料を基に様々な分野の研究手法により見直され、従来の説にメスが入っているのは興味が尽きない。

 よく「歴史は勝者・為政者によって塗り替えられてきた」とよく耳にする。そのため後世に書かれた文献の扱いは二次史料としての扱いであり、鵜呑みにすることの危険性もあることなど、改めて感じている。




 ▲関ケ原の布陣図 部分  『日本戦史』(附表・附図) 旧陸軍参謀本部 (国立国会図書館デジタルコレクション)


【関連】
関ケ原前夜 黒田官兵衛と長政の動き①


播磨・宍粟の城跡一覧
 



肥前 島原城をゆく

2020-05-11 09:58:07 | 名城をゆく
(2019.3.30~2019.10.31)



 長崎は今日も雨だった! 今まで城巡りの天候は比較的天候にめぐまれていた。しかし、この時ばかりは違っていた。長崎中心地から天草半島の島原城に向かう途中雲行きが怪しくなり、城跡に着いた途端雨の出迎えとなった。よって天守籠城を余儀なくされた。しかし、その分ゆっくりと城内の歴史資料・展示物を見て回ることになった。

 その中で特に印象的だったのはキリシタン関連の展示物の多さであった。あの「踏み絵」があった。キリシタン弾圧の物証の数々を目の当たりにすることになった。
雨宿りのつもりであったが、1時間半ほどの在城で外に出るや本降りとなってしまった。




▲島原城本丸天守(昭和39年・1964復元) 破風がなく威圧感がある
 





▲巽櫓(たつみやぐら)





島原城跡のこと  長崎県島原市城内


 島原城は、雲仙岳の麓の森岳という丘陵に築かれたため森岳城ともよばれた。元和2年(1616)関ヶ原の戦いで功をなした松倉重政が大和五条から有馬晴信の旧領であった肥前日野江に4万3千石を与えられて移封した。重政はしばらくして日野江城から離れ、森岳に新しい居城と城下の建設を計画した。

 城郭の建造は元和4年(1618)から7年を費やして完成させたのが、島原城(森岳城)である。『肥前有馬古老物語』城郭はほぼ長方形の連郭式平城で、本丸、二の丸、三の丸(花畠の丸)が連なり、総石垣に堀を巡らしている。城の北側に侍屋敷がおかれ、城東から城南に城下町が建設され、商人・職人の誘致が行われた。寛永4年(1627)には南北13町で1,000軒があり、当時の石高に比べて町の規模は大きかったとされている。こうして島原半島の小さな一集落にすぎなかった島原は、以後江戸時代島原藩の政庁として半島の政治・文化の中心地となった。

 明治7年(1874)廃城令により、土地建物などが民間に払い下げとなる。明治9年(1876)5層の天守閣が解体された。
 



▲古写真昭和初期   (島原市蔵)



 その後約1世紀を経て、島原市は昭和35年(1560)西の櫓、同39年天守、同47年巽櫓、同55年丑寅櫓をそれぞれ外観のみ復元した。
 



▲島原市の俯瞰   by Google Earth
 



▲1974 航空写真    (国土交通省 より)         
 



▲島原城図 (江戸中期~後期 国立国会図書館蔵) 





 

    
 天守の入口に家紋があり、その家紋をチェックすると、高力(こうりき)氏の家紋が抜けているのがわかった。高力忠房は天草・島原の乱で荒廃した南目地域の復興に尽力した人物。

高力氏の後に入った松平忠房は櫨(はぜ)の木の栽培奨励をすすめた。櫨(はぜ)の実を藩が買取り、木蝋(もくろう)を製造して大阪方面に売りさばき、藩の専売事業として藩財政の重要な柱となった。その他島原酒、蜂蜜、わかめ等の特産品が生まれた。


櫨の実から和ロウソクや白ロウをつくる

▲城内に展示




中世の島原半島

 南北朝期(1336~92)は島原半島の一帯は肥後(熊本)の菊池氏の勢力が及んでいたが戦国期に入ると弱体化し、頭角を現したのが有馬氏であった。室町期、有馬貴純は日野江城を根拠に半島の諸豪を支配し、天文年間(1532~55)には晴純が肥前国一帯を支配する戦国大名となった。

▼島原半島周辺の関連諸城位置図@



 しかし、天正年間(1573~1592)に急速に成長した佐賀城主龍造寺隆信が現れたため、有馬晴信は屈服を余儀なくされていた。しかし龍造寺氏から離反し薩摩の島津義久に援助を求め、天正12年(1584)沖田畷の戦いとなった。龍造寺隆信は大軍を率いて海路で半島の神代(こうじろ)に上陸し、三会(みえ)に進出した。軍勢では圧倒的に龍造寺軍が有利であったが、隆信が島津家久軍の急襲によって討ち取られ、龍造寺軍は全軍総退却し、以後没落した。



天草・島原の乱の背景と経過


1.生産力の低い火山灰の畑地と少ない水田

 火山灰で形成された島原の土地は、畑地が中心で米作が可能な地域は海岸の一部か谷田しかなくそれも湿田が多く、赤米の作付けの土地柄であったため生産力が低かった。度重なる天災や飢饉で安定した収穫が得られなく季節的変動が大きかったものと推測される。


2.島原半島南部はキリシタン王国

 キリシタン大名有馬晴信の支配が長く続いた島原半島南部はキリシタンが根付いていた。晴信の父もキリシタンであり、長崎港を開いた大村純忠(すみただ)の勧めもあり、晴信は熱心な信者となり島原南部はキリスト教の一大布教地となった。この時領内にあった多くの神社仏跡が破壊され、かわりにセミナリヨ(有馬・有家)やコレジオ(加津佐)の聖職者養成学校が建てられ、天正派遣欧少年使節(1582~90)ではローマ教皇のもとへ4人の少年が派遣された。しかし8年後その少年使節が帰国したときは豊臣秀吉による伴天連(ばてれん)追放令(1587)が発令されていたため、殉教や国外追放となった。

 さらに徳川の時代に入って元和2年(1616年)に秀忠は最初の鎖国令を出し、キリスト教の禁止を厳格に示した。家光は長崎奉行にキリスト教徒の捜索・逮捕を指示している。



3.松倉重政の城の建設と重税

 慶長19年(1614)有田晴信の子直純が日向に転封されたあと、松倉重政が入封した。松倉氏は島原城と城下町建設に7年に及ぶ年月をかけたが、その建設に伴う使役と重税が重く農民かけられ、キリシタンの取り締まりが行われた。松倉重政は入封当初はキリシタンには比較的穏健であったが、幕府の取り締まりの強化を受けて、きびしい弾圧を行った。2代藩主となった重政の子勝家は、さらなる容赦のない年貢の取立てと税の新設、そしてキリシタンに徹底した弾圧をすすめた。

 寛永11年(1634年)の飢饉にも救済どころか非情な取立てを強要したため、農民の窮乏と藩政への怒りが限界に近づいていったと考えられる。


4.一揆勃発、天草・島原の乱へ


 ついに寛永14年(1637)島原の南目一帯の大半その数3万8、000人に及ぶ農民が一揆に参加し、武器を持ち、代官を襲い、島原城下になだれ込み島原城を攻めた。この動きは南の天草島にも呼応し富岡城が襲撃された。(当時天草地方は肥前唐津藩2代藩主寺沢堅高の領地でキリシタンの弾圧があった。富岡城には城代として三宅重利がいた。)

 一揆軍は島原城と富岡城を落とすところまで至らず、廃城になっていた旧有馬氏の古城「原城」に籠城した。九州の諸藩の討伐軍の攻撃を撃退し、さらに幕府から派遣された板倉重昌を戦死させたが、援軍の松平信綱率いる大軍12万による3ヶ月に及ぶ兵糧攻めのあとの総攻撃で、一人残らず討ち取られ落城した。
 
 原城にたてこもった農民を指揮したのが旧有馬氏や小西行長の家臣の浪人、庄屋以下の村役人等と考えられている。そのとき一揆軍の結束の中心人物天草四郎(16歳程度の少年。本名益田、父はキリシタン大名の小西行長の家臣)がカリスマ的シンボルとして生み出されたのではないだろうか。


5.乱後の幕府の処置
 
 幕府はこの乱を農民一揆とはせず、キリシタン一揆と見解を示し、これを契機に鎖国体制、禁教の強化をすすめていった。

 乱の責任を問われた藩主松倉勝家は寛永15年(1638)改易され、斬首に処せられた。そのあと譜代大名の高力忠房が入部し、農民の年貢免除、荒廃した領土への移民奨励などの政策をとり藩政の再建をすすめた。



「島原大変肥後迷惑」(しまばらたいへんひごめいわく)

▼眉山(びざん)崩壊による地形変化  資料館展示より




 平成2年(1990)に普賢岳の噴火による大災害が起き、映像に映し出された生々しい火砕流の光景はまだ記憶に新しい。しかしその200年前に日本最大の火山災害があったのだ。

 それは慶長4年(1792)に雲仙岳が大爆発を起こし、眉山の南半分が亀裂し有明海に崩れ落ちた。そのため大津波が発生し、対岸の肥後国(熊本県)まで押し寄せ、島原と肥後の村人死者推定約1万5千人と多くの住居が失われた。その大災害が「島原大変肥後迷惑」とよばれてきた。




雑 感

 時間の制約と降りしきる雨のため、城の周辺や城下の名残りを見て回ることができなかったのは残念だったが、「天草・島原の乱」を考えさせる多くの資料を見ることができたのはよかった。いつか機会があれば、一揆軍が立てこもった原城跡と有馬氏の日野江城跡等を見てみたいと思っている。

 一揆の起きた南有馬町には日本百選の棚田(白木野谷水地区)があることも知った。耕地面積の少ないこの地ならではの傾斜地を利用した耕作地の確保だったのだろう。今はじゃがいもと米の二期作が行われているという。


参考:『日本城郭大系』『角川地名辞典』『島原城・原城 小学館』『戦国 武家家伝』他