郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

但馬 大杉城跡 

2020-05-01 09:30:35 | 城跡巡り
【閲覧数】2,318 (2016.2.30~2019.210.31) 


 
 

 ▲ 北東部より  二つの山に城跡がある 


        
▲南より          
 



大杉城跡のこと  養父市大屋町大杉字奥山

 
 大杉城は大杉集落の西側の二宮神社・福王寺の背後の尾根突端部(山下の城)と尾根上の標高450mの山頂部にある詰城(大杉高城)の2城を指す。

  山下の城跡は堀切を主郭(11m×23m)の背後に二つ、前方に一つもち、前方の曲輪には帯曲輪群が取り巻いている。



▲大杉城跡縄張り図 大屋町史より (一部着色)

▲大杉城縄張り全体図




 城主は不明である。築城時期は南北朝期時代に尾根筋に築かれていたものが、戦国時代に主郭に堀切・竪堀や土塁で改修されたと考えられている。城主居館跡は城の位置から大手口にあたる大福寺・二宮神社の位置にあったと想定される。
 特筆すべきは、大屋の城の中では帯曲輪群を持つ城跡はここだけであり、二重の堀切や竪堀そして山頂部に詰城を設けるなど、防御に優れているといえる。ただ、城自体が小規模であることから村落領主レベルの城ではないかと推定される。

 城の位置は、播磨(宍粟市波賀町)に通ずる街道にあり、播磨からの侵入を押えるものであったと考えられている。     参考:大屋町史より
 


アクセス
 


▲大杉城位置図
 


大屋町の大杉集落の二宮神社・福王寺を目指す。
二宮神社の上部に福王寺の妙見堂があり、その左に大杉城の登山口の案内板がある。
 


▲二宮神社参道の石段                                    ▲二宮神社

               

 
▲妙見堂の左が登城口           ▲案内板には「大杉城址登山口」とある             


この先に防獣フェンスがあるので、そこを開けて進む。案内板に書かれている登山道は見当たらない。フェンスの開け直登すれば最初の曲輪が現れる。近年の地籍調査で、杉の木にピンクのマーキングや尾根筋に調査杭が打たれてるの、それが道しるべになっている。
 


 
▲フェンスの上部に取り付く            ▲杉林の上に曲輪群がある


 
ものの10分ほどで、帯曲輪に囲まれた最初の曲輪跡があります。曲輪の先に堀切がある。
 
 

 
▲最初の曲輪と崖状の切岸              



▲尾根筋を削平した曲輪跡
 
 


▲最初の堀切 上部から


 
堀切の奥には主郭があり、主郭の背後にも二重の堀切がある。
 




▲主郭の先端部
 


▲二重堀切の内側                



▲二重掘切の外側
 



▲主郭から見た頂上(高城)




 二重堀切の背後の尾根筋上に山頂(標高450m)があり、そこに詰城(大杉高城跡)がある。その高城まで距離460m、約30分から40分要する。
  頂上には約12m×15mの円形状の広さの曲輪跡があり、北西部に大きな堀切・竪堀がある。
この高い詰城跡に堀切があるのは尾根筋からの侵入を防ぐためだろうが、驚きである。
 
 
 
 ▲頂上近く かなりの急斜面        



▲頂上手前の小曲輪


 
▲山頂の曲輪跡              



▲一箇所北西にのびる谷筋が見える
 


 
▲詰城の大きな堀切(上部から)
 
 


雑 感
 

 「おらが城」といってもいいような小規模な山城跡が大屋川に沿う集落ごとに存在していることを大屋町史から知った。その城跡の多くは、城史や城主が不明だが、それがかえってどのような人物が何のために作り上げたのかを城跡の位置や形態・規模からいろいろ想像するようになり、探索が楽しみになっている。

 元々城跡巡りから、その地域の歴史や地名を知るというスタンスをとってきたが、今但馬が面白い。



【関連】
周辺の城跡
・但馬 蔵垣城跡
・但馬 加保城跡
・但馬 田和城跡

◆城郭一覧アドレス

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備中 松山城 をゆく (1)

2020-05-01 08:47:01 | 名城をゆく
(2019.3.25~2019.10.31)




 山城に興味を注いでくれた最初の城は、備中松山城だった。江戸時代の城のほとんどが山麓や平地に築かれているのに対し、この城はなぜか高い山頂に築かれ、今もなお美しい天守が備中高梁の地を見守っている。

  案内板の沿革をみると、昭和の初期高梁中学校の一教師の地道な城の調査結果がその保存の契機となり、有志による保存会が発足し、朽ち果て崩落寸前で食い止められたという。





▲天守                             



         ▲天守の後面




 ▲三ノ丸から二の丸への長塀 


             
        
▲天守の窓から              




▲大手櫓門跡から二の丸を望む



▲三の丸から二の丸方面を望む





▲崩壊寸前の本丸(昭和初期)     


▲二重櫓



備中松山城と城主のこと  岡山県高梁市内山下1 


  備中松山城は、高梁川を天然の堀とし、臥牛山(がぎゅうざん)の峰の一つ小松山(標高430m、比高350m)上に築かれた天守閣を現存する日本唯一の山城である。日本の三大山城の一つとしてあげられている。

  この城は、鎌倉時代に有漢郷(うかんのごう)(現高梁市有漢町)に地頭としてやってきた秋庭重信(あきば しげのぶ)が臥牛山の大松山に砦を築いたのを起源とし、天和3年(1683)に水谷勝宗(みずのや かつむね)によって3年がかりで修築され、今の天守となったという。


 
▲備中国松山城図 (国会図書館蔵)                  


  
▲城内の案内板より



  この地域は備中国の中心部、山陰と山陽を結ぶ主要地であるため、戦国時代に入り備中松山城争奪戦が目まぐるしく繰り広げられている。その動きをたどって見るとこの備中とその周辺の地(備前・美作・備後)の中世の歴史が面白い。

 戦国時代後期には備中の星田や成羽を地盤とする国人領主の三村氏が備中の半分を治めるほどの力をつけたが、宿敵備前の宇喜多氏が前に立ちふさがり備中国制覇の野望は打ち砕かれ滅びてしまう。その宇喜多氏は、織田と毛利の戦国の巨大勢力の狭間でしたたかに生き延びたのである。

 中世の世が去り、江戸時代に入ると、この地に小堀政次・政一父子が奉行代官としてやってきた。茶人で有名な小堀遠州とはこの小堀政次の長男政一であり、築城や造園などにも精通し、この松山城の設計にもかかわったといわれている。

 元禄7年(1694年)、備中松山藩水谷家が後継ぎがなく改易となった際、大石内蔵助が主君浅野内匠頭の代理として城の受け渡しのため、この地に滞在している。 しかし皮肉なことに、6年後刀傷事件による赤穂藩取りつぶしにより赤穂城を幕府に引き渡すという無念の役が待ち受けていた。
 


松山城下屋敷図 幕末頃 (案内板より)



 
▲往時の町並みを残す


 

 
▲武家屋敷(旧埴原家住宅) 市重文

 
 

※広報たかはしの「地名を歩く」を紹介します。気に入っています。

【関連】
→ 備中 松山城 をゆく (2)

◆宍粟・播磨周辺の城郭 アドレス一覧