郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

但馬 男坂城跡

2020-05-06 10:33:10 | 城跡巡り
【閲覧】829(2016.11.6~2019.10.31)     
 



▲男坂城跡全景  南から
 


 
 ▲鳥瞰   (by google)
 





 男坂城跡のこと   養父市大屋町宮垣天神山



 男坂城跡は、大屋川左岸(北岸)に張り出した尾根の先端部(標高130m、比高約30m)にある。男坂神社の本殿のある最上部に主郭(東西30m×南北28m)があり東に2段の帯曲輪と曲輪(41m×23m)跡が残る。主郭背後には尾根筋の侵入を防ぐための堀切があったが、近年の撹乱により破壊されている。城主は不明だが、対岸の三方城の三方氏の一族と思われる。

 尾坂城は三方城の出城・支城として三方城と川を挟んで、東の大屋口と北の琴弾峠からの侵入路を押さえていたと考えられる。 

 主郭には男坂神社が祀られている。住所地名が字天神山とあり、北裾を流れる谷川は天神川、大屋川に掛けられた橋は天満橋と天神さんゆかりの地名・名称が残されている。これは、江戸時代に出石藩封内明細帳に天神社とあり、もともと天神社として祀られていたものが明治3年(1870)に男坂神社に改称されたからである。
  参考:
 

男坂城縄張り図   大屋町史より
 



アクセス
 
 大屋川に沿いの県道6号(養父宍粟線)で宮垣集落に入れば北岸に尾坂神社があるのですぐわかる。北からの場合は琴引トンネルを抜け県道との交差点の左手すぐである。
 
 
 
   
▲神社(城跡)入り口               ▲真っ直ぐな石段
  
                                      
 
神社の石段が真っ直ぐ敷かれている。曲輪跡を貫いているので、縄張り図を見ながら進むと、両脇に曲輪跡が容易に確認できる。
 
 
 
▲石段途中 右手に延びる曲輪跡                  ▲本殿下の切岸
 
 
 
▲男坂神社
 


 
▲神社の背後 階段を降りた所に堀切があった         ▲埋められた堀切の先には竪堀跡が残る 
 
 

 
▲削り取られた尾根筋背後                                           ▲神社の背後が宅地化されている
 


▲背後からみた景色 南西部
 
 



▲昭和39年(1964)の航空写真(国土交通省)



雑 感


 男坂城跡の背後は住宅地が建ち並び道路が北に延びているが、城が機能していた戦国期にはなだらかな丘陵の尾根先端部の高台で、北の琴弾峠への道はこの城の前を通らなければならなかった。そのことは城の正面の東と北につながる琴弾峠の道を見張る最適な場所で、三方城を守るための好位置にあることがよくわかる。
 
 棚田の発達したのどかな但馬の深い谷合も昭和から平成にかけて県道が整備拡張され、この宮垣に琴弾トンネルが開通し、峠越えの道が役目を終えた。このトンネルによって大屋から但馬中心部へのアクセスが便利になり地域の生活圏が大きく広がった。昔は一度大雪が降るとバスが長く運休したことがあったが、道が整備され雪も少なくなったこともあって、今はそのようなことはほとんどないという。
 

 
[関連]
・三方城跡



周防 岩国城をゆく

2020-05-06 09:13:05 | 名城をゆく
(2019.3.27~2019.210.31)i




  ずっと前に錦帯橋には行ったことがあったが、今回は所用のため九州へ行った帰りに立ち寄り、城山に登った。登ったといっても、ロープウェイ利用の楽な登城だった。
 


 




▲岩国城天守(昭和37年復元)
 




▲錦帯橋と岩国城
 
 
▲橋からの遠望                      ▲ロープウェイ 

 
▲二の丸の石垣             




▲出丸の石垣
 



▲復元天守台 半壊の石垣を復元した         
 



 
▲大釣井 山城でこれほどの大きな井戸は珍しい



   天候にめぐまれ錦帯橋から城の遠望や復元天守からの展望を楽しむことができた。清流錦川と錦帯橋そして山上の城が一体となった類のない名勝地であることを改めて感じた。
 


 
▲本丸からの遠望                     ▲ズーム
 



岩国城(別名横山城)のこと   山口県岩国市横山


 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで西軍の総大将毛利輝元は東軍徳川家康に敗れた。 その結果、改易こそまぬがれたが、所領8カ国120万石から防長2国37万石と大幅に領地が削減された。 毛利輝元は広島城から山陰の山に囲まれた萩の地に移った(長州藩)。毛利元就の孫吉川広家は、岩国領3万石を与えられ出雲の月山富田城より当地に赴いた。
 
  慶長6年(1601)広家は、錦川がとりまく横山(標高216m)の山麓に居館、山頂に山城、対岸に城下町の建設に着手した。山城は、本丸と南西に二の丸、北東に北の丸、空堀等を配備し、山麓に領主の居館「御土居(おどい)」を築き、諸役所や上級武士の屋敷を配置し、錦川に大橋を架け、その橋に続く錦見(つるみ)に整然と町割りを設け、中下級武士屋敷と町家を整備していった。
 
 


▲鳥瞰 横山の山麓に武家屋敷・対岸の錦見に町家を配した  by Google Earth
 



▲案内板より
 


  
▲香川家長屋門 
 


▲目加田家住宅
 



 慶長13年(1608)山上には唐造り天守が完成した。それも束の間、元和元年(1615)に幕府の一国一城令※により、わずか7年で破却された。以後山麓の土居を陣屋として、幕末までこの地を治めた。

 萩藩(長州藩)は、藩を分割し、長府、徳山を分家させそれぞれ支藩とするが、幕府には岩国領を支藩とする届け出をしていないため、吉川広家は、長州藩からは家臣扱いとされ、諸侯の列席に加えられなかった。一方徳川家康からは岩国築城の許可を受け、江戸に藩邸をもち参勤交代も行う大名格扱いの待遇※を得ている。幕府の扱いは変則的ではあったが幕末まで変わらなかった。

※毛利家の場合は、周防国、長門国の二令制国なので、2城を残せるはずであり、周防国内の岩国城を破却する必要もなく、毛利家内部の支藩統制上の思惑が優先したためではないかと考えられている。

※関ヶ原の戦いでの吉川広家は家康と内通し、西軍に組みしても戦わないことを約束し毛利の所領安堵の保証を得ていたとされる。ゆえに戦後処理で広家が幕府の評価を得ることができたようである。

 吉川広家は、岩国領内の統治法を制定し、岩国の開発につとめ、広正がその跡を継いだ。次男は、吉見家に婿養子となり、その後毛利就頼(なりより)と改姓し、長州藩一門の家老となる。




 
▲毛利・吉川との略系図 



▲近世吉川氏の用いた家紋・九曜紋





雑 感

  川幅200mもある錦川に石脚に並ぶ5連のアーチは、江戸時代の諸国名所図会や国貞の浮世絵版画にも描かれおり、山陽道の往来の旅人たちが対岸から四季折々の奇橋を楽しんだことだろう。



 
▲六十余州名所図会(国立国会図書館蔵)          ▲諸国名所百景・広重(国立国会図書館蔵)
      
 

 
▲版画 高瀬舟の往来が見える  
     


    
 
▲風流な屋形船 錦川では鵜飼が行われていた                 



 この名所の図会や浮世絵版画に描かれた錦帯橋の背後にあったであろう横山の城は描かれてはいない。

 その理由は、岩国城(横山城)の天守は現在の復元天守の30mほど北側にあって、北の安芸国方面をにらんでいたので、築城時は大橋(錦帯橋とは呼んでいなかった)からは天守の頭部分だけしか見えなかったはずで、それもわずか7年間の幻の城だったからである。

 昭和の天守復元によって、錦帯橋と岩国城が一体となる絶好のビューポイントが生み出されたといえる。

 錦帯橋は、氾濫による流失が繰り返されてきた。それにめげず流されない橋に改良が重ねられたという。木の材質や組み合わせの知恵の結晶が独特の木橋を作り上げていった。今更ながら日本人の知恵・技術のすばらしさに誇りを感じている。




 
▲古写真 大正時代の修理作業             
 

 時間の都合上、城下の町並みは見ていない。いつか訪れる日に、錦見(にしみ)地区の往時の城下町の名残りを見てみたいと思っている。
 



▲アーチと城
  



▲錦帯橋周辺観光案内図より