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天神山城跡 全景
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▼西からの鳥瞰
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▼天神山城鳥瞰図 本丸説明板より
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▲天神山城古図 『吉備群書集成』より
備前 天神山城跡 岡山県和気町田土
備前 天神山城は、浦上宗景が築いた連郭式の山城です。備前三石城※よりこの地に城を築き、居城としました。
ときは、天文20年(1551)尼子晴久が備前に侵攻し、その対応に際し、浦上村宗の嫡男である浦上政宗(室津城主)とその弟の宗景(三石城主)は意見が分かれ、尼子と手を結ぶ兄と尼子と対決を求む宗景は、備前の覇権を賭けて戦うことになりました。享禄4年(1531)に三石城(備前市)から天神山に移り城を築きはじめました。その後、安芸の毛利の援護を受けて、諸合戦を勝利し、備前の支配権を手中にしました。そのとき、宇喜多能家(よしいえ)の孫の直家を召し抱えました。直家は宗景の有能な片腕となり、備前・美作の支配を強固なものとしました。
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永禄7年(1564)兄の浦上政宗は室津城において、龍野城主赤松政秀に、二男清宗とともに討ち取られたことにより浦上宗景は室津周辺の領地をも接収し、勢力を拡大しました。元亀元年(1571)宗景は、西国に勢力を伸ばす織田信長と結び備前・播磨・美作の支配権を認められた。しかし、家中で勢力を拡大していた宇喜多直家はこれに反対し、毛利と結び、天正2年(1574)浦上誠宗(なりむね)の子久松丸を奉じて、浦上家復興を名目に天神山城の宗景を攻めました。
天正5年(1577)家中で内応するものがあり、遂に宗景は城を放棄し播磨へと遁走(とんそう)したといいます。
アクセス
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和気町の市街地より吉井川沿いの国道374号線で北へ約4km。井堰を過ぎると天石門別(あめのいわとわけ)神社があります。
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神社の左に登り口があります。この道は、急な斜面上にあります。
▼天神山城址登山口
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▼登山途中
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しかし、登山途中の眼下の絶景はすばらしく、しばし疲れを忘れさせてくれます。ゆったりと蛇行する吉井川の清流は、上るほど雄大に見えます。
▼西の展望
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▼南の展望
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右手に、岩の露出が見えます。見張り所、武者落としの畳石、天神地蔵などが途中に見られます。
▼岩の露出
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▼見張り所
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登り始めて約40分。上方が明るく、なだらかになったさきに、石垣が現れました。
▼城域の手前
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▼「下の段」の石垣
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そこは城域の西の端にある「下の段」です。その上に西楼台があり、さらに鍛冶の段、三の丸、桜の馬場、大手門、本丸と直線的に続きます。
▼下の段 侵入者をここで食止める
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▼西楼台 佐伯平野の見張り台
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▼休息所
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▼三の丸
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▼桜の馬場
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▼長屋の段 武器・食料倉庫跡
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▼二の丸
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▼空堀
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本丸には4~5mの石碑が建てられています。
▼記念碑の建つ本丸
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▼本丸の東
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本丸から、さらに東には「飛騨の丸」、「馬屋の段」、「南楼台」、「南の段」とつづき、大きな堀切があります。その向こうには天神山城の古い城跡「太鼓丸城跡」が残っています。
▼飛騨の丸
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▼馬屋(まや)の段
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▼南楼台
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下山は、「飛騨の丸」南の天瀬侍屋敷跡方面1.3kmを進みました。山麓近くに、広い侍屋敷跡が残っています。
▼侍屋敷跡(天瀬登山口)下山
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▼下山途中からみた本丸周辺の石垣
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▼下山途中から見える吉井川
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▼侍屋敷跡 (ぐるみの段)
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▼下山口(登山口)
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▼看板の天瀬侍屋敷図
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この下の道は、片上鉄道の廃線の跡が整備され、自転車専用道路となっています。ここからは、もとの登山口まで歩いてすぐです。
▼自転車専用道路
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▼元片上鉄道トンネル
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雑 感
もとは赤松家臣であった浦上宗景が、赤松と決別し、主君赤松を凌ぐ勢力を持ち、信長から備前・播磨・美作の所領朱印を受ける一大名にまでなったが、片腕たる宇喜多直家に背かれ、わずか45年の居城で幕を降ろしました。そして、落城後は播磨へ遁走したとされています。
本丸の記念碑には「九州宮崎 後裔 浦上宗次建立」とあり、浦上氏は黒田官兵衛をたよりに九州筑前に下ったと伝えられるが、その足取りが気になります。落城年月については、通説の天正5年ではなく天正3年という説が浮上しています。また、この城は落城した後、焼き払われたとされていますが、瓦の遺跡の製造年月などによるとしばらくは使われた可能性があるようです。
◇地元と人の話では、マムシが多いとのことです。春から夏にかけては、ご注意を!
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