郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「青木・上石井」

2020-01-31 12:08:12 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「青木・上石井」  佐用町(現佐用町)

【閲覧数】1,936件(2010.12.3~2019.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)






■上石井(かみいしい)
 美作国吉野郡に属し、同郡青木村の北、佐用川の上流域の標高500m台の山間の谷間に立地する。西は同郡西町村(現岡山県大原町)。
 地名の由来は、播磨国風土記に記載の伊師は、旧石井村をさし、川の底(しり)が床(いし)のようであるから伊師というと説明し、その上流にあたるところを上石井という。

 山間地で日照不足による冷害に悩まされることが多かったが、弘化2年(1845)、安政4年(1857)悪天候による凶作のため救済嘆願書が出されている。明治初年頃に東町分を分離したが、同5年再び合併。同14年青木村を合併、東町分は再び分離して西町村に合併。 
 氏神は八幡神社。寺院は真言宗相応寺。明治9年岡山県に所属。明治14年青木村と合併。明治22年石井村の大字となり、昭和30年からは佐用町の大字となる。

    明治30年頃から畜産・養蚕・製炭業に従事する者が多く、コンニャク玉栽培も盛んになる。明治32年下石井の一部児童を平福小学校へ委託。を営み、農家の収入源となり、昭和25年頃まで続いた。



▼上石井(青木を含む)の小字図






■青木(あおき)
 美作国吉野郡に属し、同郡下石井村の北、佐用川上流域の谷間に位置。両側の山地は標高400m台。西は同郡西町村(現岡山県大原町)。
 地名は、通行人の目印になる大きな木(大木)に由来するという。中世石井荘を支配した小守氏館跡と伝える構えの段があり、また、小守次郎太夫の墓も当地にある。

 明治9年岡山県に所属、明治14年上石井村と合併する。







◇今回の発見
上石井村・青木村は、古くは、美作国大原町に通じる標高400m~500mの山間の谷間で、江戸期には冷害に悩まされていた地域。今は日名倉山域を中心とした自然環境を生かした施設「ゆう・あい・いしい」が建設された。




山崎城(鹿沢城) その1 

2020-01-31 10:14:36 | 城跡巡り
【閲覧数】3,521件(2010.12.24~20219.10.31)



山崎城(鹿沢城)(その1) 
~山崎城築城の背景と藩主の変遷~


   天正8年(1580)5月10日、宇野氏の本城篠ノ丸城、水城とが秀吉軍により落城した。その秀吉軍に加わっていた神子田正治(半左衛門)が戦功により宍粟郡を領し、 天正12年(1584)黒田官兵衛に支配が移った。天正15年(1587)官兵衛は豊前中津(大分県中津市)12万石で移封になった。

 そして、宍粟郡は、竜野城主木下勝俊(姫路城主木下家定の長男)が治めることになった。勝俊は宍粟郡を領すると、手始めに山崎に新町づくりを命じた。これによって山崎村と山田村を結ぶ一筋の町場が形成され、市が立つようになった。

 慶長5年(1600)の関が原合戦後、池田左衛門輝政が姫路城主となり、播磨52万石の領主となり、宍粟郡も池田氏領となった。

 慶長18年(1613)池田輝政の後を継いだ嫡男池田利隆(15歳)が姫路城主となり、宍粟・佐用・赤穂郡が池田忠継の所領となった。しかし、2年後17歳で没したため、実弟の3男忠雄が跡目を継ぐが、そのとき兄弟に領地を分け与えたため、宍粟(3万8千石)は池田輝澄(てるずみ)が領主となり、山崎の地に本拠を置くことが決まった。弱冠12歳だった。輝澄の時、山崎町鹿沢の地に屋形が構えられ、外堀の北側に城下町が形成されていった。
 寛永8年(1631)佐用郡2万5千石(2万3千石とも)が輝澄に加封されたので、宍粟藩は6万3千石となり、急激な発展を遂げることになり、ほぼ現在の町場の原型が出来あがった。
  
 寛永17年(1640)輝澄はお家騒動の責任を負い改易され、同年、泉州岸和田から松井康映(やすてる)が入封し10年後の慶安2年(1619)岩見国浜田へ移封となった。

    そのあと、宍粟郡は一時天領(幕府領)となるが、慶安2年(1649)岡山藩主池田光政の弟恒元が3万石で入封した。その後、嫡子政周(まさちか)、そうして数馬(養子)を迎えるものの延宝6年(1678)6歳で夭逝したため、後継がなくなり断絶した。

 そこで、延宝7年(1679年)本多忠英(ただひで)が大和郡山市から入封し、山崎藩(1万石)の陣屋として明治維新(1868)まで8代189年間の統治が続いたのである。



▼山崎城(鹿沢城)  




北の表門から見た陣屋絵図(享保10年(1725)武間家客中秋月磐水之画・模写)





    山崎城(鹿沢城)は内堀・中堀・外堀をもつ城郭としての形式ではあったが、天守は未完成のままであった。本多氏の入封により城は陣屋と呼ばれ、陣屋を拠点として藩政を維新まで果たした。現在その遺構は、紙屋門と土塀の一部だけとなった。昭和2年に小学校表門両側の掘りが埋めたてられ、昭和中期(昭和32年頃)まであった紙屋門右の角櫓(すみやぐら)も取り壊されて城・陣屋のよすがを偲ぶことは難しくなった。



▼紙屋門の上部



▲山崎藩陣屋門(紙屋門)説明板



   城跡は、今ではわずかな遺構と城図から想像するしかない。しかし藩政時代が残された多くの覚帳(藩日誌)の解読により、その本多山崎藩190年の藩内の武家や町民の歴史が明らかにされつつあるのと、その遺産の中に幕末のころに描かれた山崎陣屋の貴重な写生図(山崎藩士遠藤源介画)10枚が残されいる。次回紹介します。

参考: 「山崎町史」


【関連】播磨・宍粟の城跡一覧

地名由来「下石井・水根」 

2020-01-30 09:01:05 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「下石井・水根」  佐用町(現佐用町)

【閲覧数】1,812件(2010.12.3~2019.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)




■下石井(しもいしい)
 美作国吉野郡に属し、佐用郡友延村の北、吉野郡中山村の東、佐用川上流域の谷間に位置し、両側の山地は標高400m前後である。峠・中土居・大船・中の原の区域を下石井という。明神ヶ獄と称する景勝地がある。球石を産する。
 地名の由来は、播磨国風土記に記載の伊師は、旧石井村をさし、川の底(しり)が床(いし)のようであるから伊師というと説明している。川底に見られる岩盤や、川端の風景に特徴がみられる。

 氏神は下石井八幡神社。同社境内のケヤキの大木は県指定天然記念物。寺院は真言宗大船(たいせん)寺で、境内に室町初期の花崗岩製の宝篋印塔がある。小野に美作津山藩主森氏の祈願寺であった慈恩寺という寺があったといい、現在でも最大のカヤノキの下に大日堂が建つ。ほかに護国寺・安宗寺という寺もあったといわれる。平成7年の発掘調査で、三山遺跡から中世の堀立柱建物跡、古瀬戸の瓶子(へいし:壷の一種)、石硯など13~15世紀の遺物が発見されている。明治9年岡山県に所属、明治22年石井村の大字となり、昭和30年佐用町の大字となる。



▼下石井の小字図







■水根(みずね)
 美作国吉野郡に属し、同郡青木村の東、海内村の西、佐用川上流の支流水根川現流域の山中に位置、壇ノ平山麓。周囲の山は400mを超え、最高点は621m。
 地名の由来は、根は山や台地の麓(ふもと)をさし、水量の多い山麓の村から。
荒神社があった。庄屋は海内村庄屋が兼帯していた。

 石井村役場を地内羽蔵に設置。明治30年頃から畜産・養蚕・製炭に従事する者が多くなり、またコンニャク玉を栽培していた。昭和40年頃から転出者が多い。


▼水根の小字図





◇今回の発見
石井は風土記に記載の伊師からという。たたみ岩という平たいテープル状の岩がある。



地名由来「庵・桑野・海内」

2020-01-29 12:37:00 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「庵・桑野・海内」  佐用町(現佐用町)

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地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)




■庵(いおり)
 平福村の東、佐用川支流の庵川沿いに位置し、下庵・庵・小和田の3集落がある。両側は300m~400m級の山地。地名の由来は、奥長谷・桑野と当地の境界の山には、大化年間(645~650)に法道仙人が岩穴に住み、また、役小角(えんのおずぬ)が来たという伝承があって行者山といい、のちに行基が巡錫(じゅんしゃく)して、ふもとに庵を建てたことによるという。

 氏神の吾勝速日(あかつはやひ)神社横には正蓮(しょうれん)庵があり、開基の行基作と伝えられる阿弥陀如来坐像が本尊。天正12年美作国宮本村(現岡山県大原町)で生まれた宮本武蔵、母の死後継母を慕って平福村を訪れ、叔父の僧道林坊のいる正連寺で学び、行者山に登って修練したといわれる。行者山の頂上近くには大きな洞窟があり、和正谷を登るといくつもの小洞窟がある。明治22年平福村の大字となり、昭和3年平福町、昭和30年より佐用町の大字となる。

 明治30年頃から米・麦作のほか畜産・養蚕を営み、農家の主要な収入源となり、また、冬期に製炭業に従事する者もあった。昭和12年頃から働き手の青壮年が減り、畜産・養蚕関係の生産が激減、昭和25年頃からは化学繊維が一般的となり、農業も機械化され、他の職に従事する者も多くなった。


▼庵の小字図 







■桑野(くわの)
 美作国吉野郷に属し、同郡下石井村の東、佐用郡庵村の北、佐用川支流の庵川の上流谷間に位置する。周辺の山地は急峻で標高400mを超える。東は山を境にして播磨国宍粟郡上三河村(南光町)もと宇喜多氏領、慶長8年美作国津山藩領、元禄10年幕府領、慶応元年からは明石藩領。庄屋は海内村庄屋が兼帯していた。
 氏神は八幡神社。その社叢は「八幡神社のコヤスノキ叢林」として県指定天然記念物。

 明治9年岡山県に所属、明治22年石井村の大字となり、昭和30年からは佐用町の大字となる。



▼桑野の小字図







■海内(みうち)
 美作国吉野郡に属し、同郡桑野村の北東、庵川の源流地帯に立地。周囲は標高500m~600m台の急峻な山地である。東は播磨国宍粟郡船越村(南光町)。
 地名の由来は、小川谷の小盆地にある湿地・低地を水の内(みのち)ということによる。集落より12町余で播美国境の寺坂峠(標高376m)に至り、峠を越すと宍粟郡上三河村に通じる。当村や桑野村などでは茶を産し、石井茶といい、播州平福へ出して、諸州へ売られた。また、コンニャク玉の生産地としても知られていた。

 氏神の八幡神社境内には、月光菩薩像など数体を安置する建物がある。

 明治9年岡山県に所属。明治22年石井村の大字となり、昭和30年からは佐用町の大字となる。明治30年頃から養蚕・畜産・製炭業に従事するものが多くなり、またほとんどの家でコンニャク玉を栽培していたが、昭和30年前後から原因不明の病害にかかり、栽培が不可能になった。地内には神内・上土居・堤土居・蓑畑の4集落があったが、蓑畑は現在は無住。農家の収入源となり、昭和25年頃まで続いた。



▼海内の小字




◇今回の発見
・庵にある正蓮庵は、幼くして父母と死別した宮本武蔵がここで起居し、経を読み、書を習い、近くの行者山で修練したと伝えられている。
・桑野や海内を含む佐用町の北部8村は、江戸期以降、美作国吉野郡(岡山県)に属していた。美作国と播磨国(兵庫県)の国境の一つに寺坂峠があり、宍粟郡上三河村(現佐用町の南光地区)と海内村・平福宿がつながれ、物流と人的交流があったようだ。