郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「庵・桑野・海内」

2020-01-29 12:37:00 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「庵・桑野・海内」  佐用町(現佐用町)

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地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)




■庵(いおり)
 平福村の東、佐用川支流の庵川沿いに位置し、下庵・庵・小和田の3集落がある。両側は300m~400m級の山地。地名の由来は、奥長谷・桑野と当地の境界の山には、大化年間(645~650)に法道仙人が岩穴に住み、また、役小角(えんのおずぬ)が来たという伝承があって行者山といい、のちに行基が巡錫(じゅんしゃく)して、ふもとに庵を建てたことによるという。

 氏神の吾勝速日(あかつはやひ)神社横には正蓮(しょうれん)庵があり、開基の行基作と伝えられる阿弥陀如来坐像が本尊。天正12年美作国宮本村(現岡山県大原町)で生まれた宮本武蔵、母の死後継母を慕って平福村を訪れ、叔父の僧道林坊のいる正連寺で学び、行者山に登って修練したといわれる。行者山の頂上近くには大きな洞窟があり、和正谷を登るといくつもの小洞窟がある。明治22年平福村の大字となり、昭和3年平福町、昭和30年より佐用町の大字となる。

 明治30年頃から米・麦作のほか畜産・養蚕を営み、農家の主要な収入源となり、また、冬期に製炭業に従事する者もあった。昭和12年頃から働き手の青壮年が減り、畜産・養蚕関係の生産が激減、昭和25年頃からは化学繊維が一般的となり、農業も機械化され、他の職に従事する者も多くなった。


▼庵の小字図 







■桑野(くわの)
 美作国吉野郷に属し、同郡下石井村の東、佐用郡庵村の北、佐用川支流の庵川の上流谷間に位置する。周辺の山地は急峻で標高400mを超える。東は山を境にして播磨国宍粟郡上三河村(南光町)もと宇喜多氏領、慶長8年美作国津山藩領、元禄10年幕府領、慶応元年からは明石藩領。庄屋は海内村庄屋が兼帯していた。
 氏神は八幡神社。その社叢は「八幡神社のコヤスノキ叢林」として県指定天然記念物。

 明治9年岡山県に所属、明治22年石井村の大字となり、昭和30年からは佐用町の大字となる。



▼桑野の小字図







■海内(みうち)
 美作国吉野郡に属し、同郡桑野村の北東、庵川の源流地帯に立地。周囲は標高500m~600m台の急峻な山地である。東は播磨国宍粟郡船越村(南光町)。
 地名の由来は、小川谷の小盆地にある湿地・低地を水の内(みのち)ということによる。集落より12町余で播美国境の寺坂峠(標高376m)に至り、峠を越すと宍粟郡上三河村に通じる。当村や桑野村などでは茶を産し、石井茶といい、播州平福へ出して、諸州へ売られた。また、コンニャク玉の生産地としても知られていた。

 氏神の八幡神社境内には、月光菩薩像など数体を安置する建物がある。

 明治9年岡山県に所属。明治22年石井村の大字となり、昭和30年からは佐用町の大字となる。明治30年頃から養蚕・畜産・製炭業に従事するものが多くなり、またほとんどの家でコンニャク玉を栽培していたが、昭和30年前後から原因不明の病害にかかり、栽培が不可能になった。地内には神内・上土居・堤土居・蓑畑の4集落があったが、蓑畑は現在は無住。農家の収入源となり、昭和25年頃まで続いた。



▼海内の小字




◇今回の発見
・庵にある正蓮庵は、幼くして父母と死別した宮本武蔵がここで起居し、経を読み、書を習い、近くの行者山で修練したと伝えられている。
・桑野や海内を含む佐用町の北部8村は、江戸期以降、美作国吉野郡(岡山県)に属していた。美作国と播磨国(兵庫県)の国境の一つに寺坂峠があり、宍粟郡上三河村(現佐用町の南光地区)と海内村・平福宿がつながれ、物流と人的交流があったようだ。


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