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郷土の歴史と古城巡り

地名由来「口長谷・奥長谷・宗行」

地名由来「口長谷・奥長谷・宗行」  佐用町(現佐用町)

【閲覧数】2,193件(2010.11.29~2019.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)





■口長谷(くちながたに)
 佐用川支流長谷川下流域の山間。横坂村の北、佐用川左岸に合流する長谷川沿いの谷間に立地。殿町・塩谷・坊・中島の4集落がある。地名の長谷は、行基の開基といわれる高伏山長谷寺にちなむ。奥金近との境界付近の申山(もうすやま)で約2億年前の2枚貝モノティスの化石が発見された。

 古くは「ながたに」と称し、奥長谷村と一村であった。氏神は奥長谷八幡社と若一王子神社の2社。寺院は真言宗遍照寺。怪談播州皿屋敷の話が伝承され、お菊の墓や子孫もあり、青山鉄山の墓も飯の山にある。また、別所の構は、中世の利神城主別所氏代々250年の居住地域である。当地の最後の領主松井康弘は幕府滅亡後帰郷、城坂に墓がある。明治6年遍照寺に精得小学校開校。同22年長谷村の大字となり、昭和30年より佐用町の大字となる。明治24年長谷尋常小学校設置、同30年校舎新築。明治30年頃から畜産・養蚕が米麦作とともに主産業となる。大正13年電灯架設。


▼口長谷の小字図




■奥長谷(おくながたに)
 口長谷村の北東、佐用川支流長谷川上流の狭い谷間に位置し、両側の山地は標高400m台である。田坪・中村・深山口・横尾の4集落がある。東は山を境にして、上三河村・中三河村・下三河村(南光町)。北西の鷲栖山には、庵・桑野との境界で、役子角(えんのおずの/ね)や行基の伝承があり、山頂には役行者(えんのぎょうじゃ)を祀った祠があり、行者山ともいう。

 古くは「ながたに」と称し、口長谷村と一村であった。氏神は八幡神社。同22年長谷村の大字となり、昭和30年より佐用町の大字となる。明治30年頃から畜産・養蚕・製炭業に従事。同40年八幡社2・荒神社3・春日神社・山の神大明神社の社神を合祀して、八幡神社氏神とする。大正13年電灯架設。


▼奥長谷の小字図





■宗行(むねゆき)
 佐用川中流域、利神山の南西。地名の由来は、胸・棟に通じる言葉で、山麓の子高い所に住居を設けたことによる。古くは天台宗の福専寺があったといい、のち平福に移され、浄土真宗光勝寺が開かれたという。

 氏神は産霊(さんれい)神社。石ノ堂には借膳(しゃくぜん)岩とよばれる大岩があり、法事や婚礼などの時、客用のお膳や椀をここに来て借りたとの伝説がある。寺院は浄土真宗円徳寺。明治22年長谷村の大字となり、昭和30年からは佐用町の大字となる。明治30年頃から畜産・養蚕が、米麦作とともに主産業となる。大正13年電灯架設。


▼宗長の小字図






◇今回の発見
・口長谷の別所の構は、利神城主別所氏代々250年の居住地域であった。飯の山には怪談播州皿屋敷の伝説が残る。同じような話が各地にあるようですが、播州説を裏付ける一つなのかも知れません。
・宗行の石ノ堂のお膳や椀を貸したという伝説は、宍粟市山崎町や一宮町にも残っています
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