郷土の歴史と古城巡り

因幡 市場城跡

 【閲覧数】3,400 (013.6.2~2019.10.31)


  
 
 以前若桜の鬼ヶ城跡の探索で、若桜の矢部氏と連携していた有力な国人領主の因幡毛利氏の居城市場城跡が八頭町にあることがわかり、いつか行ってみたいと思っていた。
 桜が咲き始めた4月初旬、市場城跡に向かった。


 ※平成の合併による地名変更
八頭郡(やずぐん)の郡家町(こおげちょう)、船岡町、八東町が平成17年新設合併し、八頭町となる。
 

  
 ▲北から見た市場城跡                 


▲山麓の集落から望む
 
 


市場城跡のこと  八頭郡郡家町市場(※現八頭郡八頭町市場)
 
 市場城は私部(きさいち)城ともいい、因幡の南一帯に勢力を持つ国人領主の因幡毛利氏の居城である。私部とは私都とも書き、城山の麓に流れる川は私都川という。
 
 因幡の毛利氏とは、もとは安芸の毛利氏と同族の別系で、鎌倉幕府の要職の政所別当であった大江広元を始祖とし、相模国(静岡)愛甲郡毛利庄(もりのしょう)を引き継いだ毛利秀光の流れだという。因幡国私部郷の国人領主となる。
 
 因幡毛利氏が初めて文献に登場したのは南北朝の足利尊氏の下文(くだしぶみ)に毛利次郎の名が出てくる。文和4年(1355)の神南合戦に山名氏の傘下の武将に毛利因幡守と名を連ねている。室町中期には幕府に奉公衆として仕え、室町期の文明年間(1469~77)の毛利貞元は、但馬守護山名から自立・反抗するほどの勢力を持つほどになっていた。
 
 戦国時代から安土桃山時代は、若桜の矢部氏とともに、但馬山名氏と争っている。天文11年(1542)から同15(1546)には同族の山崎(国府町)城主山崎毛利氏を倒し、因幡に進出してきた尼子氏と手を組み、永禄12年(1569)、毛利信濃守は矢部氏・丹比氏、用瀬氏など周辺の豪族を結集して、鳥取城の武田高信を攻めた。天正年間(1573~1592)になり安芸毛利氏の勢力が及ぶ頃になると、最後の当主毛利豊元は安芸毛利氏に従った。
 
  秀吉軍の侵攻が始まると鳥取城に入り、落城のあと、豊元は行方不明となり(伝承では但馬に逃げた)、因幡毛利氏は滅亡している。
 


▲因幡国中世郷荘分布図         


▲市場城図部分(公民館前案内板の城図より)
 
 
 
アクセス
 

 宍粟市から国道29号線を北上し、戸倉峠を越え若桜町の丹比から岩美八東線(県道37号線)で細見川沿いに北上し、山志谷を越え谷を下ると麻生国府線(県道262号線)に入る。私都川沿いに走ると中私部地区の市場集落が見えてくる。 
「お城山」の麓の旧道(私部往来)に入ると近くに市場公民館がある。その前に続く道が、城跡の登り口で大手道である。公民館に車2台駐車できる。

 
 
  
 ▲公民館前を直進する                 
 


  突き当り付近は大手口にあたり木戸口があったと推定されている。そこを左に曲がり登城する。
 


  
▲山の麓を左に曲がる           ▲この辺に木戸口があったと推      


 

▲カエル石の案内 ここから山城に登っていく
 


 登り始めると、すぐ右に曲輪跡があり、尾根筋に曲輪が段丘状に連なっているのがわかる。途中、堀切跡、五輪塔、地蔵が祀られている。細い曲輪跡に桜を植樹した桜公園もある。
 
 


 ▲竪堀跡                        


▲不完全な五輪塔2基  
 

 
 約10分ほど歩くと案内板にあったカエル岩が現れた。誰が見てもカエルと答えるユーモラスな自然彫刻に、しばし足を留めた。


 
▲ユーモラスなカエル石               


▲巨石群
 


 巨石群を抜け急な斜面を右に回りこみ少し下り、杉林に入っていくとかなり広い曲輪跡に入った。その下にも曲輪が続いているのがわかる。



 
▲案内板 二の丸方面                




▲曲輪跡がくっきり
 
  
▲下に曲輪がつづく
 


虎口跡を登り、坂道を登ると、曲輪跡(二の丸)がある。その周辺は岩が露出してゴツゴツしている。
 
 


 ▲虎口                           




▲石垣かと見間違えそうな岩石が露出している
 
 
  
  右端をさらに進み、日当たりのよい尾根筋の道を進むと、アンテナ塔のある見晴らしのよい場所に至る。ここからの展望はよく南西部の山河が一望できる。
 
 


 ▲本丸跡へとある。ここから左に進む                 



▲尾根筋を進む
 
               


▲パノラマ撮影
 


 ここからさらに右折れして進むと、頂上の本丸に至る。
 本丸の周囲は奥行54m、幅18mほどで細長く削平されている。中央に市場城跡と表示があるが、周りははあまり整備されていない。本丸からの展望は、木々が邪魔をして西の集落の一部が見えるぐらいで ほとんど望めない。
 



 
▲本丸跡
 

     
▲木立の間から西山麓の集落が見える
 


奥に進むと、先端に岩があり、右端から降りると、奥に続く曲輪が確認できた。
 


 
 ▲本丸奥(南)                     



▲本丸の下につづく曲輪群  
  
 


雑 感
 
 
 市場城跡のある山は地元では「お城山」と呼ばれ、高さ264m、比高は160m。やや小ぶりだが、しかし図面で見ると尾根筋には数多くの曲輪跡と近くに山々に出城が描かれている。
 

 ▲市場城付近の図(案内板の城図より)
 
  登って見ると、図面どおりの曲輪跡等を確認できた。ただ、山城の整備があまりなされていないので、大手道のみの探索となった。この城跡の周辺には落岩・白磯・津黒の諸城が描かれており、それらは出城であったという。
 
 かつて、お城山の東山麓の旧道沿いは武家屋敷があり、庶民の居住地は私都川の川向こうにあったという。市場の地名は名のとおりで、この地に市場が立ったことからきている。地内の小田(こだ)は、小田千軒といわれるほど繁栄したと伝えている。
 
 この私部地区は一見のどかな山村だが、毛利の一派の因幡毛利氏がこの地に根をおろし200年余り本拠とした場所であり、幾たびかの争いのたびに、多くの曲輪が形成されていったのだろう。
山村の山城跡の探索をつうじて因幡中世・戦国史に思いはせることができた。
 
 
         ◆    ◆    ◆
 
 
 城山の山麓にて
 
  
 ▲因幡毛利氏ゆかりの市場神社          
 
 ※『因幡誌』にある「秋葉権現」がこの社にあったのではないかと城図説明にある。
因幡誌の古城の欄に「村ノ後秋葉権現鎮座の山ナリ昔国侍毛利氏草創ノ城トイヘリ」とある。
 
  
 ▲春を告げるタムシバ                


▲北方に見える風車(望遠)


【関連】
若桜鬼ケ城跡

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