郷土の歴史と古城巡り

伯耆 羽衣石城跡 ~ 南条氏の城 ~


   山陰の東伯耆に羽衣石(うえし)城という城跡があることを知った。地図で見ればけっこう山手に入ったところにあるが、道や駐車場が整備されているようなので、2年前に一人で出かけた。翌年2019年11月に湯梨浜町で羽衣石城のシンポジウムが開催されることを知った。そこで、新しい調査による新発見が報告されるというので、後日その情報をつかみ城郭仲間数人で羽衣石城とその北と南にある城跡を目指した。途中少し道を踏みまちがえた以外は首尾よく目的地に到達することができた。






▲羽衣石城跡 山麓から




▲羽衣石城赤色立体地図  2019羽衣石城シンポジウムパンフより





羽衣石城跡   鳥取県東伯郡東郷町羽衣石(現同郡湯梨浜町)                                                         

 伯耆国の東に位置した羽衣石山の頂上(標高372m)に本丸(東西約70m、南北20mの長方形)を設け、その周辺に帯曲輪を設けている。広範囲にわたって西を意識した多くの曲輪、堀切等を有している。
 築城は14世紀中頃といわれている。城主は南条氏でこの城を拠点に東伯耆地方に勢力を張った国人(国衆)であった。南条氏は守護山名氏に被官し、守護代をつとめている。

 戦国時代には尼子氏の侵入に翻弄され、城を一時追われるが、毛利の勢力が伯耆に及ぶと帰城した。天正7年(1587)秀吉の中国攻めで毛利が不利とみた元継は、秀吉側についたため、毛利方の吉川元春との攻防が続き、同10年(1582)の本能寺変後に、羽衣石城は吉川元春配下の山田重直に占拠され、元続は城を追われ播磨に落ち延びた。
同13年(1585)豊臣氏・毛利氏の領土交渉により帰城する。秀吉の治世には、南条氏は八橋以西を除く三郡を治める近世大名4万石となる。慶長5年(1600)関ケ原の戦いで、元継の跡を継いだ元忠は西軍に属したため改易され、羽衣石城は廃城となった。








羽衣石城の攻防

・貞治5年(1366年)、南条貞宗が築城と伝わる。
・大永4年(1524年)、大永の五月崩れによって羽衣石城落城。尼子領となり、南条宗勝は山名氏に逃れる。(近年の研究ではこの五月崩れの存在自体が否定されている)
・天文15年(1546) 宗勝、武田国信の要請を受けて尼子方を離れると同時に羽衣石城から退去。
・永禄5年(1562)  宗勝、毛利氏の支援を受けて羽衣石城を回復。
・天正7年(1579)  元続、毛利方に背き羽柴秀吉方につく。
・天正9年(1581)  吉川元春・元長、馬野山に布陣。鳥取城を落とした羽柴秀吉軍が馬野山で吉川元春軍と対陣。両者共に退く。
・天正10年(1582) 吉川元春配下の武将山田重直により落城。
・天正13年(1585) 織田氏と毛利氏の領土交渉により元継、帰城。
・慶長5年 (1600) 南条元忠西軍につき敗れ、廃城。
・慶長17年(1612)南条元忠大阪冬の陣で、徳川方の藤堂高虎への寝返り発覚により大阪城内で切腹。


『信長公記』巻十四の天正9年10月26日に羽柴秀吉が伯耆へ出陣した記事がある。
 〈現代訳文〉伯耆には織田方に味方する南条元継と小鴨元清の兄弟が居住する城がある。そこに吉川元春が出撃して南条の城をとり囲んだと報告があった。秀吉は南条を見殺しにすることは、物笑いとなり無念であるといい、吉川軍を後方から攻め、東西の軍が接近して一戦に及ぼうと、26日にまず先発隊を遣わした。
28日秀吉が出陣した。因幡と伯耆の境目に織田方の山中鹿助と、弟亀井真矩(茲矩 )が居城していた。秀吉はここまで進軍した。ここから伯耆までは山中谷合いの大変な難所であったが南条の城へ急いだ。南条元継は羽衣石城を守り、小鴨元清は岩倉という所に居城し、両人とも織田方に忠節を貫いていたので、吉川元春が進撃し、羽衣石・岩倉の両城を攻撃するため、羽衣石城から30町ほど離れた馬の山という所に陣を張った。
 そうして、伯耆では秀吉は羽衣石付近に7日在陣し、国中に兵を遣わせて兵糧を取り集め、蜂須賀小六、木下(荒木)平太夫の二人を吉川軍の備えとして馬之山に差し向け、秀吉は羽衣石・岩倉両城に連絡、軍勢と兵糧、弾薬を充分補充し来年の春に決戦することを申し合わせた。11月8日秀吉は播州姫路に帰陣した。吉川元春もなすこともなく軍勢を引き上げた。








▲鳥瞰   by Google Earth




▲縄張り図 2019羽衣石城シンポジウムパンフより



参考文献:『鳥取県史2中世』、『倉吉市史』、『県史 鳥取県の歴史』、『山陰の戦国史跡を歩く』、『信長公記』太田牛一著中川太古訳、「2019羽衣石城シンポジウム資料」



アクセス


東郷湖の南に東西に延びる県道22号線の羽衣石橋より羽衣石川に沿って南の谷を進む。



 
▲県道22号線  交叉点にある羽衣石城跡案内図





 



案内板に従って進むと、駐車場に至る。トイレも用意されている。



 
▲広い駐車場                                                                                  ▲トイレ




▲右の登山道登り口 



ここから山頂まで約15分、左にある登山道は20分程度と案内図にあるが、もう少しかかるようだ。 
登りかけてまもなく、右に八幡神社の案内があり、そこに立寄る。この辺には、数段の曲輪跡があり屋敷跡と推測されている。



  
▲八幡神社              




▲石垣
 


登山道の右に石垣が待ち構えている。





   
▲羽衣の池の案内板                ▲羽衣の池

  
左に羽衣の池と名付けられた水場があり、そこへ入っていくと、幅数mの水たまりがあった。籠城には欠かせない水場で、この水は枯れることはないという。







途中に巨石群があり、圧倒される。



   
▲巨石群▶              



巨石群を抜けると頂上だ。




▲展望台




▲東郷池と日本海が眼下に見える素晴らしい眺め




▲主郭への虎口を登る




▲広い主郭の西端に模擬天守がある 




▲主郭東の下の段



▲下の段からみた主郭(本丸)




雑 感

 初めて城跡に登った時、南条氏の勢力はかなりのものだと思った。城主はこの城を二百数十年間もの間死守してきた。戦国乱世には、尼子の侵入に対し従属、離反のあと、毛利との提携と離反。毛利・織田の両者にとって譲れない山陰の要衝にあり、この地の争奪に巻き込まれ翻弄された武将で、それは備前の宇喜多氏によく似ている。両者とも織田方に寝返ることを決意したのは天正7年(1579)。そうして秀吉の治世に南条氏は東伯耆で4万石の大名となったが、それも長くは続かず16年後、関ケ原の戦いが待ち受けていた。山陰地方のほとんが西軍に属し、消えていった。

 羽衣石城跡の主郭には、昭和の時代に南条氏の末裔によって模擬天守(鉄骨・トタン葺き)が建てられていた。平成になり、「ふるさと創生1億円事業」で新しい模擬天守や道・駐車場等整備された。そのとき建設前の発掘のとき主郭からは瓦は発見されなかった。元々主郭にあった建築物は板葺だったと考えられ、それゆえ中世・戦国期の城跡に瓦を用いた近世様式の創作天守は、ありえない創作物で、来る人に誤った城郭の認識を与えかねない問題を残している。

 一方近年、この羽衣石城跡の北部と南部に2城(番城跡と十万寺所在城跡)が調査報告され注目を浴びています。次回は、その一つ十万寺所在城跡を予定しています。


【関連】
十万寺所在城跡

伯耆 番城跡

城郭アドレス一覧



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