郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

但馬 蔵垣城跡

2020-04-30 12:36:59 | 城跡巡り
【閲覧数】7,869(2016.11.18~2019.10.31)                                   
 


 但馬の南西部に位置する養父市大屋町の中央部を東流する大屋川流域には多くの山城跡があります。大屋町史に13の山城の縄張り図と詳しい解説があり、これをもとにその山城跡を訪れた。まず最初に蔵垣城跡を紹介します。

 かつて蔵垣城跡のある大屋町蔵垣には、天滝が見えるお寺ということで宝幢寺(ほうどうじ)を訪ねたことがありました。

 来てみて初めて、お寺の前方に見える山にあることがわかりました。山麓から眺めるとかなり高い山に見えたが、思ったほど時間はかからなかった。




▲蔵垣城跡全景
 


▲鳥瞰 (by google)   城山の北東部から
 


蔵垣城跡     養父市大屋町蔵垣字スクモ谷・左右田
 

  蔵垣集落の背後の北から南へ尾根筋がのびるその中腹にあって標高390m、比高200m)の地点にある。城域は東西約50m、南北約110mの小規模な城跡である。
 主郭は東西16m、南北25mあり、土塁(幅4.5m、高さ2.5~3m)が築かれている。主郭に至るまでに二段の曲輪がある。それを二つの大堀切(前方:幅11・3m、深さ6m、後方:幅11.3m、深さ10m)と竪堀が守り、小規模ではあるが堅固な戦国期の様相を呈している。
 城主及び城史は不明である。
 




▲蔵垣城図 大屋町史より



 藤堂家の伝記によれば、天正8年~9年(1580~81)にかけて小代一揆勢が天滝を越えて蔵垣野に来襲し数度かの合戦があり、藤堂高虎と栃尾源左衛門、居相孫作らが応戦し、小代勢の小代大膳、富安丹後、瓜原新左衛門を討ち果たし、その後小代の砦(城山城か)を攻略したという。『公室年譜録』(安永3年1774)、『高山公実録』(嘉永3年~安政元年・1850~1854)
 
 
 藤堂高虎の小代勢との合戦
 
 小代勢力に関する記述がある。「天正9年(1581)此春 但州七美郡小路比(おじろ)村に砦を構えて、小代大膳・上月某党を集め、九十二人近郷に徘徊して人民を掠(かす)め侵す。秀長卿公(藤堂高虎)に命じて鉄砲数挺を附属し、是を制し討たしむ。・・・」
 小代一揆勢は大屋への進撃に大屋の横行や蔵垣が小代側についたため、藤堂高虎は苦戦を強いられたが栃尾・居相氏等に助けられ撃退することができ、小代勢側の富安氏、瓜原氏を討ち果たし、その後小代の砦(城山城か)を攻略したと記す。『公室年譜録』、『高山公実録』
 
  この小代一揆に関する確かな史料がなく不明であるが、藤堂高虎が羽柴秀長の指示で但馬西部の反織田勢の一掃を図るも、但馬在任中は最後まで小代勢には手を焼いたようで、決着は天正9年(1581)鳥取城攻めの直前、秀吉の指揮による制圧まで待たなければならなかった。     参考:大屋町史



 
▲県道脇の古戦場蔵垣野(表示碑) 

 

▲蔵垣がんどう塚(小代大膳の供養塔)
 
 
 

▲くらがきまっぷ  一部書込み


 
アクセス
 

蔵垣の「かいこの里」をめざすとよい。蔵垣会館の南、宝幢寺の東方にある。
 
 
  
 
 
 
 
 
▲上垣守国(うえがきもりくに)養蚕記念館 ▲登り口の先にフェンスが見える
 
 

上垣守国養蚕記念館の上に広い駐車場があり、山裾に登り口がある。フェンスがあるので、それを開けて、右に進むとすぐに左折れの道になったところに至る。左に入らないで、トタンの囲いの場所から取り付く。

   ここから尾根筋に沿って登る。あとは地籍調査の表示が城跡地まで誘導してくれるのでまず迷うことはない。
 
 


▲フェンス             ▲カーブの先が登り口 
 

 
▲尾根筋
 
 

30分ほど尾根筋を歩くといきなり大きな堀切が現れた。
幅約11m、深さ約10mと山城では大きなものだ。
 



▲大堀切
 

 
▲堀切の底から                



▲頂上部を望む
 


数段の曲輪跡をのぼっていくと頂上に至る。主郭の南の縁は土塁が高く積まれているので主郭中心はすり鉢のように見える。土塁の先は大堀切で深くえぐられている。
 ここからさらに尾根筋が続くが、城跡が尾根の中腹にあることがわかる。
 


 
▲主郭部                   




▲主郭背後の大堀切 
 


 
▲反対側から主郭を望む             ▲尾根筋は奥まで続く
           



雑 感
 

 小代一揆勢が一度ならず何回か押し寄せて蔵垣野で合戦があったといいうが、そのことが終始気になっている。
 
 藤堂家の伝記に藤堂高虎と小代一揆勢が蔵垣の地で幾びかの合戦があったことが記されている。高虎は羽柴秀長に小代一揆掃討を命じられるが、小代に通じる大屋谷の横行・筏・蔵垣が小代に加担し、それを阻んだこと。また、一揆勢が加保の栃尾加賀祐善の館を包囲し藤堂、栃尾と争ったとある。その襲撃に瓜原新左衛門の名が出てくる。

 大屋町大杉の小字に瓜原があり、瓜原氏は大杉の武将と考えられている。大屋町史には、瓜原氏が大杉城に居城していたのではないかと推測している。瓜原氏は大屋加保の栃尾氏と藤堂高虎との結びつきをよく思わなかった人物の一人だったのか、小代勢と手を組み、西谷を基盤に大屋川を挟む堅城大杉城と蔵垣城を盾に藤堂・栃尾の勢力に立ち向かう。小代から幾つも峠を越え、深い谷を抜け大屋の地に侵入した小代一揆勢の狙いは藤堂を倒すことだったのだろう。その力を与えてくれたのは大屋の武将瓜原氏だったと考えれば、小代一揆勢は反織田勢の躍起で大屋蔵垣の戦いを可能にしたのではないかと・・。
 


▼城配置図



【関連】
・大杉城跡
・加保城跡
・小代・城山城跡

◆城郭一覧アドレス

美作 津山城をゆく

2020-04-30 11:38:50 | 名城をゆく
(2019.3.25~2019.10.31)


   





▲復元された備中櫓                                     




▲城の東方面


▲天守台から南方面               



▲天守台から西下                           
  



▲西方面を望む (粟積櫓台より)       



▲北東部を望む(粟積櫓台より) 
 
 


▲南北に流れる宮川から          




▲南東から
 


津山城のこと   岡山県津山市山下 

           
 津山城は別名鶴山(かくざん)城とも呼ばれている。城が建てられた小高い丘陵は鶴山と呼ばれ、鶴が羽を開いた姿に似ていることから名付けらたという。現在城跡は鶴山公園として整備され、5千本の桜が春を彩り「桜の名所百選」に選ばれ、訪れる人は多い。

 その昔津山は美作国の中心地にあり出雲往来の要衝にあった。美作の覇権で中世の英雄たちが合いまみれた戦いが繰り広げられた場所である。

 嘉吉年間(1441〜1444)山名教清(のりきよ)が嘉吉の乱で赤松満祐の討伐に功をあげ、美作の守護となり岩屋城(津山市)を築いた。その東の守りとして、津山鶴山に山名一族(叔父)の山名忠政を守護代として支城を築城させたのが、津山城の始まりである。 

 本格的な築城は、本能寺の変で信長とともに討死した※森蘭丸(成利)の弟の森忠政が、慶長8年(1603)に18万6500石で入封し、翌年から13年の歳月を費やして築き、合わせて城下の基盤をつくった。このとき鶴山を津山と改めたとされ、また津山の地名は、津を意味する吉井川の船着場の上の山の意ともいわれている。




       
▲森忠政像




 
▲津山城古城絵図 国立図書館蔵
        

 

▲津山城古城 説明板より



 城主は森家が四代(95年)、松平家九代(174年)の約270年の津山藩が明治維新を迎えている。

 城の建造物は、明治の廃藩置県後の明治6年に競売され、明治7年・8年に天守・櫓が取り壊された。昭和11年、地方博覧会で模擬天主が建設されたが、昭和20年に空襲の目標にされることを恐れ、終戦前に解体されたという。



 
▲在りし日の津山城(撮影:松平国忠)
  

       

▲北側から 城の北東の椿高下から




 古城絵図に描かれている城を取り巻く外堀跡が見当たらないのは、その堀のほとんどが埋め立てられ、宅地になっているからだ。ただ、当時の津山城南部の出雲街道の東西に広がる城下町には、商家や職業町の名称が今もなお住所に残され、城東の古い商家の町並みや点在する武家屋敷が昔を偲ばせてくれる。

 また、地域で大事に保存されているだんじりを見ると、江戸期からの伝統行事が町衆によって今に伝えられているのがよくわかる。





▲案内板                      


 

▲古い町屋(造り酒屋)
 

美作 竹山城跡

2020-04-29 11:13:45 | 城跡巡り
【閲覧数】2,447 (2012.1.27~2019.10.31)      

                           
 
 
▲南からの全景
 

            
 
▲古町から見た竹山城跡




▲大原地区の鳥瞰 (by google earth)




竹山城のこと   岡山県英田郡大原町下町(現美作市大原)


  竹山城跡は、大原下町の西山(430m)山頂にあります。この城は、北と南部の因幡街道筋を一望できる要害の地です。竹山城の名は、東南に竹林が繁茂していたのでその名がついたといわれています。
 
  新免伊賀守貞重が明応2年(1493)北東にある小原・山王山城からこの地に移り、竹山城を築いたといわれています。しかし、竹山城はそれ以前からあったようで、小原城の詰めの城であったとも考えられます。延文5年(1360)に山名時氏が美作を侵攻し、英田郡に軍勢が押しかけ小原城・大野城を落として山名氏の武将小林重長は竹山城を攻略したといわれています。
 
  天文24年(1555)尼子氏の侵入により領地を押さえられましたが、弘治3年(1557)新免宗貞は、奪い返しました。永禄元年(1558)宗貞の子宗貫が竹山城主となりました。そのころには、赤松氏の勢力は弱まるとともに、浦上・宇喜多氏が勢力をつけ、宗貫は、この新勢力と手を結ぶようになりました。
 
  慶長5年(1600)の関が原の戦いでは、宇喜多勢に加わり出陣し敗れ、新免宗貫とその子宇右衛門は九州の筑前に渡り、黒田長政に仕えています。以後、竹山城は廃城となりました。

参考:『日本城郭体系』、他
 




アクセス
 

  竹山城へは、北の山麓に車道が頂上まで整備されています。しかし山頂はテレビ塔などの通信施設が建ち、山麓からの車道が敷かれ、本丸・太鼓丸・西の丸があった場所は、かなり破壊され、一部に遺構が残るだけになっています。
 

▼竹山城跡の周辺図 



  頂上には、城の説明板と南北の案内板・が設置されていました。
 

▼竹山城説明板 



▼北~東の展望 日名倉山・後山・船木山・駒の尾山など一千m級の名山が一望できる





 
 ▼南の展望                       
 
 



 本丸あたりから北を望むと眼下に大原の町並みが一望でき、雪を頂いた山並みの絶景が見られました。
 

 
 


古町の町並み保存地区が吉野川沿いにあるのが見えます。。
 
 

▼吉野川にそった旧道が古町の保存地区(黄色で囲った地域)
 
 


南の山並みの雲海 すばらしい景色に出会いました
 


▼雲海
 





 
 〜下界は、近世の江戸時代〜
 

 大原宿の古町町並み保存地区を歩きました。まるで、江戸時代にタイムスリップしたような感覚になりました。岡山倉敷の美観地区と同じく、電柱が道路にありません。
   
                                   
 ▼因幡街道 大原本陣
 














大原の沿革

・    明治22年(1889)吉野郡江ノ原村、下町村、辻堂村、古町村が合併して大原村となる。
・    明治33年(1900)吉野郡が英田郡と合併し、新たに英田郡となる(英田郡大原村)。
・    大正11年(1922)大原町
・    昭和29年(1954)英田郡大原町・讃甘村(さのもそん)・大野村・大吉村(おおよしそん)の1町3村が合併し、新・大原町となる。大字辻堂を中町に改称。
・    平成17年(2005)英田郡美作町・作東町・英田町・東粟倉村・勝田郡勝田町が合併し美作市となる。
 
  中世の頃は、この地域は大原荘と呼ばれ、市庭(市場)が盛んで、農産物(米・麦・大豆)のほか、綿・麻布・油・(うるし)などが扱われ、市場屋敷があったようです。特に漆は京都で珍重されたので、吉井川を下り、瀬戸内で積出され、運ばれたようです。

      
【関連】
小原・山王山城跡


◆城郭一覧アドレス


阿波 徳島城をゆく

2020-04-29 10:13:45 | 名城をゆく
(2019.3.28~2019.10.31)




 本州から阿波国徳島へは淡路島に掛けられた明石と鳴門の大橋で陸続きになった。淡路の地名由来の一説に阿波国への路(道)からとあり、これがちょうどぴったり合うが、おそらく阿波国も淡路(島)も粟を産した地で表記の違いからだと思っている。

 その阿波・徳島へは過去何度も行っているが、徳島城に登るのは初めてだった。天守のあった東二ノ丸から見る城下を見て、この城を中心に近世以降政治・産業の中心地として町が発展したことを知ることになった。また、城跡とその周辺を歩き、博物館に入り、徳島の歴史や文化を垣間見ることができた。

 


▲本丸跡 
   

                      

▲本丸の虎口
 

                 
 
▲ 東二ノ丸(3層3階天守跡)
 



▲搦手方面の石垣 
 



▲堀と石垣(月見櫓跡)  
       
    
   

▲復元された数寄屋橋




徳島城のこと     徳島市城ノ内渭山
 

▲徳山城周辺の鳥瞰   (by google earth)



▲航空写真 昭和23年  (国土交通省)
 



 徳島城は吉野川の河口の三角州(デルタ地帯)にある渭山(標高61.9m)の山上に築かれている。

 伝承では南北朝時代の至徳2年(1385)に細川頼之がこの地に赴いたとき、小城を築き家臣の三島外記に守らしたという。この地が中国の渭水の風景に似ていることから渭津(いのつ)と名ずけたとも、城山が西からみると猪の姿に見えることから猪山(いのやま)ともいったことから、別名渭津城、猪山城とも呼ばれている。



▲徳島城古写真 明治初期に解体された徳島城の最期の写真
 


明治の解体を免れた唯一の鷲(わし)の門(左端)が昭和20年の空襲で焼失。中央に月見櫓、その屋根の左に白く見えるのが天守の屋根
 
 

▲平成元年に復元された鷲の門
   

▲徳島城絵図  江戸中期~後期 国立国会図書館蔵



 徳島城は山頂に本丸、その東側に東二の丸、西方には西二ノ丸、西三の丸が置かれ、天正13年から14年の築城のとき、石垣で固められている。東二ノ丸は本丸よりも一段下がった場所にあり、ここに三層三階の天守があった。西端には戦前午砲(正午をならす空砲)台跡が残る。
 




 城山の南側は山下(さんげ)と呼ばれ、城主の御殿が建っていた。現在公園になり、表御殿庭園などがある。

 戦国期には切幡(きりはた)城主森飛騨守高次の領有となり、家臣が守っていた。
天正10年(1582)、長宗我部元親が阿波を平定し、家臣吉田孫左衛門康俊を配した。

 天正13年(1585)に羽柴秀吉の四国征討で、吉田康俊は戦わず土佐に敗走した。蜂須賀小六正勝は四国征伐による功労として龍野城5万石から阿波国17万五千石に移封を命じられたが、嫡男家政に譲ることを懇願し、家政が阿波に天正13年移封となった。

 同年家政は、はじめ一宮城(徳島市一宮町)に入城したが、翌年の天正14年(1586)に渭津城を完成させ城に移った。徳島の地名は家政が城周辺を徳島と呼んだことによる。


蜂須賀氏のこと

 蜂須賀氏は、尾張国海東郡蜂須賀郷(現・愛知県あま市蜂須賀)を発祥地とする土豪であった。蜂須賀小六正勝は羽柴秀吉の最古参の家臣として仕えている。父に正利、嫡男に家政がいる。家政は父正勝とともに秀吉に仕え、播磨や毛利攻め、本能寺の変のあとの山崎の戦いに従軍している。


阿波徳島城主蜂須賀家政のこと

 家政は、慶長5年(1600年)の天下分け目の関ヶ原の戦いの立場に苦慮した結果、阿波の領地を豊臣秀頼に返納し、高野山に身を引いた。一方嫡子至鎮(よししげ)の正室が小笠原秀政の娘で徳川家康の養女(万姫)であったこともあり、東方徳川につくことを決め、徳川の上杉攻めに従軍していた至鎮は、そのまま関ヶ原の戦いに東軍として参加した。

 戦後改めて至鎮が旧領を安堵された。大坂の陣では大活躍し、元和元年(1615年)に淡路一国8万1千石を加増され25万7千石を領する太守となった。
 



徳島の江戸期の農業・産業などの特産物

 明治22年(1889)以前の徳島県の郡



 吉野川下流域(麻植郡・阿波郡・名西郡・名東郡・板野郡)は、藍栽培の一大生産地となり、徳島藩の重要な収入源として、藍方役所をおき統制を加え、のち葉藍の専売制をしいた。この藍の栽培は蜂須賀家政が播磨より種と染色技術を導入したと伝えられている。

鳴門最北部の海岸線には塩田が開け、赤穂に次ぐ有数の塩業地となった、南部の海部郡の海岸では漁業が盛んであった。西部の美馬・三好郡の山間地に煙草栽培が普及していった。


藍の生産にかかわる文化(人形浄瑠璃や阿波踊り)
 

▲阿波名所図会の藍づくり  文化9年(1812)



 藍商人によって諸国の民謡や踊りの芸能が徳島に伝えられ、城下は諸国からの商取引で阿波に訪れる人々で賑わい、三味線を用いた芸能が盛んになった。それが阿波独自の大衆芸能として進化し「阿波踊り」が生み出された。 また藍の生産にかかわる農民の娯楽に人形浄瑠璃が受け入れられ、阿波の各村々の神社境内の農村舞台で興行された。
 

徳島藩の領地淡路島が兵庫県に属した理由

 明治3年(1870)、新政府の武士の身分扱いと生活問題がからんだ庚午(こうご)事変(別名稲田騒動)が起きた。
 ことのおこりは、明治の版籍奉還に伴って、禄制改革により武士の身分階級を華族・士族・卒族に分け呼称することになった。
 元来、淡路洲本には徳島藩家老の稲田家(1万4千石)が城代家老として一国を任せられていた。稲田家は新政府の身分としては淡路藩の取り決めでは家老のため士族で、家臣は卒族扱いとなるため、蜂須賀家と同等の待遇を得ようとした徳島藩から独立・分藩を企て、知藩事・政府に要望した。その動きに対して蜂須賀家の家臣が稲田家や家臣の屋敷を襲撃(殺戮と住居破壊)したため稲田側に多くの死亡者やけが人が出た。

 政府の処分は徳島蜂須賀側の首謀者に対して厳罰の処分(切腹・流刑等)を下したが、藩の取り潰しはなかった。稲田側は士族として認められたが、北海道の移住が命じられ、荒野の開拓が求められた。この事件が淡路島が徳島県から引き離され、兵庫県に帰属させる要因になったとされる。



雑 感

 時代小説や物語に出てくる蜂須家小六正勝は盗賊の頭としてのイメージが定着している。これはあくまで作家の創作で生い立ちはよくわかっていないようだ。少なくても秀吉の片腕となって、天下取りを支えた重要人物であったことは間違いない。そして、息子家政は父の跡を受け継ぎ、関ヶ原の戦いで蜂須賀家の生き残りの妙案が功を奏し、息子至鎮は阿波一国の太守となった。秀吉に使えた初期の武将の多くは使い捨てであったが、蜂須賀家の子孫は首尾よく時代を切り抜けている。

 徳島の歴史をたずねると、淡路島が江戸期には徳島藩であったのが、廃藩置県のあと兵庫県に属した理由を知り、また阿波踊りや藍の生産など、阿波ならではの地形や風土で生まれた文化や産業があったことを知る。
 
 徳島城の大手にある家政の像の前で、一人の80過ぎの高齢者と出会った。戦前には、蜂須賀正勝公の鎧兜を着た勇ましい銅像があったという。この新しい家政像の着ている裃が芝居にでも出てくるような姿で不自然だと言われて帰られたのが印象的だった。
 



▲戦前の蜂須賀小六(正勝)銅像                  ▲現在(昭和40年築造)の藩祖蜂須賀家政の像
 

▲眉山  本丸より




美作 小原山王山城跡

2020-04-28 11:06:37 | 城跡巡り
【閲覧数】4,636(2012.1.26~2019.10.31)      



 
 
▲南山麓からの城山




▲全景 西から



 ▲城山の鳥瞰    by google earth
 


 今回は、美作市大原にある小原山王山(おばらさんのうさん)城跡を訪れました。

  大原町は岡山の北東部に位置し、江戸期には宿場町で栄えた町で、宮本武蔵ゆかりの地として有名です。近年大原宿の古き町並みが保存整備されています。ここから北へ進むと西粟倉(にしあわくら)があり、この先は、志戸坂(しどざか)峠があり鳥取県八頭郡智頭町につながっています。
 
  中世の時代この岡山北部の中国山脈は、山陰と山陽の勢力の境目でもあり、この大原地域は赤松氏の勢力の北限に近い地域であったところで、山陰の山名氏や出雲の尼子氏との戦いが繰り返されました。
 
  江戸時代鳥取藩の参勤交代には因幡街道を利用し志戸坂峠(851m)別名駒帰(こまがえり)峠の難所を越え、大原・平福・三日月・新宮千本の各宿場町を利用しながら、姫路経由で江戸に向かいました。
 

▼鳥取藩の参勤交代の出発コース

 



小原山王山城のこと  岡山県英田郡大原町古町(現美作市大原)
 

  小原山王山城は、古町の東の朝霧山(355m)山頂にあります。地元では城山と呼んでいます。

  鎌倉末期の建武2年(1335)、足利氏方の赤松の武将小原孫次郎入道信明が築城しました。康安元年(1361)山陰の山名氏が攻め入り、落城したといいます。その後 康正2(1456)、今度は赤松方の武将宇野家貞が播磨高田から入り、城の修復をしました。宇野家貞は、新免長重に嫁した妹の子を養子とします。これが宇野貞重で、後に新免伊賀守貞重と改めます。貞重が明応2年(1493)下町の竹山城に移り、この城は廃城となりました。
 
※城跡に「小原山王城趾」と書かれた記念碑に、応永23年(1416)に竹内伊豆守久秀が入城し、以下4代康正2年(1456)まで在城し、靍田城(岡山市北区建部町鶴田か)に移るとありました靍田城が廃城になったあとの城主の一族の記念碑のようです 。
 
  新免伊賀守貞重は、下町の西にそびえる山(430m)に竹山城を築きました。以後、この城は山名氏や尼子氏の標的にされています。そして慶長五年(1600)の「関が原の戦い」まで存続したといいます。


 
縄張り図 作図 高島敏郎氏より資料提供



アクセス
  
 小原・山王山城跡は、大原古町の東山麓の大原神社の背後にある山の頂上にあります。神社の左の道を進み、社殿の背後を上ります。途中木の階段があります。登りきると第一の郭が現れ、さらにその奥には主郭部(本丸)があります。


▼位置図 登城ルートイメージ

 

▼大原神社                         



神社奥の左から回り込むように登っていく。


▼木の階段
 
 

                      
▼最初の曲輪からの展望
 
                  

▼城主の一族の記念碑
 



このあと、三つの深い堀切が待ち構えている。その先が山頂部にあたり、主郭があります。
 


▼堀切 




主郭周辺は木々が生い茂り、見晴らしはよくない。



▼主郭(本丸)
 
 


主郭の先には、二つの堀切があり、北の尾根筋からの侵入をふさいでいる。
その尾根筋上に高射砲台の跡が残っている



▼高射砲台の跡
 
※太平洋戦争時に、爆撃機をねらった高射砲台跡と思われる。


【関連】
竹山城跡



◆城郭一覧アドレス