郷土の歴史と古城巡り

播磨 尼子山城跡

【閲覧数】4,09(2012.10.28~2010.10.31) 



 

▲尼子山の全景
 



 
 ▲南からの鳥瞰  by google earth 




 残暑きびしい9月中旬、以前から気になっていた播州赤穂にあって尼子山という尼子の名のついた山城に登った。それというのも出雲国(島根)尼子の居城を訪れてから、尼子氏のことに興味をもち、播磨に足跡を残しているこの城跡に行かなくては、との思いに駆られたからである。

  その尼子山城は、16世紀半ば尼子氏が勢力を拡大し播磨を侵攻した歴史を山名にとどめ、急峻な尼子山(259m)にありゆったりと蛇行する千種川をへだてて南・西方面をにらんでいた。
   




尼子山城跡のこと   赤穂市高野(こうの)
 

 この城は、『赤松家播備作城記』に「尼子山城 赤穂郡坂越庄高野村 尼子将監之守、天文年中討死、戸田氏之守、天正中落城」の記がある。
 
  永禄年間(1558年~1570年)尼子義久によって築かれたとされるが、時期は不明である。

 尼子山城は、永禄6年(1563年)毛利軍に攻められ落城した。その3年前の永禄3年(1560)には尼子義久の父晴久が亡くなり義久は家督を相続しており、その機をねらった毛利元就は出雲国月山富田城の総攻撃前で、尼子義久はここにはいなかった。
 
 山麓に尼子将監(義久)の墓があるが、義久は月山富田城の戦いで籠城の末、開城し毛利方に降伏し生きながらえており、この場所では亡くなっていない。
 播磨の攻略は毛利氏家臣の吉川氏が行っており、尼子山城の攻略は吉川軍と解される。

  このあと赤松方の富田采女が入城したといわれている。その采女も天正年間に羽柴秀吉の攻撃を受け自害し、城は落城したという。
 
 毛利と尼子の戦いにはこんな伝承が残っている。急峻な尼子山城の正面からの力づくの攻撃は不利なことがわかり、毛利方は一時兵を引き対峙していたが、尼子山城の北東にある佐方(さがた)集落の老婆より間道があること聞きつけ、老婆の案内で背後から不意をつき城攻めに成功したという。そして、それ以後、赤穂の高野と相生の佐方とは長らく不和となり縁談もまとまらない状態であったが、誓教寺の僧侶の仲裁により和解したという。

参考:「日本城郭大系」他
 
   
▼位置図  登城ルート                       


▼尼子山城跡3D赤色立体図  (by ひなたGIS)



▼尼子山城図  

  作図 高島敏郎氏より資料提供



アクセス

 赤穂にユニチカ工場跡があり、その前を北上すると千種川河口に岩肌のみえる急峻な山が尼子山だ。この山の北側には山陽自動車道の尼子山トンネルがある。堤防沿いの県道を進むと河川敷内に公園があるのでここに駐車ができる。
 
 これより、山裾の集落を歩き、誓教寺・尼子神社方面に向かう。山麓の用水路脇に小さな案内板がある。
 右方向に、尼子山登山道・尼子神社・誓教寺とある。お寺の前を抜けると神社がある。
 
                        
 
▲山麓の小さな案内板                     ▲誓教寺の上部に山頂が見える



 
▲新しい尼子山神社
 
 

鳥居の左に山城の尼子山城跡登山口(徒歩約40分)の表示がある。これには「尼子山城は尼子将監義久の居城であったが、永禄6年(1563)毛利元就に背後から攻められ落城」とある。
 

 
▲鳥居の左の登山口                 ▲登山口の案内・説明               

 
生い茂った落ち葉の道を少しばかり進むと、左はげ山、右尼子山の案内板があり、左近くに尼子将監(義久)の墓がある。




 
▲案内板            ▲尼子将監の墓
  
 

元に戻り、登っていくとしばらくすると、空が見え始める。



 
▲登山道 暗い杉林を抜けると青空が

 

4合目(海抜120m)に到着、この辺からすばらしい展望が南に広がる。悠々とした千種川の流れと南の山々の背後に海が見えてくる。
 


 
 ▲4合目の表示                        



▲千種川の河川敷
 
 

ロープづたいに岩場を登るとさらに展望が広がる。
 



▲崖上の岩場にはロープが                 




▲パノラマ

 

上を見上げると大きな岩が突き出している。このルートからの攻めはまず不可能だなと感じながらも、城跡探索よりも登るほどに海が広がる景色に気を取られた。
 



▲大きな岩があちこちに  
  

              

▲山の向うに海が広がる


 
7合目(海抜200m)の岩場から覗き込むと、そこは恐ろしい程の天然の絶壁だ。
 


 
▲ 7合目の表示             ▲眼下には天然の絶壁
             

 
            
▲北東方面
 


 ここに上高野と高野の道標がある。上高野から登るとここに合流するようだ。
 



 ▲高野・上高野の合流地点
 
 
  大岩の先に鳥居があり、いよいよ頂上に近づいたことを感じた。それにしても鳥居の石材はどうして運んだのだろうかとふと思った。その先に朱色の鳥居が見えた。
 

  
▲石の鳥居                   ▲山頂の朱色の鳥居
 
 

やっと山頂の尼子山城の主郭に到着した。
 
                            


▲山頂部
 
 

 主郭は中程にやや段差があり、南北に伸び、ざっと20m×40mほどあり想像していた以上に広い。

 社の右後ろに湧泉案内板があり、そこを下っていくと、木々が生い茂って薄暗く、主郭の下に数段の曲輪跡がある。

 さらに下ると、案内板にあった湧泉があった。水場は他にも幾つかあるようだが、水をたたえていたのはここだけだった。
 

 
▲湧泉案内板                         




▲北側の曲輪跡
 


▲水をたたえている湧泉
 

 
  湧泉より下に道が続くがそれ以上は確認はしていない。ただ、湧泉の上の斜面にあがり、生い茂った木々を分けて進むと、崖状の岩場近くに出て、北の山々を展望することができた。西から北部は厳しい勾配と急峻な尾根筋で侵入は難しい場所である。
 



▲西方面 山陽自動車道の一部が見える         




▲北の岩山                         
 

                           
  
雑 感
 

 16世紀半ば尼子氏が播磨に侵攻し築いた尼子山城は、千種川を天然の堀とし、岩が露出した急峻な山城で見るからに要塞の城であった。
 落城した永禄6年(1563)は出雲(島根)では、月山富田城を守る10の支城(尼子十旗)のうち最も重要な白鹿(しらが)城が落とされた時で、宍道湖北東の日本海の玄関口と居城月山富田城が引き離され、毛利の総攻撃が始まる1年前の緊迫した情勢であった。

 おそらく、この尼子山城にいた尼子家臣は国元の危機を知れば籠城をしても応援を望めない状況であったので、落城も早かったのではないかと考えられる。
 『赤松家播備作城記』(江戸時代)に尼子義久がここで討死にしたとあり、それが信じられ、江戸時代に縁故者によって墓が建てられたのかも知れない。


【関連】
月山富田城

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