郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

高御位山に登る 

2021-02-21 09:27:10 | 日記
 
 


 高御位山は読みにくいが、“たかみくらやま”という。播磨富士とも、播磨アルプスともいわれ、加古川市と高砂市をまたぐ標高304mの山で低山ではあるが山頂部の巨岩や頂上からの眺望は素晴らしい。





▲成井登山口(加古川市)からのルートイメージ  by Google Earth




 ずいぶん前に鹿嶋神社(高砂市)に行ったとき高御位山があることを知り、いつかは登ってみたいと思っていた山であった。

 事前に登山コースを調べて見ると、いくつかある中で東山麓の成井(加古川市志方町)から登るのが最短で駐車場も整備されているということで成井に向かった。

 2月下旬の好天気。到着した昼前には、多くの人が訪れ、すでに駐車場が満杯であった。



▲無料駐車場             ▲高御位山神社参道を歩く


所要時間は約40分~60分



 
▲わがまち加古川60選 高御位山



▲石段が整備され登りやすい 1丁2丁と歩くほどに距離が示されている。頂上まで18丁



▲少し歩いたところの案内板 一般参道から左に行けば、篠ユリの道(獣道)がある。




 
                  ▲登る途中から見た下界





▲15丁 見晴らしのよい岩場に到着



▲岩場からみあげた巨岩




 
▲16丁 頂上まであと少し      ▲山頂の高御位神社 








▲巨岩の雄姿 頂上付近





▲頂上からのパノラマ









     



▲15丁目の岩場   頂上から


▲南の眺望  石切り場手前の山に奇岩で有名な生石(おうしこ)神社(高砂市)がある



▲山頂付近の岩上で食をとる登山者 



 
▲偶然のショット ハラハラドキドキ、見ていたらこの岩の上でしばらく横になっていた。





▲「飛翔の碑」今から百年前の大正10年(1921)にグライダーで関西初飛行を成し遂げた志方町出身の渡辺信二氏の偉業をたたえた碑
※渡辺氏は自作のグライダーでこの山頂から約300メートルの飛行に成功したという。



 午後1時 頂上の気温は13度であったが、陽があたって汗ばむ陽気。半パン半袖の日焼けした筋肉質の若者がさっそうと登ってきたのには驚いた。まるで夏場の光景だ。

 山頂からの景色はひょうごの景観ビューポイント150選の一つ。ややかすんではいたが、いい眺めで爽快だった。

 この登山で高御位山の全貌が凡そわかったので、次回は、笹ユリが咲く時期(5月下旬~6月上旬)の笹ユリ道(獣道)あるいは秋に鹿島神社から登る西の尾根筋からのルートもいいと思った。
 





因幡 太閤ケ平 ~ 大規模な土の城 ~

2021-02-08 09:46:00 | 城跡巡り

 今回は、鳥取城攻めに羽柴秀吉が築いた本陣(陣城)の太閤ケ平を紹介します。羽柴秀吉は因幡鳥取城攻めを2度行っているが、これは第2次鳥取城攻めの時のものです。



▲太閤ケ平(本陣山)  西の鳥取城跡方面から




▲久松山頂上(鳥取城跡)の本陣山の説明板





太閤ケ平(たいこうがなる

 羽柴秀吉の第2次鳥取城攻めに、鳥取城跡にある久松山頂上(標高263m)の東約1.5kmの地点の帝釈山(標高252m)に築かれた本陣である。高い土塁に囲まれた四方約50mの広さの内郭と周辺に空堀を有している。鳥取城側には大防衛ラインと名付けられている大規模な竪堀や土塁が築かれている。




▲鳥取城跡全景(太閤ケ平から西方面)





▲鳥取城包囲陣の鳥瞰図    by Google Earth




羽柴秀吉の因幡出陣と布陣

 天正9年(1581)5月29日、羽柴秀吉は因幡鹿野城(鳥取市鹿野町)城番の亀井茲矩に因幡に出陣する旨を伝え、前もってその準備を命じた。
 先発隊として蜂須賀小六正勝、木下(荒木)重賢等が私部(八東町)に進出し、6月25日秀吉本隊は総勢2万余りの勢力を率いて姫路を出発した。羽柴秀長は7月12日但馬海岸から丸山城(鳥取市)の東方の東吹海岸に到着した。

 秀吉は7月12日鳥取城の東約1.5kmの帝釈山山頂に本陣を築いた。本陣を中心にその両翼に陣を張り。平地では袋川に沿って堀と塀、土塁をめぐらせた陣を並べ、鳥取城を取り囲んだ。毛利の援軍による背後からの攻撃を防ぐため伯耆西の羽衣石城(湯梨浜町)南条元継、因幡西の鹿野城(鹿野町)亀井茲矩に守らせた。

参考:『鳥取県史』





▲太閤ケ平遺構図 説明板より




▲鳥取城跡&太閤ケ平ルートマップ 見ものは本陣跡と大防衛ライン(右上)





羽柴秀吉、鳥取城包囲   『信長公記巻14より

 天正9年6月25日羽柴秀吉は軍勢2万余りを率いて中国出陣、備前・美作を進撃し、また但馬方面より因幡に侵攻す。〈中略〉
 鳥取の城の東に7・8町隔てて同じくらいの高さの山(※)あり。羽柴秀吉はこの山に登り敵城を見渡せる本陣を構えた。

※帝釈山(本陣山・太閤ケ平)



▲天正9年6月25日『信長公記巻14より





アクセス


鳥取市城の南の市博物館(やまびこ館)より徒歩約1時間(NTT無線中継基地の車道を歩く)


 




 



 



 



 





   






▲土塁に囲まれた曲輪









▲土塁の外側(東側)




雑 感

 初めてこの太閤ケ平にやってきたとき、その高い土塁に囲まれた広い曲輪に圧倒された。秀吉の手がけた城攻めに築いた陣城は全国に数多く残されているが、この太閤ケ平を中心とした陣城群は規模が違うようだ。そこに秀吉の並々ならぬ気概が感じとれる。
 秀吉は播磨三木城(別所氏)の抵抗に2年近くも手こずり、その反省をもとに主君信長へのアピールとばかり堅城鳥取城攻めに対して、兵糧攻めに徹し、蟻の入る隙間の無いような鉄壁の布陣を敷いていたことがわかった。
 次回は、鳥取城攻めの経過と結末を取り上げる予定です。



【関連】
鳥取城の戦い~兵糧攻め~
伯耆 十万寺所在城跡~もう一つの太閤ケ平~ 


播磨・宍粟の城跡一覧