【閲覧数】4,780(2013.2.9~20109.10.31)
鳥取県若桜町にある若桜鬼ケ城跡を訪れた。この城跡に興味を持ったのは、羽柴秀吉の中国平定の武将として宇野氏の篠ノ丸城・長水城(宍粟市山崎町)攻めに加わった摂津の荒木(のち木下と改姓)重堅(しげかた)通称平太夫がこの城の城主となったことを知ったからである。
▼因伯古城跡図志

▼因幡国中世郷荘分布図

▼若桜鬼ヶ城周辺航空図 (1974 国土交通省)

因幡 若桜鬼ヶ城跡 鳥取県八頭郡若桜町大字三倉
若桜鬼ヶ城跡は、播磨(兵庫県南部)と因幡(鳥取県東部)の国境(県境)の近くの標高452m(比高252m)の鶴尾山(つるのおやま)にある。平成10年から15年にかけて鳥取県の詳しい調査があり、全国的にも類を見ない貴重な遺構であることがわかり、平成20年に国の史跡に指定されている。
かつて、因幡若桜郷一帯は有力な国人領主矢部氏の領域であった。
八東町富枝邑(村)にある矢部家に「矢部氏系譜」が昭和初期に発見された。それによると駿河国(静岡県)に住していた矢部暉種(あきたね)通称十良が鎌倉幕府追放の梶原景時を討つ手柄をたて、正治2年(1200年)幕府より因州八東の山田の庄(若桜)の20余ケ村が与えられ、山上(鶴尾山)に城を築いたとある。その矢部氏発祥の地は駿河国郡有度(うど)郡南矢部(静岡市南矢部)で、地内に矢部氏の居館跡があり、戦国期には矢部・南矢部・北矢部の地名が残っている。
延徳元年(1489)「矢部館若桜」としての最初の記録がある。また、京都の東福寺文書に元応元年(1319年)10月4日、六波羅探題は矢部七郎らに東福寺領(因幡)古海郷の保全を命じたことが記され、矢部氏は、幕府京都六波羅とのつながりをもち、因幡国若桜で有力な国人として根付いたことがうかがわれる
初めは因幡守護になった山名氏に従っていたが、次第に自立・反目するようになり、永禄4(1561)7月若桜表合戦では、私部(きさいち)(郡家町)の因幡毛利氏と手を組み戦ったが敗死している。天正3年(1575)6月尼子勝久配下山中鹿介に攻略され、矢部氏は滅びた。
その後天正9年(1581)11月荒木重堅が若桜鬼ヶ城主となり、八東・智頭2万石を領した。荒木は、鳥取城攻め、備中高松攻め、九州島津表等に参戦し、関ヶ原の戦いでは西軍に属したため、没落している。
慶長6年(1601)4月若桜藩に摂津三田城から山崎家盛が入封し、その後元和3年(1617)6月、池田光政が鳥取城に入ると、一国一城令により廃城となった。
◆ 荒木(木下)重堅通称平太夫のこと
平太夫は元は安都部弥市郎といい、織田氏の家臣の摂津国守護荒木村重の小姓として仕え、村重より荒木姓を与えられ、摂津国有馬郡の三田城城主となる。一説に荒木新助勝元の子で父が戦死し、叔父の荒木村重に養育されたともいわれる。
平太夫は、村重が主君の織田信長に反旗をひるがえし有岡城の戦いで成敗されるや、三田城を明け渡し羽柴秀吉に仕えた。秀吉に従い播磨・因幡制圧の功により、因幡国若桜(八東・智頭2郡)2万石を与えられた。
しかし慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは西軍に加わったため、平太夫は長男重純とともに自刃した。その時期及び場所は諸説がある。『因幡民談記』によれば慶長5年11月13日、摂津天王寺にて自刃したという。墓所は、若桜西方寺。
▼若桜鬼ヶ城縄張図

▼若桜鬼ヶ城山頂部詳細図

アクセス
▼若桜町マップ

▼若桜鬼ヶ城周辺のマップ

宍粟市の最北部の波賀町戸倉峠(トンネル)を越えしばらく下っていき若桜町中心地に近づくと八東川に突き出した山(鶴尾山)が見え始める。この山頂に若桜鬼ヶ城跡がある。
▼八東川の左岸(西)に張り出した鶴尾山

▼三倉の若桜神社付近から城跡を望む

城跡へは三倉の谷筋を進むと案内表示があるので、それに従う。西山麓に鬼ヶ城の林道に入ればすぐである。
▼鬼ヶ城・若桜弁財天の案内表示板

▼鬼ヶ城の林道の入口

▼案内板 城入口380mとある

林道を、6〜7分進むと駐車場がある。城の説明図があり、それを手がかりに、ここから歩き始める。
▼駐車場と案内図

▼周辺の案内図

少しばかり歩くと細長い平坦地が現れる。ここは馬場跡である。
▼案内板 左:二の丸・天守閣跡 右:庄ノ瀬ルート

▼広い平坦地の馬場跡

馬場跡からは足場が悪くなる。さらに山の斜面を登っていくと突然石垣群が見え始め、これだけの石をどこから運んだろうかなとワクワクしながら先を急いだ。
▼石垣の縁の道

高い石垣のふちに沿った細い道(犬走り?)を進み、城内に入っていくと二の丸に至る。
▼二の丸に建てられた城郭碑

▼二の丸

▼二の丸から見た搦手門

二の丸の下の先端の曲輪が三の丸で、周囲の見晴らしはよく、街並みや川筋が一望できる。
▼三の丸

▼三の丸からの展望


▼三の丸の石垣と大手道

▼大手道

三の丸の東端には整然と敷き詰められた石垣があり、ここは大手門跡で櫓門を載せる櫓台だった。大手道はここから北西の尾根筋につづく。
▼ 石垣は大手門櫓台(三の丸から二の丸方向 )

二の丸に戻り、本丸に向かう。二の丸から本丸には石階段の虎口(出入り口)を上がっていく。
両側に石組みがあり、ここに本丸入口の門があったのだろう。
▼二の丸から本丸への虎口

▼本丸の入口 櫓門跡

本丸は広く、奥に天守台を備えている。ここに複合式天守があったという。天守を飾っていた鯱瓦や様々な模様のある瓦が出土している。あたりに瓦の破片が散らばっている、天守や城郭の遺物だろう。
本丸の東端にもう一段高い一角があり、そこが天守台だ。
▼本丸

▼散乱した瓦の破片

▼一段高いところが天守台

▼天守の礎石

▼天守を飾った鯱(しゃち)瓦

▼出土した瓦の色々

▼本丸から見たほうずき段

雑 感
今から400年前、鶴尾山の山頂にそびえ立った石垣と天守は因幡国若桜(八東・智頭2郡)の支配の象徴として、八東川の沿道の往来の人に威圧感を与えたに違いない。
出土した瓦の紋の特徴から荒木(木下)時代のものと、山崎時代とに区別ができるという。宍粟市篠の丸城の麓の最上山に平太夫の名の付いた平太丸通称千畳敷の曲輪・屋敷跡があり荒木はその築城に関わっていたと考えられている。その人物の足跡が、若桜の地で辿ることができたことと、保存状態のよい若桜の名城を目にすることができたのがとてもよかった。
若桜城下界隈の歴史的建造物の一部紹介
▼西方寺 ▼木下重堅・山崎父子の再建とある


▼三倉にある若桜神社

▼岩屋堂 南北朝時代の舞台造り建築

▼カリヤ通り 宿場町の風情を数多く残す

▼清流通り

◇ 因幡若桜と播磨宍粟を結ぶ因幡街道(現在の国道29号線)の復活に期待!
かつて、この因幡と播磨は因幡街道で結ばれていた。江戸時代、鳥取城下から若桜の浅井までの道が、八東往来や若桜往来と呼ばれ。浅井から左には伊勢道、氷ノ山北方を越えて但馬を通るお伊勢参りの道がある。右に行くと播磨道、戸倉峠を越えて播磨宍粟・姫路方面に進む。戸倉峠を越した先の道は因幡街道と呼ばれた。若桜は交通の要衝となり多くの人の往来で賑わっていた。
古くから若桜と宍粟は背中合わせの仲で、人・物資の流れがあった。現在は若桜町は人口減に悩む町だが、かつての若桜宿の賑わいをとりもどすべく歴史・文化・風土を守り観光事業に力を入れている。宍粟もこの若桜と連携を密にし知恵と創意で国道29号線を春は桜街道・夏は森林浴と渓流の道・秋は彩りの道として車窓が楽しめるゆっくリズムの道となるよう復活を期待したい。
こんなに鬼が城について詳しく書かれているのを拝見し、とても嬉しい気持ちになりました。ありがとうございます。
若桜の人たちも知らないのではないかと思います。
この城は保存状態もよく好きな城跡です。コースをかえて何度も登っています。いずれ、第2も出しますので、見て見てください。
北西斜面に地元の小学生用のスキー場があったようですが、滑られたことがあるのじゃないでしょうか。
かつて若桜の戸倉峠を越え、若杉峠を下って大屋に行ったものです。老齢(喜寿)ですが、昨年は鬼が城にも麓から登攀しました。次回は是非、三倉コースではなく、若桜の幼稚園の近くから登頂することを勧めます。この城の規模と堅固さがよく分かります。
因みに俳人・村上鬼城の号は、この城に因むものです。貴殿の健筆、健脚を祈念いたします。
若桜鬼ケ城跡にはこのブログを出した後3回程登っています。おっしゃられたコースも登っています。この城跡は魅力のある城跡の一つです。それで若桜鬼ケ城2を考えていますが、遅れています。山城探索のペースは変わらないのですが、ブログ掲載のペースが落ちてきたため、紹介していない山城が溜まり溜まって、100城はあるかなと思います。私は古稀になりました。これから足と頭は長持ちさせたい思っています。(^^;
またコメントいただければ励みに頑張ります。
若桜の鬼ヶ城に関連して、荒木平太夫のことに言及されていますが、平太夫は荒木村重の小姓を務めていたとか。村重は有岡城から妻子家臣を捨てて尼崎城に逃げた?由。このことを廻って知人がこの度「荒木村重の尼崎城『移』動」をかいたので、機会あれば読んでやってください。
『地域史研究』尼崎市立歴史博物館紀要 第120号 令和3年2月
35~76頁 砂川博
小生もコーヒーが好きで同じような淹れ方をしています。豆は貴殿も訪ねた因幡毛利の居城・市場城の近く「マルタツ」です。
最近、主に美作の城跡を探索中ですが、年内にこの城跡に数人で登る予定です。
城跡に興味をもったのが10数年前で大河「軍師官兵衛」の放映前の9年前で有岡城は真っ先に訪れた城跡でした。
それ以来村重が信長に謀反を企てたこと、有岡城の脱出の真相について知りたく思っています。戦後、村重と官兵衛の親交を示す手紙があり、官兵衛の有岡城の過酷な幽閉の実体には疑問を抱いています。
『地域史研究』の情報ありがとうございます。見てみたいです。