郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

美作 三星城跡 ~美作後藤氏の城~

2020-07-24 09:34:35 | 城跡巡り
 今回は、美作市にある後藤氏の三星城(みつぼしじょう)跡です。近くには湯郷温泉がありそこには何度も訪れているものの、その周辺に城跡があることを知ったのはほんの数年前のことです。
 城跡は峰々に延び、かなり広範囲にわたりますが、頂上からの景色は抜群です。




▲三星城跡全景(北からの鳥瞰)   by Google Earth




三星城跡のこと     岡山県英田郡美作町妙見(美作市妙見)

 三星城跡は、梶並川と滝川の合流点の西側に聳える三星山 (233m/比高150m) の山上にある。山頂が三峰に分かれていることから三星山と名付けられたようである。
 築城年代は応保年間(1161〜1163)に渡辺進左兵衛長寛によって館が構えられたのが始まりと伝わっている。
 美作の後藤氏の初見は観応元年(1350)の山名義理書状である。それによれば後藤下野守が塩湯郷地頭職としてこの地に入り、以後、康季・良貞が地頭職を受け継いでいる。美作の後藤氏は播磨の後藤氏の流れと考えられている。

 康安元年(1361)山名時氏が美作に侵攻したとき攻められ落城した『太平記』。
応仁の乱が始まった応仁元年(1467)に美作国の失地奪回を狙って赤松一党の中村五郎左衛門尉が美作国院庄に入ると、山名勢は妙見ノ城(三星城カ)等に立て籠り抵抗したとある(『応仁別記』)。
 出雲の尼子氏が、備前周匝(すさい)(赤磐市周匝)の城山を攻撃し、「英田郡倉敷村ノ三星ノ城」を落とし、次に「粟井村ノ赤松之城」を攻め落とし、出雲に引き返したと伝える(『備前記』)。
 永禄3(1560)年とされる5月江見久盛と三星山下の入田で合戦があり、江見左馬之助は久盛と尼子晴久から感状を受けている(「美作国諸家感状記」)。

 後藤勝基のとき尼子氏に従属していたが永禄9年(1566年)  尼子氏が毛利氏に敗れると浦上宗景に属した。そのあと宗景の被官宇喜多直家の娘婿となっている。
 
 元亀2年(1571)勝基は秋ごろから浦上宗景と対立し、翌年(1572)毛利氏に属したため、3月宗景により三星城を攻められた。一旦は退けるも、浦上氏による策略で三の丸を奪われ、毛利輝元は足立十郎衛門尉らを送り込み、さらに救援の派兵を報じている(山田家古文書」)。まもなく将軍足利義昭の仲裁で和議に向かうも、10月の時点で三星城には浦上・宇喜多氏の陣が構えられたままであった(『閥閲録』)。

 天正3年(1575)天神山城の戦いにおいて浦上宗景は宇喜多直家に攻められ敗北した。
 天正5年(1577)江見九郎次郎は山中鹿助幸盛を通じて、織田信長に「三星出頭事」を段取すると申し出て、本領安堵と恩賞地の約束を受けている(「江見文書」)

 天正6年(1578)吉川元春が「三星之儀堅固」との報に接しているが、同年上月合戦に出陣した「作州三星ノ城主、直家むこの後藤」は戦後、宇喜多直家の在陣する八幡山城(上郡町有年)に呼び入れられ討たれたといい、三星城も翌7年(1579)2月からの攻撃で5月に落城。後藤勝基は長内(美作市長内)に逃れたものの自刃したとされる「吉川家中並寺社文書」、「佐々部一斎留書」、「東作誌」など)。

 その後の当城については不明だが、慶長3年(1598)に明石掃部頭は宇喜多秀家から「山之内」9,610石を預け置かれ、掃部頭組の明石四郎兵衛尉も「三星城領」として1,000石加増されている(『宇喜多秀家士帳』)。


参考 『美作国の山城』(津山市教育委員会)


【後藤氏の家紋】  

参考 「web  武家家伝 美作後藤氏」



▲『美作の山城』(津山市教育委員会)より




アクセス



美作インターより南下し、美作中央病院を目指していけばよい。
梶並川に沿った国道の右手に三星城址の案内がある。




▲三星城址の案内板(写真右上)



 
▲上にみえるのが居館跡                       ▲妙見稲荷神社方面




▲登城口の説明板「三星城史」

 


妙見稲荷神社の赤い鳥居をくぐり、登って行くと「右登山道 三星城本丸跡」表示があり、右に進む。




▲「右登山道 三星城本丸跡」




すぐに、広い曲輪跡(屋敷跡)に至る。
本丸三段の曲輪(居館跡)があり、最上段に供養碑や忠魂碑が建てられている。






▲広い居館跡



 
▲上段部                              ▲城址の説明板



   
▲忠魂碑                              ▲後藤勝基の供養碑



また、元に戻り登山道を登っていく。この登山道はおそらく忠魂碑や稲荷神社などの造成の時に敷かれたのだろう。
しばらく歩くと切岸があり、その先に曲輪と土塁が現れた。



 
▲切岸跡                    



▲曲輪とその淵に土塁跡が残る。その下には12の畝状竪堀がある




▲土塁跡



 これより向きを変えて、登りにかかる。右に「登り土塁」が続く。西の谷からの攻撃を防いでいるようだ。





▲登り土塁



次に二つの登り口の表示があり、左に向かった。いきなりの急坂コースになる。

縄張り図の表記と案内柱表記とは違っているので、やや混乱しそうだが、三星山の三つの峰の中心部(主郭)に至る道を案内している。




▲展望地・頂上への表示 



   
▲遊歩道 



急斜面を登れるように遊歩道が敷かれている。途中ロープが用意されていた。
登りきると、三星の真ん中の最も高い主郭に至る。ここからの展望はすばらしい。




▲頂上(主郭) 楕円形の4~5mの小さな曲輪



▲頂上からの展望


斜面の円柱の袋が何かわからなかったが、帰り際に撮った写真を見て意味がわかった。

▲美作の「美」の文字と夜間点灯

※後日調べて見ると2013.4美作国建国1300年記念事業に設けられたということです。点灯は4月3日~5月6日



ここでしばらく、眼下を眺めた後、西の曲輪跡方面に降りて行くも、草木が生い茂った細い道を進む。



 




 尾根筋には平坦な削平地を確認できるものの、ゆるい感じであった。縄張り図には西曲輪の南にも曲輪が描かれているが、そこまでは行かなかった。
 また元の頂上にもどり、下山は南の峰を南下し、八幡神社あたりに降りた。

  


 
▲南尾根筋               ▲途中で見えた東南部(林野)




雑 感

、この三星城跡の探索で気になる所がいくつか出てきた。その一つは縄張り図にある麓の居館跡の虎口が確認できていないこと。それと屋敷跡の上段に続く道を見ていないこと。
 もう一つは、山上の曲輪群の西の谷を隔てた南に延びた曲輪を見ていない。この曲輪は、星山と峰続きで入田山にあり、これを入田(にゅうた)城ともいうが、今は三星城の出城と解釈されている。 それらを再度確認したいと思っている。

、三星城跡の関連で、同じ作東にあって、戦国期に後藤氏と敵対した近くの有力武将江見氏のことが気になっている。次回三星城の南にある林野城(倉敷城)を取り上げる予定ですが、この城が江見氏と関係があります。



地名の呼び名 

旧国の呼び名
美作は、みまさかと読み、作州は、さくしゅうと読みます。
作をさか、さくと読みかたが違うのでご注意を!

ちなみに、
(旧国名)           (別名)  (所属の県)
美作国             ➡ 作州   岡山県
備前国・備中国・備後国  ➡ 備州   備前国・備中国は岡山県、備後国は広島県
播磨国             ➡ 播州   兵庫県 

地名由来については次のアドレスを参照ください。
岡山の街角から

岡山県の地名集



【関連】
美作 三星城・倉敷城

播磨(上郡町) 有年・八幡山城




ミョウガの季節

2020-07-18 18:10:29 | 日記
ミョウガの季節になりました。 5・6月は山椒(サンショウ)、7月・8・9月はミョウガの収穫時期です。



   



 



 ミョウガを植えたのが十数年前。最近では、株が増えて、近所の人にもお裾分けができるほどになりました。





▲ミョウガの花


 ほっておけば、こんな花が3つほど咲き、ふくらみがなくなり食用になりません。
なので、できるだけ花が咲く前に収穫します。


 かつて職場でミョウガの話をすると、食べ過ぎると物忘れになると言う人があった。そのため一応調べて見ると、成分的にはそんなことはまったくなく、逆に香り成分に集中力を増す効果があるそうです。

 我が家では、もっぱら酢漬けで食べます。酢によってミョウガの色がきれいなピンク色に変わります。ここ数年べんり酢を使っています。甘漬けで失敗なく美味しく食べれます。また、夏場なのでソーメンや冷奴などにも薬味として刻んで食べるといいですね。
 ただ、ミョウガもセロリやパクチーと同じで、癖があり人によって好き嫌いがあります。


ミョウガは漢字で書くと茗荷(あて字)。これには次のようなお話があります。

 『お釈迦様の弟子のなかに周梨槃特(すりはんどく)という人がいました。周梨槃特は弟子になったものの、物覚えが非常に悪く、自分の名前すら忘れてしまうため、お釈迦さまは首に名札を掛けさせました。しかし名札を掛けたことさえも忘れてしまい、とうとう死ぬまで名前を覚え続けることができなかった。
 その後、亡くなった周梨槃特の墓のまわりに見慣れない草が生えてきました。そこで「彼は自分の名前を荷なって苦労してきた」ということで、「名」を「荷なう」ことから、名の字にくさかんむりを付けて、この草を茗荷(ミョウガ)と名付けました。』
 となんとも切ない話ですが、これが物忘れと結びついたのでしょう。



PS
2020.7.21のNHKあさイチで夏野菜にミョウガが取り上げられていました。
におい成分のこと、伝承もほぼ同じ内容でした。 (グッドタイミング!)

この時期の薬味として、ミョウガ、ネギ、しょうが、シソ、かいわれ大根を刻んで、食せば、体によいということです。クイズになっていましたが、ミョウガは、半分に切ってから、小口切りすれば食べやすくていいそうです。
 



備前 徳倉城跡 

2020-07-08 09:16:49 | 城跡巡り

 今回は、徳倉(とくら)城です。この山城は、岡山城の北方に直線コースで約15km、岡山空港から東2~3kmの地点、旭川中流域の山間部にあります。街道筋でもなさそうなところで、まして備前ではお目にかかったことのない、みごとな石垣に出会い感動した城跡です。




▲北からの鳥瞰   by Google Earth




備前 徳倉城跡のこと  御津郡御津町河内(岡山市北区御津河内 )


 旭川の支流三谷川右岸の遠藤山の山頂(232m、比高170m)にある連郭式山城である。主郭周辺に曲輪、石塁、堀切、土塁、井戸が見られ、尾根筋・突端にも曲輪、堀切が見られる。
 城史については、康安2年(1362)高師秀(こうのもろひで)が山名勢に攻められ備前徳倉城へ退いたと『太平記』にある。備前松田元澄(元隆)の三男親秀が文明8年(1476)に居城していたと伝える(「松田氏系図」)。
 松田元隆は本拠地金川城と富山城の間にあるこの城を松田元成が金川城を整備した頃に出城にしたようで、松田氏の重臣(家老)の宇垣氏が代々居城したと伝えられている。天分年間(1532~55)から永禄5年(1562)頃には宇垣一郎兵衛が城主であった。

 永禄11年(1568)宇喜多直家は徳倉城主宇垣氏を殺害し、松田氏の金川城を攻め城主松田元輝と子元賢を滅ぼした。この徳倉城には家臣遠藤河内守を入れた。天正20年(1590)頃には遠藤河内守はこの城に城番を置き、岡山に移住した。関ケ原の戦い後、小早川秀秋のとき廃城となった。

参考:『日本城郭体系』



▲説明板の徳倉城鳥瞰図に登り口に番号を書き加えた




▲現地で入手した鳥瞰図と平面図



アクセス


登り口は県道側に①、②の2か所と搦手登山道③がある。今回は、県道沿い②から登城した。





ここを登っていくと竹林があり、それを抜けるとヒノキの平地に出る。このあたりも城域のようだ。



 



次の小山(出丸跡)を登りきると、なだらかな尾根筋が続く。



 
▲出丸跡                                                                ▲なだらかな尾根筋


小山から長いゆるやかな尾根筋を通り抜けると次は、山頂へ向かって急な斜面を右に回り込むと、大手筋にあたる石積みを施した帯曲輪が上に連なる。途中、岩を穿った井戸跡がある。



 



▲井戸跡


石積みの帯曲輪を数段登りきると、みごとな石垣の壁が目の前に現れた。




▲本丸の石垣



▲本丸の石垣(北詰)


 ここまで40分以上は歩いただろう。この高い石垣を見て、汗も疲れも一瞬に吹き飛んだ。高さ4~5m横向きに整然と組まれた石垣に圧倒された。平地ならしも、比高170mの山頂である。400年を経てなお、健在である。




▲広い本丸跡




▲本丸の南詰めの細長い櫓台跡、中央に石階段がある




▲本丸からの唯一の展望 東南方面




▲二の丸跡(北詰め)




▲上下2段の石垣(上は本丸の南石垣)



本丸の東側に搦手登山道があり、そこから下城した。搦手登山道は案内板が設置されている。



 
▲本丸西の搦手道                                             ▲搦手登山道の案内表示板



▲表示板
 


 
▲谷あいの民家近くに下山 



徳倉城主宇垣一郎兵衛供養塔  徳倉神社前
  



 
雑 感 

 徳倉城主であった松田氏は、室町期初頭松田十郎盛朝のとき備前守護職を得ている。戦国期には富田城から金川城に拠点を移し、備前西に一大勢力を持ち戦国大名になる力量があったようだが、宇喜多直家が行く手を阻み全てを奪った。

 松田氏の本城は金川城、その出城的役割をもっていたのが徳倉城だとして、ではなぜこの宇喜多直家もしくは秀家は徳倉城という山城を石垣の城に改修し、家臣遠藤河内守に守らしたのかその目的が見えてこない。
 この城の向きは東で、東にのみ眺望がきく。その先には、6年後の天正2年(1574)に決戦をいどむ主君浦上宗景の天神山城がある。いつかその日を見据えて出城として装備を加えたものだろうか。

 直家は天下の落ち着くさまを見ずに天正10年(1582)に53歳で亡くなっている。
 
 


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