郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

三木露風  露風と母かたのこと ①

2021-09-10 06:04:47 | 播磨の詩人 三木露風と母(かた)のこと





三木露風に興味をもったきっかけ 

 昭和の中頃現在の宍粟市役所(山崎町中広瀬)の地に東洋建材工業の工場があった。幼少の頃、揖保川の水遊びの帰りに、その工場の高い煙突から黒い煙が立ち昇るのを見て、その煙が増え続け雨雲となり明日の旅行に雨が降らないか心配したことを覚えている。
 この東洋建材の工場は、郡是(ぐんぜ)製糸山崎工場の跡地に建てられたもので、焼却炉と煙突は引き続いて使われていた。山崎町の近代産業を語る場合この郡是製糸での生糸生産・養蚕(ようさん)業を抜きに語るわけにはいかない。蚕(かいこ)といえば食草の桑葉が大量に必要で多くの桑の木が郡内には植えられていた。当時の子供たちは赤黒く熟した桑の実を食していた。その桑の実については、露風の童謡「赤とんぼ」の歌の第二小節の「山の畑の桑の実を小籠に摘んだはまぼろしか」がある。当時、生糸生産のピーク時には宍粟郡や佐用郡の農家の半数が繭づくりをしていたといわれている。桑繋がりで、露風に興味を抱き始め出した頃、『山崎新聞』(大正4年~昭和14年)が、創刊者の山下家(薬種商「あわや」の親族の蔵から製本された形で見つかり、宍粟市歴史資料館のものと合わせると発行部数の多くが揃った。その新聞には露風の2年半にわたる寄稿(160回程度)した詩歌、紀行文等が掲載されていた。平成30年度の宍粟学講座で、「露風も寄稿した『山崎新聞』とその時代」と題した高田智之氏(ジャーナリスト・元共同通信社記者)を受講したことや、平成29年たつの市において「赤とんぼの母「碧川(みどりかわ)かたを朝ドラの主人公にする会」が発足するなど、一連の動きが露風とかたに興味を持たせてくれた。






童謡「赤とんぼ」が生まれた背景

 赤とんぼ     三木露風作詞、山田耕筰作曲

夕焼け小焼けの赤とんぼ 負われ見たのは いつの日か
山の畑の 桑の実を 小篭に摘んだはまぼろしか
十五で姐やは 嫁に行き お里の便りも 絶え果てた
夕焼け小焼けの 赤とんぼ とまっているよ 竿の先

 日本人なら、赤とんぼの作詞、作曲家の名を知らなくても、歌は知らない人はいないだろう。たった四小節の平易な詩に郷愁の想いが込められ、もの悲しいメロディーが哀愁を誘う。そこから浮かび上がる情景は昭和の時代を生きて来た人々の原風景そのもので、日本人の心に深く染み入り、永遠の名曲として歌い継がれている。この童謡が生まれた背景を知るため、露風の故郷龍野町と露風の生い立ちを探ってみました。


露風の幼少期・少年時代 
 
 この赤とんぼ詩は露風が生まれ育った揖保郡龍野を追慕してできたもので、露風の生い立ちと深く繋がっている。露風の本名は三木操(みさお)。父節次郎(24歳)とかた(17歳)の長男として明治22年(1889)6月23日揖西(いっさい)郡龍野町(現たつの市)に生まれた。鶏籠山(けいろうざん)の麓、龍野城の武家屋敷の一角で紅葉谷、聚遠亭、龍野神社が近くにある。満五歳のとき、父母が離婚。離婚の原因は、父が家を顧みず放蕩(ほうとう)な生活が続いたため、祖父制(すさむ)が、かたを不憫(ふびん)に思い離婚を勧めた。かたは乳飲み子の勉を抱えて、鳥取県鳥取市の養父母の堀家に身を寄せた。操(露風)は近くの祖父に引き取られ養育された。 
 家のほんの近くに十文字川(どじがわ)が流れその川伝いに紅葉谷がある。その谷を上り詰めたところに両見坂峠があり、母はこの道を通り龍野を後にし因幡(鳥取県)に向かった。操は幼稚園から帰ると母はすでにいなかった。その日以来いなくなった母を来る日も来る日も待ち続けた。





われ七つ因幡に去ぬのおん母を 又かえりくる人と思ひし
              『文庫』三十巻  明治38年10月 露風16歳

 桑の実や梅の実を数えては母の帰りを待つ切ない日々が続いた。「遊び場は山か谷か或いは河かであった。」、「一人で山に登るのが好きであった。」と露風は述懐している。操が小学四年生のとき「或日、独り、台山(だいやま)と称する町の西方の峯に登り、山づたいに昔赤松円心が立て籠った城の山に行き、さらに北嶺を越えて、路のないところを跋渉(ばっしょう)し、北五里程の山崎地方に下山した。其の為、私の家では、一日、私が姿をみせないでゐたので憂慮したが、無事に帰ったので、父と祖父とから、其の豪胆なことを褒められた。」(『わが歩める道』より。)とある。この的場山から城山城跡への縦走は私も一度経験しているが、このコースだけでもけっこうきついのにさらに未踏の北稜を越え、道なき道を歩き山崎まで行き帰途に着いている。初めての山野を一人で歩き通したことは驚きであるが、山河を友とする操にとっては楽しみの日常であったのだろう。このルート上の山々についていくつかの詩が残されている。

山づたい
ひとりさみしい山づたい、わたしはきょうもさがします。見たこともない「幸福」(しあわせ)を。山のむこうのまたむこう。空のむこうのまたむこう、わたしはいくつ越えてきた。
わたしがさがす「幸福」は、山のいずこでうたうやら、谷のいづこにすまうやら。知らない山をあおぐとき、知らない谷をのぞくとき、わたしの胸はふるえていた。
赤い夕日が照らすとき、山の緑にしずむとき、山には何の音もない。わたしは鵠(こう)の巣のそばで、鳥の卵を抱いていた。なみだながらに抱いていた。童謡集「真珠島」  
                             

                
お山の上
高い、お山の上へと、登る。ここは岩山、けわしい径(みち)よ。
鵠を、見たいが、その鳥、おらぬ。
「鵠の巣」という、名をもつ、山よ。
遠い山々、峯から見えて、上には、青い空が、ある。
青い、高い、あの空よ。ここは、人気のない、いただきよ。
峰に、しげった樹のあいだ、行き、道の無い山、なおあるく。
高い、お山へ、のぼった日おば、大きく、なって、私は、懐う。





▲鵠の巣山 三木家の北西に見える


 赤とんぼの歌詞にある姐やとは、宍粟郡(現宍粟市)山崎町の人で、三木家に奉公し操の子守をしていたという。母が去った一年後姐やは嫁入りしいなくなった。ある日北に向かった。北の山づたいには母の住む因幡がある。やさしかった母や姐やの影を求めるかのような「幸福」探しが、山崎町までの行動に繋がったのではないかと感じている。詩に出てくる「鵠」という鳥であるが、この「鵠」の一字は白鳥を表すが、場所的にコウノトリのことと思われる。操が巣のそばで、卵を抱き涙したわけは ?    鵠の巣という山の名から、卵と我が身をイメージしたものか。難解である。この行動は操の母恋の想いが起因したものであったのであろうが、無事帰ってきたことで、豪胆という褒め言葉で決着した。ひとりぼっちの彼の心を静め寂しさを忘れさせてくれたのが播磨龍野の山河であり、それは露風を詩人として醸成させるのには充分な自然環境であったのだろう


露風の少年・青年期

 露風は明治28年、6歳で龍野尋常小学校に入学。祖父より漢字や習字を教わる。
・ 明治36年、14歳で龍野中学に入学、文学に凝りすぎて翌年岡山県の閑谷黌(しずたにこう)(学校)に転学するも8か月で退学した。そのころ姫路の「鷺城(ろじょう)新聞」に和歌・詩を投稿
・ 明治38年、16歳、閑谷黌を退学した直後、処女詩歌集「夏姫」刊行し、同年石川啄木(19歳)の詩集「あこがれ」、野口雨情(22歳)の詩集「枯草」等の若き詩人たちの処女出版の中で、ひときわ好評で若干16歳の若き詩人露風が詩壇に迎えられた。この後、姫路市出身の有本芳水を頼って上京し、そこで若山牧水、北原白秋等多くの詩人と交わる。上京してからの露風の短歌には母かたを恋い、故郷の龍野を懐かしむ作品がいくつか見られる。

悲しき日雪国なれば日おくれてぬれてとどきし母の文かな
夜ぞ恋し涙の中にふるさとの桑摘む家の眼にうかび来て  (明治39年・新声)

・ 明治42年、20歳、「廃園」を発刊し、詩壇の地位を築き、北原白秋と肩を並べ、大正時代まで白露時代を築くことになった。


☛露風と母かたのこと ② につづく。
※次回はこの大正期以降の露風の活動と母かたのことについて見ていきます。




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参考 『三木露風全集』、 『露風の童謡』、『露風と碧川かた』他

●この記事は山崎郷土会報NO.137 令和3年8月28日付より転載しています。(写真カラー化、一部字句修正あり)




▲的場山頂上の掲示板より 的場山ー城山城のコース(近畿自然歩道)部分





▲的場山からの北部を望む 向こうに亀山(城山城跡)が見える。
※露風はこの山伝いを好み、作詩している。





▲三木露風の生家



▲三木露風 旧邸跡  露風が育った屋敷跡(祖父の家)




▲たつの市の風景    龍野公園展望台から東を望む 
たつの市は播磨の小京都、童謡の里として知られている。


【関連】
☛  三木露風    露風と母かたのこと ②

一枚の写真(郷土の原風景)より
➡養蚕物語1 養蚕の指導・普及
➡養蚕物語2 郡是製糸山崎工場