郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

播磨 上月合戦 ①

2020-02-29 08:58:21 | 城跡巡り
【閲覧数】2,967件(2012.1.10~2019.10.31)




▼上月城周辺図                   




 織田・毛利の2大勢力がぶつかり合う戦場となったのが播磨国佐用郡の上月城です。その戦いの動きを記録にそって追ってみます。


上月合戦 ① 

 天正5年(1577)12月3日上月城を陥れた秀吉は、凱旋の途中龍野で、近江の下村玄蕃充宛てに書状を返しています。そこには上月城攻略の大要が記されてます。



▼秀吉書状 「下村文書」




1) 播磨侵攻

◆天正5年(1577)織田信長は、秀吉に播磨侵攻を命じます。西播磨地域は毛利輝元と織田信長の勢力の境目で、秀吉は次々と播磨の武将を調略させ味方にしました。

◆10月15日、秀吉は御着城主の家臣であった小寺官兵衛(黒田孝高)に対し、七条殿(上月城主赤松七条家)分領や5月の英賀の戦功に対する褒賞を約束しています。官兵衛は、播磨の国人や土豪を説き伏せ、人質をとることに専念します。しかし、西播磨の中の諸豪の一部の備前・美作国に近い上月城周辺の諸城はこれに従わなかった。当時の人質は誓約の保証として一般的であり、官兵衛自身も信長に息子(長政)を人質を出しているからです。 

◆11月1日、毛利輝元はに、秀吉の侵攻を事前に察知し、それに備えるよう美作国人等に命じています。西播磨の土豪や国人は、どちらに組みするほうが自分たちの生活が保障されるか厳しい選択を余儀なくされました。



2)福原城落城

◆11月27日 秀吉は、但馬の諸城を落とすと、熊見川(千種川の古名)を渡り佐用郡の中心部に入ります。郡内には敵対する城が3つ(福原城・上月城・利神城)あり、その1つである福原城に、竹中半兵衛と小寺官兵衛を前線に送り込み福原城下で戦闘になり、落城させました。



3)上月の援軍宇喜多軍との戦い

◆11月28日、秀吉書状の「七条と申す城」とある上月城に対して攻撃目標が移ります。秀吉軍が城の周辺を取り囲むと、上月城の援軍の※宇喜多直道の軍勢3千の兵が駆けつけたため、上月城南麓で戦いが始まりました。攻防の結果、宇喜多軍は背走し、ことごとく打ち取られました。この時の戦いの場所が、上月の円光寺前の佐用川近くにあり、戦(たたかい)という地名が今に残っています。

※宇喜多直家は、毛利と協定を結んでいたので、上月城救援を差し向けたが、この戦いを境に秀吉に接近したため、毛利とは敵対関係になりました。
4)上月城落城

◆12月3日、頼みの援軍は打ち取られ、水の手を奪われた城方は、降伏を申し立てたが、受け入れられず、脱出を防ぐ「かえりししかき」という柵を三重に設けたあと、攻め込まれ、ことごとく打ち取られ、女子供二百人のうち子供は串刺しに、女は磔(はりつけ)として、備前・美作・播磨の国の境目に見せしめとされました。秀吉軍は援軍の宇喜多の戦死者と上月城の犠牲者を葬るための塚を2つ築かせました。 (秀吉書状)  

 敵対していた3つの城の内の最後は、「別所中務(なかつかさ)と申物之城」で、この別所中務は利神城もしくは、麓にある別所構と呼ばれる居館を指すものと考えられています。秀吉は、人質をとり、来年2月までの城を預けることを決めています。

 また、美作の竹山城主(岡山県大原町)とされる新免弾正左衛門(しんめんだんじょうざえもん)が人質を召し連れて出頭してきたため、秀吉は、味方とし、居城させています。その吉野郡・佐用郡・八頭郡の所領を安堵する内容が信長の朱印状が新免無二斎(しんめんむにさい)与えられたようです。
5)戦後処理

◆12月には秀吉は、戦後処理を行い、小寺官兵衛に活躍を称える書状を出しました。また、翌年には上月城の水の手を落とす活躍により、生駒親正(いこまちかまさ)に長浜近くの領地を与えました。

◆12月5日、秀吉は、佐用郡を平定したあと、上月城を尼子勝久に守らせ、龍野に移りました。この尼子氏は、山陰の名門でしたが永禄9年(1566)に毛利元就によって、本拠の月山富田城(がっさんとだじょう:島根県安来市)を落とされ、山中鹿助(幸盛)をはじめとする落ち延びた旧臣が尼子氏の再興のために織田の支援を受け、中国攻めの先鋒として働きました。



参考:『上月合戦~織田と毛利の争奪戦』~」、『上月町史』、他



➡次は上月合戦②
【関連】
播磨 上月城跡

 
◆城郭一覧アドレス

地域の守り・消防④

2020-02-29 08:37:14 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
【閲覧数】1,331件(2011.2.3~2019.10.31)




昭和40年(1965)頃の山崎町内の消防活動

1.出初式(宍粟市山崎小学校運動場)



2.第一機動分団(山崎町役場前)



3、第二機動分団(総道神社前)



 昭和37年(1962)町内の消防団が統合され、58分団で地区を守っていた。
 ちなみに、当時の火災発生件数は

昭和37年(1962)  12件 (建物火災 9、山林火災3)
昭和38年(1963)  14件 (建物火災13、山林火災1)
昭和39年(1964)  15件 (建物火災15、山林火災0)


「やまさき 10周年記念(1965)」より

播磨 上月城跡

2020-02-28 09:46:05 | 城跡巡り
【閲覧数】3,859件(2011.12.26~2019.10.31)




こうづきじょう
上月城跡  佐用町上月



▼南から                        


▼東の山麓より



 
上月城のこと

 佐用町上月は、兵庫県佐用町の西の岡山県境近くにあり、古くから播磨・美作(みまさか)・備前の国境にあった要衝の地に位置しています。その地に上月城と呼ばれる城が2つあります。ひとつは、大平山(たいへいやま)にあるもの、もう一つが、最後の戦いの場となった荒神山の上月城で、ここで紹介する城は、この荒神山の城です。



▼東からの鳥瞰  by google





  南北朝以来、室町、戦国の各時代において中世山城が数多く築城されましたが、上月町(現佐用町)だけでも20箇所も確認されています。ただ、それらの築城の歴史ははっきりしていません。

   上月氏は赤松一族であり、初代上月景盛から盛忠、義景、景満と伝承されていますが、上月氏の一時期の所領は確認できますが、上月氏と上月城とのかかわりを示すものは見当たらないといいます。

 古くから赤松家は播磨・美作・備後の守護職として君臨してきましたが、嘉吉の乱以降、この佐用の上月は山名氏、赤松、尼子等の攻防が繰り返され、天正5(1577)の織田方の秀吉の毛利攻めで、上月城とその周辺で激しい戦いが繰り広げられました。



▼上月城の周辺の城                     



▼上月城周辺の地図




 秀吉にとって、上月城は毛利攻めの最重要拠点でなんとしても落とさねばならない城であり、逆に西の覇者である毛利はそれを許さぬ構えを見せていました。

   織田の天下統一の動きの中で、播磨と美作の境にあたる上月城とその周辺での合戦は、短期間に3度も壮絶な戦火をまじえ落城した城として語り継がれ、当時の模様は最後に勝利した秀吉の記録文書にその子細が残され、また毛利家の文書・吉川家の文書等にも残されています。

(参考:「上月合戦~織田と毛利の争奪戦~ H17」)





アクセス

 国道373号線でJR上月駅南の踏み切りを渡り、少し南を進んだところに、右(西)山裾に上月城跡と看板が掲げられています。

   山麓には、上月歴史資料館が建てられています。車はそこに駐車します。その前の谷川を渡り、登っていきます。



▼上月城跡図 本丸案内板より(一部加筆)





▼ 登山口

 

 登山道は上りやすく整備されています。中腹から東に均整のとれた山が見えます。これが仁位(にい)城跡のある仁位山です。



▼登山道 
                          

▼東に見える二位山

 


 途中から北東に上月の町並みが一望できます。また目の前には初期上月城跡のある大平山が、そびえています。





▼上月の町   



▼北に並び立つ大平山の上月城

 


さらに進むと、堀切があります。堀切を登ると、左手に段差のある曲輪が2つあります。


▼堀切 南から  



▼堀切 横から


▼最初の曲輪




▼本丸の切岸



 この上に、本丸があります。北に向かっておむすび状の形で直径約30mの広さがあります。本丸には、南に向かった墓碑3基が建てられています。



▼本丸                           






 この本丸の南東に曲輪が数段伸び、その先にヤクラ丸があります。今は木々が生い茂って見難いが南方面の展望の好位置にあります。



▼本丸の南  


 
▼ヤクラ丸                     





 本丸から西に続く道を降り、なだらかな細長い尾根筋を進むと二の丸があります 
 この二の丸の北側に解説板があり、山並みの中に見える利神城を示すイラスト図が紹介されていました。播磨天文台はわかりますが、うす曇のため私の目では利神城はわかりませんでした。



▼利神城(佐用町平福)が望める場所



▼利神城のイラスト 播磨天文台は見えたが・・


                       

 細長く延びた二の丸を下っていきます。その先には急な階段が用意されていて、そこを降りてすぐに、堀切があり、少し進むともう一つあります。後方(東)の守りのための大掛かりなものです。






 ▼二ノ丸の下の堀切 






 その堀切を抜けると、次の山に抜ける自然道があり、柊神社を通る全長7キロ(3時間コース)の案内板があります。そこに書かれている目高の築地跡は、城の周辺の守りで築かれたものと言われています。

   その築地跡は、気になりましたが、次の機会にまわすとして、ここから下山のコースを選びました。



▼下山コース 
                        


▼柊神社を通るルートコース

 


 谷あいの杉林の中の登山道を下っていきます。帰りの道筋は城山の北の山麓を引き返すことになり、左下には寄延、目高から流れる谷川に沿いの道に沿って歩きます。
途中、水の手とよばれている谷筋を見ることができます。



▼目高・寄延から流れる谷川              



▼城山の北面の水の手

 


 登山上り口の近くには、合戦で亡くなった武将を弔う供養碑が祀られています。



▼登山口近くの供養碑    




雑感

 秀吉の毛利攻めで、3度も戦いの場となった上月城。上月の円光寺前の佐用川に「戦橋(たたかいばし)」があり、この地に「戦(たたかい)」という地名が今に残っています。それは羽柴軍と宇喜多の援軍との激戦を示した地名だという。

 上月合戦には、敵味方双方の多くの武将の命が散りましたが、上月城内に避難していたであろう村人や女子供に対して秀吉による多くの虐殺がありました。そんな歴史も知った上で、2度目の登城をしましたが、そんな悲惨な思いは今の山城からは感じ取ることはできませんでした。


【関連】
上月合戦①
上月合戦②
福原城

上月の地名由来


◆城郭一覧アドレス

播磨 福原城跡

2020-02-27 09:41:43 | 城跡巡り
【閲覧】7667件(2013.10.6~2019.10.31)

 

 城郭仲間とともに福原城跡に訪れた。本丸や二の丸を一回りするのにもそんなに時間はかからない。城跡は低い丘の平山城で、広い本丸跡は畑地となり、その端に立つと佐用川の南北が見渡せる。この場所は城跡というより佐用川流域を治めてきた政庁的な役割をもった館跡のようにも思えた。


佐用郡周辺の城跡位置図





▼大坪橋から北に向かってのパノラマ写真  左の土手上が城跡




  
▲現在の鳥瞰 (google map)    

     
▲城図(上月歴史資料館展示説明より) 



昭和22年(1947)以降の変化 (国土交通省航空写真) 


▲1947年                                    ▲1975年 

城跡の東側、川沿いに国道が走る 




福原城跡のこと   佐用郡佐用町大坪字福原(現佐用町佐用)  

 佐用川西岸に突き出た丘陵に築かれた標高200m(比高約20m)の平山城。

南北朝の始めの建武年間(1334~38)赤松一族の佐用兵庫介範家が築いたため佐用城ともいわれ、その後福原氏が受け継いだ。福原氏は赤松36家衆の一人で、福原則尚のとき秀吉軍の播磨侵攻による戦いで落城した。




▼宇野氏・赤松氏略系図        





 ▼福原氏系図 (三日月町史より)

  

 



 

▲堀切跡と土塁(南から)     



▲同じ堀切跡(北から) 左に上がると社がある



  

  

▲南から社・本丸を望む        




▲本丸(畑地)から社を望む




 ▲土塁 この上に社がある 


     

▲土塁の上から南東を望む 下の畑地が本丸跡




▲北側の谷間 馬場跡や水堀跡が残る



秀吉軍の播磨侵攻での黒田官兵衛の動き

 黒田官兵衛は、天正3年(1575)6月、御着城主小寺政職の使者として、置塩(おじお)城主赤松則房、三木城主別所長治の叔父、別所重棟(しげむね)と共に秀吉を通じて信長に面会し、中国征伐の先導を約束している。

 天正5年(1577)10月織田信長は毛利攻めのために秀吉を中国征伐の総大将に任じ、播磨と但馬を攻め入るよう命じた。

   官兵衛は秀吉に姫路城を明け渡し、秀吉は姫路城を播磨攻めの本営とした。官兵衛は竹中半兵衛重治等とともに播磨の諸城に出向き織田方につくよう説得を重ね、その約束の担保としての人質をとっていた。同年11月3日に秀吉は播磨一帯を従えたことを信長に報告している。官兵衛自身も、信長に人質として息子松寿丸(長政)を差し出している。



中国征伐の先陣に黒田・竹中軍

 姫路に戻った秀吉は、すぐさま大軍を率いて佐用郡に向かった。佐用郡に織田方に従わない赤松一族がいることがわかったからである。佐用郡は美作・備前に近い交通の要衝であった。当時瀬戸内の制海権は毛利がもっていたため、織田方は毛利討伐には佐用を押さえ内陸部の道を確保する必要があった。秀吉は11月27日官兵衛と竹中半兵衛の3,000余騎を先陣として佐用郡の赤松一族の居城3城(福原城・利神城・上月城)を攻め入った。


その経過が秀吉自身の書状に詳しい。

 佐用郡内の3城のうちの福原城から城兵が出てきたので、黒田・竹中軍が先陣を切り戦闘となり、福原城の兵を数多く討ち取り、秀吉側近の平塚三郎兵衛が城主とその弟を討ち取りひとり残らず討ち果たした。 翌日の11月28日福原城より1里程先の七条という城(上月城)を押寄せ取巻いた。

 ただ、討ち取った福原城主が福原則尚であったかあるいは福原助就であったのか、その裏付けがとれていない。



▼秀吉書状(下村文書)     上月合戦(上月町)より



※黒田官兵衛は御着城主小寺政職に仕え、小寺の苗字を与えられ、一時期小寺官兵衛と名乗っていた



地域伝承

  城主福原則尚は、形勢不利と見て城に火を放って福原氏の菩提寺である高雄山福円寺に逃れ、12月1日一族従士50余人とともに切腹した。その首級を持ち去った従者が秀吉軍に捕まり、首実験されたあと朱詰にして柴谷山頂上に埋葬された。その200年後の明和8年(1771)3月福原の重右衛門が霊夢によって探り当て、旧城跡に葬られた。それが福原霊社で地元で首(こうべ)さんと呼ばれ、頭痛に効く神さんとして信仰されてきた。



▲福円寺にある福原則尚の墓(三日月町史より)


 佐用郡内には赤松一族の数多くの城跡とそれを守る武将たちの名が伝わるが、それを裏付ける資料や文献が極めて少ない。その分伝承や軍記物が残され、戦場での武将の動きまで詳細に語られている。

   ちなみに黒田家の伝記『黒田家譜』では、城主は福原主膳助就とし、その弟が伊王野(いわの)土佐守助光とし、彼らを打ち取ったのは、黒田家臣竹森新次郎次貞とある。

参考:『三日月町史』、『上月合戦(上月町)』、『日本城郭大系』 他



雑 感

「死ぬなれば花の下にと思いしに 師走の花の咲くべくもなく」

 この句碑は、昭和35年4月福原城主藤馬充則尚の400年祭の際、福原氏一族(岡山県勝田郡勝田町大町の子孫)が、福原霊社に建立したものです。勝田町には城主則尚の弟勘解由範仲の墓があるという。

 訳せば「死ぬのは春の花咲く桜の下がいいと思っていたが、師走で死んだのでは花を見ることさえできない」となるでしょうか。先祖が中世の佐用郡福原の地で無念の死をとげたことへの追悼の想いと、この地に名を残した誇りが一族に面々と受け継がれているのではないかと、この辞世の句碑から感じとりました


▼福原霊社 左端に辞世の句碑 

 

※お礼 取材のとき、この城跡近くに住むHさんに親切にお話を聞かせていただき、また資料もいただいたことをお礼申し上げます。


【関連】
上月城


◆城郭一覧アドレス