郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

但馬 加保城跡

2020-05-02 11:40:45 | 城跡巡り
【閲覧数】1,129(2016.9.4~2019.10.31)                                     
 



▲加保集落の背後の丸い山に加保城跡がある   一宮神社前から
 

 
▲加保城 大屋中学校のグランドの背後にある
 
 


 大屋町の諸城を探索し、中世の歴史を見ていくうちに、大屋は戦国末期の藤堂高虎のゆかりの地であることを知った。大屋の加保城と田和城は高虎との縁が深く、この加保城の紹介に併せて、高虎と大屋との繋がりをまとめてみた。
 


 ▲加保城縄張り図 (一部着色) 大屋町史より
 


 
▲山を削った町道が白ぽく浮き出ている (昭和51年航空写真 国土交通省)
 
 


▲加保城・田和城の鳥瞰   by Google Earth


 

加保城跡   養父市大屋町加保
 

 加保城は、加保集落の西側の尾根突端部(標高197.7m、比高55.3m)にある。城域は東西約150m、南北60mあり、最上部の主曲輪から8つの小曲輪が階段状に山裾まで配置されている。加保城の北側で法華寺の背後の高台にある七面山神社も城の一部と考えられている。

 主郭は背後に堀切とその延長の竪堀(幅8m・深さ2~3m・長さ30m)が南山裾の大屋中学校に向けて残され、背後からの侵入を防いでいる。主郭背後の尾根筋先の山頂部には城の遺構はない。主郭と背後の堀切が町道建設と建築物のため破壊されている。

 城主は栃尾氏で栃尾祐善のとき藤堂高虎が小代一揆の平定のため居城としたとされるが、城の改修は見られない。城の位置は、関宮町相地に抜けるルートを押さえている。
 
 

藤堂高虎と大屋
 




 藤堂高虎は弘治2年(1556)近江国犬山郡藤堂村(滋賀県甲良町)に生まれ、浅井氏に仕え、姉川の戦いで初陣を果たした。その後転々と主君を替えながら戦国の世を生き抜き、豊臣秀吉に仕え、但馬攻めで栃尾善次氏の協力を得て小代一揆を押さえ、但馬国美含郡(香住町中野)一色修理大夫の息女(のちの久芳院)と結婚。
 関ヶ原では東軍に入り手柄をたて今治20万石を与えられた。慶長16年(1611)江戸城築城に功績をあげ、伊勢・伊賀22万石で津藩主となり、家康に重用された。加藤清正、黒田孝高(官兵衛)とともに築城の名手でもあった。
 
 その高虎25歳の頃、羽柴秀吉の毛利攻略に伴い天正5年(1577)と天正9年(1581)羽柴秀長に従軍し2度の但馬攻めに加わった。

 伝承では天正8年~天正9年(1580~81)織田方の侵攻に抵抗した但馬最大の小代一揆(美方郡小代村、現在の香美町)に対し、高虎は栃尾氏・居相氏の支援を得て加保を拠点に山間部で幾度かの戦いを制し、手柄を立てたことが伝わっている。『公室年譜略』(1774)、『高山公實録』(1850~1854)
 

秀吉書状にみる小代(おじろ)一揆
 

 小代一揆の記載について、
 〇天正9年(1581)2月但馬をほぼ制圧した羽柴秀吉が因幡鹿野城守備役の亀井茲矩(これのり)に宛てた書状に、鳥取城攻めのため鹿野に兵糧の搬入を伝えるとともに、但馬の一揆をことごとく討ち果たすことを明言している。『羽柴秀吉書状』(亀井家文書)

 〇同年6月八木豊信(若桜鬼ケ城在番)に宛てた書状には、但馬一揆成敗の為に、先発隊として赤松広通、神子田半左衛門(正治)、木下(荒木)平太夫(重堅)の3人を遣わすことを伝え、城の守りと共同行動を命じている。『羽柴秀吉書状』(総持寺文書)

 〇同年9年7月4日、羽柴秀吉の書状には宛所を欠くが、但州七美郡(しつみぐん)の一揆について6月27日姫路を立ち7月1日に因幡口、播磨口の谷入口に兵を入れてことごとく切り捨て、あるいは生け捕り、はた物(磔用の材)を挙げた(磔にした)こと。さらに4~5日逗留し山狩りで残党を成敗したことを事細かく報告している。『羽柴秀吉書状』(正木直彦氏所蔵文書)
 
 上記書状によると小代一揆の顛末は鳥取城攻めの前に制圧され、但馬最後の反織田の抵抗勢力はことごとく一掃された。
 7月5日羽柴秀長・高虎らの別動体が吹上浜(砂丘あたり)に上陸し、7月7日に鳥取城前城の丸山城を取り囲んでいた。『吉川元春書状』(山縣家文書)
 
 その後秀吉は6月9日まで小代に滞在し、因幡に向かって鳥取城東北に位置する帝釈山(太閤ケ原)に12日未明に着陣し、鳥取城攻めは以後籠城3ケ月余りを経た10月下旬、吉川経家の切腹によって終えた。
 
参考:『大屋町史』、『天正9年鳥取城をめぐる戦い』(鳥取市博物館やまびこ館編)
 



 アクセス

 
 



  城探索には町道を使い主郭まで行き、主郭から下に降りていく方法と、山裾から上っていく方法があるが、比高はわずか60m足らずなのでどちらでも可能ですが、主郭の下が急なので山裾から登るのが安全でしょう。
 
 蔦のからまった建物の間の細い路地を進むと山裾にフェンスがあるので開けて入る。
途中山裾を左に入っていく。
 


 
▲細い路地を進む                     ▲山裾左に入っていく


 
登り始めてすぐに、20cmほどの川石を使った石積みのある曲輪跡が段階状に現れる
 

         
 

 
▲曲輪に川石の石積みが組まれている




▲北側の竪堀




▲主郭以外では最も大きい曲輪跡 (縄張り図4 31m×23.7m)
 
 
 
 主郭の下はかなりの急こう配になっている。それを登り切ると、物置の裏あたりに出る。


 
 
▲主郭の下の急勾配     




主郭のあった場所は道路と建物で広い平地となり、主郭の背後にあった堀切・竪堀もは消失している。道路の延びている尾根筋の頂上には城跡はないという。





▲主郭は道路と作業建築物で改変されている
 
 


▲この物置の裏あたりに出る。
 


主郭へは、大屋中学校の前の町道を山に向かって時計回りですぐである。
 
 

 
▲大屋中学校前の道を左に進む          ▲ミズバショウ公園の案内板がある。
 


城の一部がある七面山神社へ向かう
 

 七面山神社の登り口は法華寺境内の左奥にある石階段を登るとすぐである。この道は神社の参道としてできたものだと思われ、城であった頃は尾根筋から登っていたのだろう。
 


 
▲法華寺                         ▲境内の左奥が登り口
 


 
▲神社近く                    ▲七面山神社
 

 

▲神社下の尾根筋
 


 
藤堂高虎公ゆかりの郷 
                       
 
 
 ▲あゆ公園入口に建てられている藤堂高虎の記念碑








雑 感 
 
 藤堂高虎については伊予宇和島城に行ったときに、高虎が天守を築城したことを知る。また、黒田官兵衛が豊前(大分)にいた時、高虎に書状を出していることで二人の繋がりも知った。

 その高虎が二十台半ばの時、但馬制圧と小代一揆に対し大屋を中心に活躍し但馬大屋が出世の地であったこと知り、歴史は身近なところと繋がりを持っていることをつくづく感じている。
 
 小代と大屋は十数里の距離があり、小代勢が大屋まで押し寄せたことや、小代勢に寝返った瓜原氏等が大屋の蔵垣・筏や大杉で高虎と戦ったという伝承がある。一方小代に伝わる地域伝承では天正5年高虎が小代を攻めそれを撃退したと伝えている。

 小代の一揆の勢力は山間の地の利を得た武士団と小代周辺の武士団との連携があり、その制圧は一筋縄ではいかなかったようだ。最終的には秀吉率いる本隊が因幡・但馬の郡境や小代谷の囲い込みによって終息するのだが、その結末は凄惨であった。

 秀吉は因幡鳥取城の戦いに向けて進軍や兵站ルートの障害となる輩を徹底的に排除し、織田に歯向かう者への見せしめとしている。
 
 但馬の自然豊かな小代にこのような戦国期の歴史が残されていることを大屋の歴史から知ることになったが、いつか行く機会があれば但馬で最後まで抵抗した小代武将の根城を一度は見てみたいとこの時思った。


【関連】
・蔵垣城跡 
・大杉城跡
・田和城跡 

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